彦根市街地から、多賀に向かう途中を山の方へ向かうと、少し小高い所にあるのが野田山金毘羅宮です。
ここには元々、慈眼寺(じげんじ)という天台宗のお寺が建っていました。その歴史はとても古く、今から1200年以上前に行基が作ったとされる十一面観世音が奉られていて、その十一面観世音の前に行基が記念に植樹したとされる三本の杉が天高く伸びていて、周囲にお住まいの方からは“金毘羅さんの三本杉”として親しまれていて、滋賀県指定自然記念物となっています。
そんな貴重な歴史を持つお寺なのですが、戦国時代に織田信長が近江国内の寺院を焼き払った時に燃やされてしまったのです。
江戸時代中期の宝永元(1704)年に荒廃していた寺を堅央慧練が曹洞宗の寺院として復興させたのです。
延享元(1744)年この時の慈眼寺の和尚・夢庵徹聡は、済民救国の強い願いを持っていました。
ある日、白髪の老人のお告げがあって、讃岐象頭山金毘羅宮(現・金刀比羅宮)に参篭します。そして37日間の祈願を行った後に、霊験を受けることができて、金比羅大権現御尊像を慈眼寺に持ち帰ったのです。
“山の中でも野田金毘羅は病厄よけあらた神”とも詠われた由緒正しい金毘羅さんなのですが、病や厄除け以外にも航海の神様だったのです。
彦根かるたにも“野田山に 船の神あり 金毘羅宮”と詠われています。
地図で野田山金毘羅宮を探してみると、冒頭でもお話しました通り、市街地よりも山に向かうくらいで、船の神様が祀ってあるようには思えません。
しかし、実際に野田山金毘羅宮に登ってみると、今でこそ新幹線の高架がその視界を狭めていますが、昔なら綺麗に琵琶湖を見渡すことができたのだろうと予想されます。
讃岐国(香川県)の金毘羅宮は海の神様として信仰されていて、金毘羅参りをしたくてもできない人が、「こんぴら樽」と呼ばれる空き樽に初穂料を入れて海に流し、拾った人が代参するという習慣があったそうです。
琵琶湖を望む野田山の金毘羅さんは、近江の海を見守って下さっているんでしょうね。
また、彦根城近くの立花通りにも「金毘羅社」があり、この道は江戸時代に中山道から彦根城下を結ぶ脇街道で、琵琶湖から上がった物資を中山道に運ぶ役割もあった事を考えると、琵琶湖を結ぶ重要な交通の神様としての位置付けがされていたのかも知れませんね。
ここには元々、慈眼寺(じげんじ)という天台宗のお寺が建っていました。その歴史はとても古く、今から1200年以上前に行基が作ったとされる十一面観世音が奉られていて、その十一面観世音の前に行基が記念に植樹したとされる三本の杉が天高く伸びていて、周囲にお住まいの方からは“金毘羅さんの三本杉”として親しまれていて、滋賀県指定自然記念物となっています。
そんな貴重な歴史を持つお寺なのですが、戦国時代に織田信長が近江国内の寺院を焼き払った時に燃やされてしまったのです。
江戸時代中期の宝永元(1704)年に荒廃していた寺を堅央慧練が曹洞宗の寺院として復興させたのです。
延享元(1744)年この時の慈眼寺の和尚・夢庵徹聡は、済民救国の強い願いを持っていました。
ある日、白髪の老人のお告げがあって、讃岐象頭山金毘羅宮(現・金刀比羅宮)に参篭します。そして37日間の祈願を行った後に、霊験を受けることができて、金比羅大権現御尊像を慈眼寺に持ち帰ったのです。
“山の中でも野田金毘羅は病厄よけあらた神”とも詠われた由緒正しい金毘羅さんなのですが、病や厄除け以外にも航海の神様だったのです。
彦根かるたにも“野田山に 船の神あり 金毘羅宮”と詠われています。
地図で野田山金毘羅宮を探してみると、冒頭でもお話しました通り、市街地よりも山に向かうくらいで、船の神様が祀ってあるようには思えません。
しかし、実際に野田山金毘羅宮に登ってみると、今でこそ新幹線の高架がその視界を狭めていますが、昔なら綺麗に琵琶湖を見渡すことができたのだろうと予想されます。
讃岐国(香川県)の金毘羅宮は海の神様として信仰されていて、金毘羅参りをしたくてもできない人が、「こんぴら樽」と呼ばれる空き樽に初穂料を入れて海に流し、拾った人が代参するという習慣があったそうです。
琵琶湖を望む野田山の金毘羅さんは、近江の海を見守って下さっているんでしょうね。
また、彦根城近くの立花通りにも「金毘羅社」があり、この道は江戸時代に中山道から彦根城下を結ぶ脇街道で、琵琶湖から上がった物資を中山道に運ぶ役割もあった事を考えると、琵琶湖を結ぶ重要な交通の神様としての位置付けがされていたのかも知れませんね。