彦根市最南端の町・新海町には2つの城がありました。
一つは新開館。
そしてもう一つはこの写真の地・新海城(大浦城)です。
新開館の当主は山崎氏の支流・新開氏が住んだ場所でした。
戦国時代中期の天文~永禄年間(1532~70)には新開源兵衛尉家郷とその息子・源内が六角義賢に仕えて新海町(新開村)の地頭となっていました。
一方、新海城は比叡山延暦寺の山徒・岡田千甚坊が新開家郷と同じ時期に城を築城したのです。
新海城は大きな堀と高い土塁で囲み、門前には石壁もあったと言われています。
この2城の城主はお互いの所領権を巡って争いを続けたのです。
永禄元(1558)年正月、岡田千甚坊は村人と共に新開館を襲って新開家郷・源内を殺害しました。しかしこれに怒った六角義賢が兵を挙げて岡田千甚坊を討ち取ったのです。
新開家は源内の息子・源右衛門が山崎賢家に仕えたと言われています。
なお、古い彦根の記録には新開村屋敷主新開源之丞という名前が残っています。
一つは新開館。
そしてもう一つはこの写真の地・新海城(大浦城)です。
新開館の当主は山崎氏の支流・新開氏が住んだ場所でした。
戦国時代中期の天文~永禄年間(1532~70)には新開源兵衛尉家郷とその息子・源内が六角義賢に仕えて新海町(新開村)の地頭となっていました。
一方、新海城は比叡山延暦寺の山徒・岡田千甚坊が新開家郷と同じ時期に城を築城したのです。
新海城は大きな堀と高い土塁で囲み、門前には石壁もあったと言われています。
この2城の城主はお互いの所領権を巡って争いを続けたのです。
永禄元(1558)年正月、岡田千甚坊は村人と共に新開館を襲って新開家郷・源内を殺害しました。しかしこれに怒った六角義賢が兵を挙げて岡田千甚坊を討ち取ったのです。
新開家は源内の息子・源右衛門が山崎賢家に仕えたと言われています。
なお、古い彦根の記録には新開村屋敷主新開源之丞という名前が残っています。