
江戸城天守閣
明暦3(1657)年1月18日、振袖大火が起こり三日二晩の間、江戸の町を焼き続けて19日には江戸城天守閣も焼失します。
さてここで問題、日本史の中で一番大虐殺を行ったのは誰でしょうか?
長島攻めの織田信長ですか?
それとも延暦寺の時?
実は違います・・・
織田信長以上に大虐殺を行ったのは江戸幕府八代将軍・徳川吉宗です。
でも吉宗は自分の欲の為に多くの民衆を後世まで殺し続けましたが、故意ではありませんでした。
もし、故意に大量虐殺を行った人間を挙げるなら、振袖大火の話をしなければならない事になります。
○まずは、火事が起こった原因から・・・
“承応4(1655)年に梅野という女性が恋の病で1月16日に亡くなります(享年17歳)。寺は梅野と一緒に収められた振袖(梅野が恋しい男の着物を真似て作った物)を古着屋に売ったのです(当時の常識なので問題はありません)。
翌明暦2(1656)年の1月16日におきの(17歳)が亡くなった時にもその振袖収められました、そして寺はまた売ったのです。
次の明暦3(1657)年1月16日おいく(17歳)の時にもその振袖が来たので、驚いた本妙寺の住職は三人の娘の遺族を呼んで大施餓鬼を行う事にしたのでした、それが1月18日だったのです。
三家の遺族の集まる中で火の中に投じられた振袖はおりからの北西の空っ風に煽られて火が付いたまま本堂の高所に飛んで行き建物全体に広がった…”
というのです、しかしこれは実際の話ではないのです。
後の天和2(1682)年12月28日に『八百屋お七火事』で3500人が犠牲になった時に、「この火事でお七のような物語があるのだから、三日二晩燃え続け10万人を犠牲にし江戸城天守閣を失わせた火事には何か云われがあるだろう」と江戸庶民が考え出した話なのでした。
ではなぜ本妙寺から出火したのか?ですが、これは作為的な放火だと言われています。
『加賀藩資料』と『徳川実紀』の中で有賀藤十(五)郎という不審者が居たことを伝えているのです。
また、別の資料には、本堂に火が付いて燃えていくのを「運命だから」と言って住職が放置したという話も残っています、しかも火元の本妙寺は何の罰も受けず10年後には寺格を上げているくらいなんです。
いくらなんでも寺が燃えるのを達観的に見つめる住職や、失火を行った寺の格を上げる権力者って常識では考えられませんよね。
ここから浮かび上がる結論は何かと言えば、本妙寺は権力者の指示で燃えたということです。
その権力者は?といえばこの時期には二人しかいないと考えられます。その二人とは保科正之(三代将軍・家光の異母弟)と松平信綱でしょう。
でも保科正之はその人柄や後の動きからも無関係ではないかと考えれますが、松平信綱は怪しいのです。
信綱は、19日に新たに出火して江戸市中が燃えている時に江戸城天守閣の二階の窓を開けさせるように命じているのです。そこから火が入り天守閣も燃え落ちたのでした。
○では、動機は?
慶安4(1651)年7月29日一つの事件が起きます、『慶安の変(由比正雪の乱)』と呼ばれる浪人の反乱未遂事件でした。
この時多くの浪人達が処刑されましたが、まだ江戸には沢山の浪人達がうろうろしていて、いつ第二第三の由比正雪が現れるか解らない状態でした、その上、慶安の変の生き残りも居たと考えられるのです、そんな浪人達は幕府の頭痛の種だったのでした…
加えてこの頃から幕府は財政難に陥り始めました。三代将軍・家光の浪費が原因だったのです。特に戦争の役にも立たない江戸城の天守閣の維持費は馬鹿にならなかったのです。
また、海辺の片田舎だった江戸の町は発展はしたのですが計画性のない広がりだったので大都市に発展するためには大きく区画をやり直す必要が出てきたのでした…
この問題を一度に解決するにはどうするか?
答えは簡単ですね全部燃やせば良いんです。
そして18日に火が付いた。ただこの日は肝心な物が焼けなかったのです。江戸城天守閣…
そのために19日も火が付きました、そして天守閣は二階の窓が開いていた為に中に火が入りあっという間に燃えたのです。そこを開けさせたのは松平信綱でした。
こうして江戸は彼の指示の下で大都市へと発展していくのです。
ちなみにこの事件が切っ掛けとなり火付盗賊改方が創設されたのでした。
○その後
結局江戸城天守閣はその後再建される事はなかったのでした。
これは松平信綱よりも保科正之の手腕だったのです。振袖大火の後すぐに開かれた老中会議で信綱は都市計画案を次々と発案します、しかし他の老中達の一番の感心は江戸城天守閣再建計画だったのでした。
これを聞いた保科正之は老中達を怒鳴りつけたと言います、普段は温和な人として知られる正之の一括で天守閣再建は永遠に無くなったのです、そしてこの後は今日に至るまで江戸城天守閣は再建されていません。
正之は、信綱の都市計画に修正を加え火除け地の設置や町火消し制度の確定(これが世界で最初の整備された消防隊)。また目安箱の設置をして町人の声を聞くようにもしました。
こうして松平信綱の思惑にそりながら、保科正之がより安全な都市として出来た江戸は人口が急増しながらも振袖大火を超える犠牲者をだす火事は起きなかったのです。
しかし、このために亡くなった江戸市民は10万人にもおよんでいます。これは信長の長島での大量虐殺の5倍の数なのです。
故意に大量虐殺を行った最大の人間は、『知恵伊豆』として有能な官吏のイメージを歴史に残す松平信綱なんです。
さて、こういった大事件を取り上げる時、ではこの事件と彦根藩の関連は?
と言うことになりますね。
この時の藩主は2代・井伊直孝でした、そして嫡子・直滋が後継ぎとして大いに活躍していた時期だったのです。
明暦大火の時、江戸に居た直孝は将軍・徳川家綱へ拝謁するため江戸城に向かいました。この時、備後三次藩(3万5千石)藩主・浅野長治の行列と鉢合わせになったのです。
周囲には火の粉が舞い、両家の行列の供侍は木綿羽織を着ていたために服に付く火の粉を払うのに手一杯で騒然となっていたのでしたが、直孝と長治は皮羽織を着ていた為に火の粉で服が焼ける心配が無かったのでした。
この話が始まりとなって、火事の時に皮羽織を着るようになり、これが火事装束となったのです。
こんな所にも井伊家は関係してくるんですね。
明暦3(1657)年1月18日、振袖大火が起こり三日二晩の間、江戸の町を焼き続けて19日には江戸城天守閣も焼失します。
さてここで問題、日本史の中で一番大虐殺を行ったのは誰でしょうか?
長島攻めの織田信長ですか?
それとも延暦寺の時?
実は違います・・・
織田信長以上に大虐殺を行ったのは江戸幕府八代将軍・徳川吉宗です。
でも吉宗は自分の欲の為に多くの民衆を後世まで殺し続けましたが、故意ではありませんでした。
もし、故意に大量虐殺を行った人間を挙げるなら、振袖大火の話をしなければならない事になります。
○まずは、火事が起こった原因から・・・
“承応4(1655)年に梅野という女性が恋の病で1月16日に亡くなります(享年17歳)。寺は梅野と一緒に収められた振袖(梅野が恋しい男の着物を真似て作った物)を古着屋に売ったのです(当時の常識なので問題はありません)。
翌明暦2(1656)年の1月16日におきの(17歳)が亡くなった時にもその振袖収められました、そして寺はまた売ったのです。
次の明暦3(1657)年1月16日おいく(17歳)の時にもその振袖が来たので、驚いた本妙寺の住職は三人の娘の遺族を呼んで大施餓鬼を行う事にしたのでした、それが1月18日だったのです。
三家の遺族の集まる中で火の中に投じられた振袖はおりからの北西の空っ風に煽られて火が付いたまま本堂の高所に飛んで行き建物全体に広がった…”
というのです、しかしこれは実際の話ではないのです。
後の天和2(1682)年12月28日に『八百屋お七火事』で3500人が犠牲になった時に、「この火事でお七のような物語があるのだから、三日二晩燃え続け10万人を犠牲にし江戸城天守閣を失わせた火事には何か云われがあるだろう」と江戸庶民が考え出した話なのでした。
ではなぜ本妙寺から出火したのか?ですが、これは作為的な放火だと言われています。
『加賀藩資料』と『徳川実紀』の中で有賀藤十(五)郎という不審者が居たことを伝えているのです。
また、別の資料には、本堂に火が付いて燃えていくのを「運命だから」と言って住職が放置したという話も残っています、しかも火元の本妙寺は何の罰も受けず10年後には寺格を上げているくらいなんです。
いくらなんでも寺が燃えるのを達観的に見つめる住職や、失火を行った寺の格を上げる権力者って常識では考えられませんよね。
ここから浮かび上がる結論は何かと言えば、本妙寺は権力者の指示で燃えたということです。
その権力者は?といえばこの時期には二人しかいないと考えられます。その二人とは保科正之(三代将軍・家光の異母弟)と松平信綱でしょう。
でも保科正之はその人柄や後の動きからも無関係ではないかと考えれますが、松平信綱は怪しいのです。
信綱は、19日に新たに出火して江戸市中が燃えている時に江戸城天守閣の二階の窓を開けさせるように命じているのです。そこから火が入り天守閣も燃え落ちたのでした。
○では、動機は?
慶安4(1651)年7月29日一つの事件が起きます、『慶安の変(由比正雪の乱)』と呼ばれる浪人の反乱未遂事件でした。
この時多くの浪人達が処刑されましたが、まだ江戸には沢山の浪人達がうろうろしていて、いつ第二第三の由比正雪が現れるか解らない状態でした、その上、慶安の変の生き残りも居たと考えられるのです、そんな浪人達は幕府の頭痛の種だったのでした…
加えてこの頃から幕府は財政難に陥り始めました。三代将軍・家光の浪費が原因だったのです。特に戦争の役にも立たない江戸城の天守閣の維持費は馬鹿にならなかったのです。
また、海辺の片田舎だった江戸の町は発展はしたのですが計画性のない広がりだったので大都市に発展するためには大きく区画をやり直す必要が出てきたのでした…
この問題を一度に解決するにはどうするか?
答えは簡単ですね全部燃やせば良いんです。
そして18日に火が付いた。ただこの日は肝心な物が焼けなかったのです。江戸城天守閣…
そのために19日も火が付きました、そして天守閣は二階の窓が開いていた為に中に火が入りあっという間に燃えたのです。そこを開けさせたのは松平信綱でした。
こうして江戸は彼の指示の下で大都市へと発展していくのです。
ちなみにこの事件が切っ掛けとなり火付盗賊改方が創設されたのでした。
○その後
結局江戸城天守閣はその後再建される事はなかったのでした。
これは松平信綱よりも保科正之の手腕だったのです。振袖大火の後すぐに開かれた老中会議で信綱は都市計画案を次々と発案します、しかし他の老中達の一番の感心は江戸城天守閣再建計画だったのでした。
これを聞いた保科正之は老中達を怒鳴りつけたと言います、普段は温和な人として知られる正之の一括で天守閣再建は永遠に無くなったのです、そしてこの後は今日に至るまで江戸城天守閣は再建されていません。
正之は、信綱の都市計画に修正を加え火除け地の設置や町火消し制度の確定(これが世界で最初の整備された消防隊)。また目安箱の設置をして町人の声を聞くようにもしました。
こうして松平信綱の思惑にそりながら、保科正之がより安全な都市として出来た江戸は人口が急増しながらも振袖大火を超える犠牲者をだす火事は起きなかったのです。
しかし、このために亡くなった江戸市民は10万人にもおよんでいます。これは信長の長島での大量虐殺の5倍の数なのです。
故意に大量虐殺を行った最大の人間は、『知恵伊豆』として有能な官吏のイメージを歴史に残す松平信綱なんです。
さて、こういった大事件を取り上げる時、ではこの事件と彦根藩の関連は?
と言うことになりますね。
この時の藩主は2代・井伊直孝でした、そして嫡子・直滋が後継ぎとして大いに活躍していた時期だったのです。
明暦大火の時、江戸に居た直孝は将軍・徳川家綱へ拝謁するため江戸城に向かいました。この時、備後三次藩(3万5千石)藩主・浅野長治の行列と鉢合わせになったのです。
周囲には火の粉が舞い、両家の行列の供侍は木綿羽織を着ていたために服に付く火の粉を払うのに手一杯で騒然となっていたのでしたが、直孝と長治は皮羽織を着ていた為に火の粉で服が焼ける心配が無かったのでした。
この話が始まりとなって、火事の時に皮羽織を着るようになり、これが火事装束となったのです。
こんな所にも井伊家は関係してくるんですね。