彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

11月15日、『近江屋事件』

2006年11月15日 | 何の日?
慶応3(1867)年11月15日、一ヶ月前に大政奉還が行われ世情が混乱していた京の町で一つの事件が起きました。
坂本竜馬・中岡慎太郎暗殺事件…後に“近江屋事件”と呼ばれ、今なお多くの歴史愛好家の興味を引いているこの事件。
未だに謎が多い事件ですので、多くの歴史家が研究していますね。

まず、経緯からご紹介しましょう。

近江屋に入る前、坂本竜馬は海援隊の京都の拠点としていた材木商・酢屋で寝泊りしていたが、土佐藩が竜馬の身を案じて藩邸前の近江屋への移動を薦め、近江屋の土蔵に隠れたと言われています。その土蔵からは裏の誓願寺境内へ抜けられるようになっていたそうです。
11月13日、元新撰組参謀で新撰組から独立していた伊東甲子太郎が新撰組に狙われている事を忠告している・・・
14日に風邪をひいた竜馬は母屋の二階に移ります。この時近江屋で竜馬の近くにいたのは近江屋主人・井口新介とその家族、竜馬の世話をしていた元力士・山田藤吉でした。普段の竜馬なら同志を一人は連れているものなのに、この時は誰も居なかったのは不思議ですね。
15日、午後3時と5時に近江屋の隣り大和屋で下宿している土佐藩重臣・福岡孝悌を訪ねるが不在だったそうです、そこで孝悌の愛人に手紙を預けました、孝悌は帰ってそれを読み近江屋に行こうとしますがその愛人に止められて難を逃れる。
6時頃に陸援隊隊長で土佐藩士・中岡慎太郎が近江屋にやって来て竜馬と相談を始めたのでした。
この時点ではまだ、事件の気配は無い・・・

7時頃、中岡慎太郎に伝言があるとして近所の書店『菊屋』の小僧・峯吉がやって来て、そのまま藤吉と遊び始めます。
少し後に土佐藩横目付・岡本健三郎がやって来て竜馬達の相談に加わりました。
8時過ぎに竜馬が「腹が減ったから軍鶏が食べたい」と言い、慎太郎が賛成したので健三郎を誘ったが、恋人に会いに行くために帰る事になり健三郎も命拾いをします。
藤吉が健三郎と一緒に出て軍鶏を買いに行こうとしますが、峯吉の方が足が速いので峯吉が健三郎と共に近江屋を出ます。
こうして竜馬の周りには中岡慎太郎と山田藤吉だけが残ったのです。
峯吉が軍鶏を買い出てすぐの事、近江屋に松代(十津川)郷士と名乗る人物が竜馬に面会を求めて一階で取り次いだ藤吉に名札を渡すと、藤吉は階段を上り始めました。
その様子から竜馬が二階にいると判断した刺客は藤吉を後ろから斬捨て、外にいた複数の仲間と一緒に階段を駆け上がったのです。
この時刺客の一人が食事中だった主人・井口新介の家族に刀を向け大人しくさせたそうです。
この刺客の駆け上がる音を聞いた竜馬は藤吉が暴れてると思い「ほたえな(騒ぐな)」と叫ぶ、その直後に部屋の襖が開いた。

刺客は藤吉を斬った刀を鞘に収めていて、火鉢を囲んでいる二人のどちらが竜馬か分からなかったので、「坂本先生お久しぶりです」と頭を下げた。
すると一人(つまり竜馬)が振り向き「はて?どなたでしたかな」と首を傾げたのです。
振り返った竜馬を見て確信した刺客は「こなくそ!」と叫び刀を抜きざまに竜馬の前頭部を払った竜馬の額が割れ脳漿が飛び散った。
竜馬は慌てて刀を持とうとしたが身から離してた為にすぐに取れず背中を向けた所を斬られ、振り向きざまに上からの攻撃を鞘ごと受けて防いだがそのまま振り下ろされて頭に致命傷を受けて倒れた。
その間、中岡慎太郎はやはり刀を取ろうとして背中を斬られ、結局刀は取れず脇差を抜こうとして抜けず、鞘ごと抜いて防いだが腿を始め12ヶ所を斬られた。
二人が倒れ斬られるままになると刺客の一人が「もういい、もういい」と言って全員が去って行ったと伝わっています。
刺客が去った後、竜馬は立ち上がり慎太郎を見て自分よりも深手と感じて下の階に声を掛けて医者を呼ばせようとしたが大声が出なかった。
やがて壁にもたれて座り込み刀に自分を映して見ると脳が出てる事が分かり「俺は脳をやられてる、もうダメだ」と言うと倒れこんでそのまま死亡しました、享年33歳この日は竜馬の誕生日だったのです。
ちなみに諸資料では竜馬の死は16日になっているのが多いがその理由は未だに分かっていません。

竜馬が倒れた後、慎太郎は助けを求めようとして刺客が来た階段と逆の物干し台に出てそれを越え、屋根伝いに隣家の屋根まで体を引き摺っていきそこで意識を失った。
刺客達は引き際に薩摩弁を話た者が居たと土佐海縁隊士・中島信行が近江屋の者から事件直後に聞いています。

さて、全てが終わり静まり返った近江屋二階に最初に入ったのは軍鶏を買いに行っていた峯吉でした。
峯吉は軍鶏を買いに行った鳥新という店で軍鶏を潰すのに20分程待たされたそうで、この時間がそのまま犯行時間と考えられています。
峯吉が近江屋に戻ると、戸口が開いていて見慣れない下駄が置いてあり、一人の侍が刀を抜いて立っていた。
その侍は土佐藩足軽・島田庄作で、彼は峯吉に「竜馬が斬られた、賊はまだ二階に居るので下りて来たら斬る」と言ったそうですが、峯吉は信じられなかった。しかし、二階に行く階段の途中で藤吉の唸り声が聞こえ、恐る恐る血だらけの階段を上がり藤吉を発見し、二階まで上がった奥の間で竜馬が、隣家の屋根で慎太郎が倒れていたそうです。
峯吉はこの時に竜馬の近くで刀の鞘を発見している。

竜馬達を発見した峯吉は一階の島田庄作と近江屋主人の家族を呼び、慎太郎を奥の間まで運んで寝かせました。
慎太郎は焼飯を所望して食べたそうです。
すぐに向かいの土佐藩から二人の藩士がやって来て慎太郎の手当てを始め、直後にまた土佐藩邸から谷干城と毛利恭助がやって来て慎太郎に事件の様子を聞いている。
その間に峯吉は慎太郎が隊長を勤める陸援隊詰所に馬で行き田中顕助(後の光顕)に知らせ顕助は薩摩藩士一人を連れて近江屋へ急行してやはり慎太郎から事件経過を聞いたのだった。
慎太郎の記憶では奥の間に来た刺客は二人だったらしいです。
16日、山田藤吉死亡
17日、中岡慎太郎死亡
以上の経過は干城と顕助が慎太郎より聞いた話を元に纏められた報告です。


さて、この経緯に中には色々な暗示が入っていて、従来良く語られている新撰組実行犯説・京都見廻組実行犯説以外にも、土佐藩が黒幕だったと言う説・薩摩藩が黒幕だった説や、伊東甲子太郎が怪しいと言う説、『壬生義士伝』で浅田次郎さんが展開した斎藤一単独犯説などが語られています。
管理人自身は、周防のテロリストで大村益次郎を襲撃した神代直人だと思っているのですが、この辺りは彦根と全く関係が無いですよね。

では、なぜ今回、近江屋事件を紹介したのかと言うと、平成15年に『龍馬暗殺に彦根藩が関与?』という記事が話題になった事があったからです。
京都市内で会津藩士・手代木直右衛門が彦根藩金奉行・石黒伝右衛門に宛てて送った密書が見つかり、内容は実行犯とされている京都見廻組の佐々木只三郎の兄が事件直後、彦根藩の重臣と会談しようとしたことが書かれているそうで、その中の日付が11月16日(ただし年の記入が無い)だったと言うことです。
桜田門外の変より前は、彦根藩が京都守護職を務めていました。新撰組の管理をした事で有名な会津藩は、桜田門で井伊直弼が暗殺された為に彦根藩が京都守護の役職を降ろされた為に後を引き継いだ形となっていたのです。
ですから、会津藩が彦根藩に密書を送る事に不思議さは無いのですが、それがそのまま彦根藩が龍馬暗殺に関わっていたと考えるのは的外れなのかもしれませんね。

真相は歴史の闇の中ですが・・・


ふ~今回は長文でした。
コメント
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