赦されて生きる
キリスト者たちが体験したことは、神様に赦されて生きるということだ。私は、特に、牧師になってからこの意識を強く持つようになった。自分などは牧師と呼べるような者ではないとつくづく思う。そういった意味で、バプテストの牧師には、資格などないというのは、実にありがたい話である。
私もまた、他の信徒の皆さんと何ら変わることのない人間である。優しさも親切さも、普通なのではないか。違うのは、強いて言えば、神様から牧師と立つようにと召命感をいただいたことぐらいである。そして、おそらく、牧師の誰もがこれだけで立っている。そして、その思いを教会に認めていただいて。そうでなければ、やりたいからやっているということにしかならない。
先日、一週間に下血が二度ほどあって、いよいよ私も神様からここらでよい、と言われているのかと思った。それにしても、ここで辞めるのは、余りにも無責任だろうなあと、申し訳なく思ったりもした。でも神様の御心であるなら致し方ない。病院で内視鏡検査したところ、内痔ということだった。まだまだ、働きが足りないということか。ここ数年、私も随分ともがき苦しんでいるのだが、それでも足りない、ということのようだ。
神様がハイそこまでと言われるまでは、与えられた職務に励む以外にない。何の資格もないバプテストの牧師は、神様に、そして、信徒の一人一人に赦されてその務めを果たしているに過ぎないことがよくわかる。
平良 師