彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

2月15日、堺事件と切腹の作法について

2009年02月15日 | 何の日?
慶応4年(1868)2月15日、堺で土佐藩士がフランス水兵に斬りかかりフランス側に即死2名・溺死7名・負傷7名の犠牲が出るという事件が起こりました。
歴史上“堺事件”と呼ばれる騒動ですが彦根とは全く関係がありません。しかし、井伊直弼が「開国」という決断を行った後に日本が世界の中で生きる為にこういう結果をも生んだという意味で、『井伊直弼と開国150年祭』開催中の今だからこそ取り上げられる話の一つとしてご紹介します。

実は開国後には、これくらいの事件は日常茶飯事に起こっていた事なのですが、この後の経過が「日本人=ハラキリ」という図式を海外の人に示すことになります。
その紹介のついでに、日本史の中で度々行われる切腹について書いていこうと思います。


まずは堺事件の経過ですが・・・
翌日にフランス側から被害者の引渡しと、犯人の死刑要求が出されます。
当時は明治新政府が鳥羽伏見の戦いで勝利を収めてから1ヶ月しか経過しておらず、諸外国を怒らせる事を恐れた政府はこの要求をのむ事にしたのです。
実行犯は25名でしたがその内20名がくじ引きで選ばれ(おいおい・・・)士分の名誉を重んじてフランス人立会いの元で切腹する事となりました。

2月23日、堺・妙国寺で切腹が行われます。
まず1人目が「自分が死ぬのはおまえらのためではない、皇国のためである。日本男子の切腹を見よ」と叫び十文字に腹を切って内臓を引き出してフランス人に投げつけたのです。
その後も次々に行なわれるハラキリと、それを冷静に見つめる他の日本人に恐怖を覚えたフランス人の立会人は11人の切腹が終わった時点で席を退出してしまったのでした。
一人一人が黙々と腹を切って首が飛ばされるシーンは確かに恐ろしいものかもしれないですね。
こうして、切腹は海外でも「ハラキリ」として知られている日本の習慣(?)となります、腹を切る事に比べるともっと凄惨で壮絶な自殺方法は海外でも沢山あるのに、日本のハラキリだけが自殺の中でも特に有名な行為になったのはこの為なんです。



では、ここからが本題


○切腹は何故腹を切るのでしょうか?

死に易いからという事は絶対ありません。
例えば『壬生義士伝』の影響で新撰組隊士として急に有名になった吉村貫一郎は、大坂南部藩蔵屋敷で切腹した時、腹を切っただけでは死ねず目を突き喉も突いてなお苦しんで部屋のかなを七転八倒したと伝えられています(ただしこの話自体がフィクションとも言われてますが)。
江戸中期の高山彦九郎は夜の早い時間(多分6~9時頃)に腹を横一文字に切り、その後医者が来て腸を詰めて腹を縫い直す処置を施した事もあり、翌朝の9時まで生きていました。
その間、話をしたりできて脳の方はしっかり機能していたのですから何とも残酷な話ですよね。


○切腹はなかなか死ぬ事が出来ない方法なのに、なぜよく行われたのでしょうか?

これには幾つかの説があります。
1.腹黒いという言葉に対し、腹を切って見せる事で黒くない事を示す行為。
2.苦痛に耐える事で自己顕示欲を満たせるという思想。
3.腹には人間の霊魂・感情が宿ると信仰されていたから(新渡戸稲造説)
などが一般的に唱えられているのです。
幕末には特に2の要素が志士の間で強くなっていき、立ったまま腹を切る者や、わざと長く苦しむように工夫を凝らす者が増えたくらいでした。
その中で特に有名なのが土佐藩の武市半平太の例で、腹を左から右に3回斬り、それまで誰も出来なかったと言われている横三文字切腹を果たしたのです。
ちなみに普通切腹といわれる行為は横一文字が多い様に思われていますが、本当は十文字に切るのが普通だったのです。この事については後で書きます。


○最初に切腹をした人は誰?

平安時代中期、藤原保輔という有名な盗賊が居ました。
988年、保輔は逮捕されると腹を切って自殺を図りましたがすぐに死ねずに翌日に亡くなったのです、これが記録に残る最初の切腹と言われています。
そして1170年に保元の乱に敗れて伊豆大島に流された源為朝が狩野茂光に攻められた時に武士としての名誉を守るために切腹して果てました。これから切腹は武士の名誉ある死となったのです。
ちなみにそれまでの武士は首を括ったり、火の中に身を投じたり、谷や海に沈んだりするのも自害として行っていた形跡があります。


○切腹の作法

では、江戸時代の切腹の正しいやり方を書いてみましょう。
切腹をしたいと思っている方は参考にして下さい(嘘です)。

食事は朝にご飯1膳と漬物3切れ。この3切れは“身切れ”という意味があり、食事が少ないのは腹を切った後に食べ物が出てきたりしない為の礼儀だと言われています。
(余談ですが今では来客時に茶菓子などを出す時は2切れが常識となっていますが、これは1切れでは少なすぎて、3切れは“身切れ”になり、4切れは4が“死”を連想させて不吉だと言う理由で2切れになっているんです。)

着衣は麻で作った水浅黄色の無紋の着物と裃。
水浅黄色は新選組の隊服の色です。新選組の隊服の色は死装束を常に纏う事で、武士としての覚悟を示した物でした。
真っ白の装束は葬式の衣装でしたが死装束ではなかったのです。

場は白縁の畳2枚をT字に並べ、正面を北か西に向けます。

介錯人は3名、その中の1人が首を打ち後の2人は雑用係です。

切腹刀は九寸五分で柄や鍔を外し、切っ先五寸だけを出して奉書紙で巻いて使います。

切腹場に座ったら末期の水を2口飲み、その後に三方に乗せた切腹刀が介錯人の手で運ばれます。
着物は右肌・左腹の順で脱ぎ、三方から切腹刀を手に取ります。
この時、腹を切った後に体が前に倒れるように三方を尻の下に回す事もありますが、必ずする訳ではありませんでした。

では、いよいよハラキリです。
切腹人は手にした切腹刀を左腹部に突き立て、そのまま右に引きます。
これで終わると横一文字です。
次にみぞおちから心臓に向けて突き、そのまま臍の辺りまで切り下げます。
そして刀を腹から抜いて一気に喉を突き立てるのです。
これが十文字腹(腹十文字ともいいます)です。
先ほど例に挙げた武市半平太の横三文字の時は横一文字の後に、その上に一文字、またその上に一文字と切って行ったと伝えられています。
とにかく、これだけの流れが終った後に介錯人は首を切り落しますが、時代が進むとここまでの作法も無くなり、切腹人が腹に刀を刺すまでに首を切る事が多くなったそうです。
この介錯も上手な人がやらないと何度も斬り付ける事となって切腹人が苦しみます。
戦国時代の事、室町幕府13代将軍・足利義輝は松永久秀の謀反(永禄の大逆)で殺害されました、この時、義輝の側室・小侍従が斬首される事となったのです。
刑場に臨んだ小侍従は黒髪を自分の手で高々と持ち上げて首を差し出しました。
介錯人・中路勘之丞はその姿に躊躇ってしまい、首を斬らずに小侍従の左頬を斬ってしまったのです。
「あなたは武芸の達人を見込まれて、介錯人に選ばれたでしょうに…」
と冷やかに笑った小侍従は
「無様」
と決め付けたと、フロイスの『日本史』に記されています。
小侍従の首はニ太刀目で落ちたのです。
この場合は小侍従の潔さが表に出るエピソードですが、介錯人が一度失敗をする事で余計な痛みを与えてしまった事は無様と言われても仕方ないのです。
ちなみに三島由紀夫が切腹した時も介錯人が失敗して何度も首の辺りを斬っています。


どうですか、参考になりましたか?
今は介錯人を見つけるのが難しいので切腹では簡単に死ねませんがね。
女性の場合は着物の裾が乱れないように紐で足を縛って、心臓に刀を突き立てて下さい。
死後の美しさも要求されるので首は落せません(小侍従は斬首でしたので切腹とは別扱いです)。

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