寛文9年(1669)年10月23日、シャクシャインの乱が終わります。
松前で蝦夷地(北海道)を支配していた松前藩の横暴に対して、総酋長シャクシャインが呼びかけて、これに応じた全蝦夷のアイヌ民族が一斉に反乱を起こしました。
本来なら松前の小さな地域にしか住んでいない藩士達だけで広大な土地の点在するアイヌ民族を支配するのは不可能なのですが、アイヌ民族の戦い方の欠点がこれを可能にしてしまったのです。
アイヌ民族は戦うという事が少なく、一度の戦いで勝利して相手が逃げるとその時点で戦争の勝利が決まり、後追いする事も止めを刺す事も無かったのです。
これを知った松前藩では、戦が起きた時に一旦引き、アイヌ民族が満足してそれぞれの村に分散した所で一つ一つの村をつぶして行く方法を使い蝦夷地の支配を強大なものにしたのでした。
こうして尊大な態度に出た松前藩はアイヌ民族を苦しめ、騙し、それに耐えられなくなったために反乱を招く事になったのです。
そもそも、松前藩は日本で唯一石高が無い大名。
日本人にとって米はとても貴い物で、全国でそれが作られていたために日本では食料は飽和状態にあり、そのためにこの狭い島国の割には人口密度が無茶苦茶高いくらいでした。
そんな中、日本人は米を神聖化して土地の単位にまで米の取れ高である“石”を使っているのですが、米が収穫できなかった松前藩は石高ゼロという変わった藩となるのです。
しかし、石高なしの大名というのはあまりにも肩身が狭い為に江戸初期に幕府から“1万石並”という変わった石高を認められていたのでした。
そんな、松前藩の主な収入はアイヌ民族からの産物を江戸などの都会で高値で売る事でしたが、江戸時代という平和な時代では産業や交易が発達し、松前藩を通さなくてもその産物が他の地域から安く都会に入って売られる様になっていたのです。
こうして松前藩は財政危機の陥ってしまったのでした。
財政危機に陥った藩が藩政改革として最終的に目を着けるのが民衆からの摂取。
松前藩と薩摩藩では属国から搾り取る事が出来たのです。
薩摩藩が財政危機に陥った時、いつも苦しめられるのは属国の琉球の民衆で、特産のさとうきびから穫れた砂糖を一口嘗めた子供が極刑に処せられたという記録も残っています。
同じ様に松前藩のアイヌ民族に対する締め付けも酷かったのでした。
しかし、琉球に比べて蝦夷地は、土地が広く人数も多く、そして支配藩と地続きだった事、そして民族の性格がこの両極の藩の運命を分ける事になるのです。
明治維新から戦中まで、大きな抵抗も無く支配下に置かれた琉球と違い、アイヌ民族は大きな反乱を何度か起しました。
特に大きく、歴史に残るシャクシャインの乱もそうやって起されたのです。
ちなみに、この乱が起こった頃の酷さは、アイヌ民族が熊一頭を仕留めて持って行くと松前藩は米一合と交換したとか、アワビ山盛りで木綿針一本と交換したという感じだったそうですよ。
シャクシャインの起した反乱は、それまでの日本人に対する恨みが籠ったもので、アイヌ民族は自分たちの民族の歴史がここで終わっても良いくらいの覚悟で蜂起したのです。
松前藩単独ではこれを抑えきれず、津軽藩を始めとする東北北部の藩が援軍に駆けつけたくらいでした。
松前藩は自藩だけで反乱が抑えられなかった事を問題視し、シャクシャインに和睦の話を持ち出したのです。
純朴で人を疑う事をあまり行なわないアイヌ民族の代表であるシャクシャインは、和睦の話に乗って停戦の宴席に着いたのです。
寛文9年(1669)年10月23日、宴席の最中に武装した松前藩士に囲まれたシャクシャインはそのまま謀殺されてしまうのです。
この後、アイヌ民族への大掛かりな処刑が行われ、松前藩の蝦夷地支配をまた強固なものにしてしまいます。
しかし、松前藩も少し懲りたようで、交換レートの酷さを半分にまで改めたのでした。
まぁそれでもメチャクチャ高いですがね。
こうした支配は、田沼意次が蝦夷地探索団を派遣した時に発覚し、松前領は幕府に没収されてしまいます。
やがて、許されて戻った松前藩でしたが、以前のようにはいかず、幕末には幕府によって五稜郭の建造もされるのです。
この田沼時代からの蝦夷地調査が北海道に多くの収穫の場を見出すものとして当時の知識人に知られ、その後は民間レベルにまで広がるのです。
その知識の中でいち早く動いたのは近江商人でした。松前藩が幕府から取り潰され、再び再興した時、松前藩主は近江商人の用意した船に乗って松前に入り、以降は松前藩の取引のほとんどを近江商人がになうようになったのです。これが鰊を近江に運ぶ要因となり、海の無い近江や京でニシンそばを食べる習慣も近江商人が持ち込んだものでした。
また、幕末に水戸藩や坂本龍馬が蝦夷地開拓を計画したり、榎本武揚らが五稜郭に入って蝦夷共和国を建国したのも、蝦夷地の可能性に賭けた為とも言えるのです。
松前で蝦夷地(北海道)を支配していた松前藩の横暴に対して、総酋長シャクシャインが呼びかけて、これに応じた全蝦夷のアイヌ民族が一斉に反乱を起こしました。
本来なら松前の小さな地域にしか住んでいない藩士達だけで広大な土地の点在するアイヌ民族を支配するのは不可能なのですが、アイヌ民族の戦い方の欠点がこれを可能にしてしまったのです。
アイヌ民族は戦うという事が少なく、一度の戦いで勝利して相手が逃げるとその時点で戦争の勝利が決まり、後追いする事も止めを刺す事も無かったのです。
これを知った松前藩では、戦が起きた時に一旦引き、アイヌ民族が満足してそれぞれの村に分散した所で一つ一つの村をつぶして行く方法を使い蝦夷地の支配を強大なものにしたのでした。
こうして尊大な態度に出た松前藩はアイヌ民族を苦しめ、騙し、それに耐えられなくなったために反乱を招く事になったのです。
そもそも、松前藩は日本で唯一石高が無い大名。
日本人にとって米はとても貴い物で、全国でそれが作られていたために日本では食料は飽和状態にあり、そのためにこの狭い島国の割には人口密度が無茶苦茶高いくらいでした。
そんな中、日本人は米を神聖化して土地の単位にまで米の取れ高である“石”を使っているのですが、米が収穫できなかった松前藩は石高ゼロという変わった藩となるのです。
しかし、石高なしの大名というのはあまりにも肩身が狭い為に江戸初期に幕府から“1万石並”という変わった石高を認められていたのでした。
そんな、松前藩の主な収入はアイヌ民族からの産物を江戸などの都会で高値で売る事でしたが、江戸時代という平和な時代では産業や交易が発達し、松前藩を通さなくてもその産物が他の地域から安く都会に入って売られる様になっていたのです。
こうして松前藩は財政危機の陥ってしまったのでした。
財政危機に陥った藩が藩政改革として最終的に目を着けるのが民衆からの摂取。
松前藩と薩摩藩では属国から搾り取る事が出来たのです。
薩摩藩が財政危機に陥った時、いつも苦しめられるのは属国の琉球の民衆で、特産のさとうきびから穫れた砂糖を一口嘗めた子供が極刑に処せられたという記録も残っています。
同じ様に松前藩のアイヌ民族に対する締め付けも酷かったのでした。
しかし、琉球に比べて蝦夷地は、土地が広く人数も多く、そして支配藩と地続きだった事、そして民族の性格がこの両極の藩の運命を分ける事になるのです。
明治維新から戦中まで、大きな抵抗も無く支配下に置かれた琉球と違い、アイヌ民族は大きな反乱を何度か起しました。
特に大きく、歴史に残るシャクシャインの乱もそうやって起されたのです。
ちなみに、この乱が起こった頃の酷さは、アイヌ民族が熊一頭を仕留めて持って行くと松前藩は米一合と交換したとか、アワビ山盛りで木綿針一本と交換したという感じだったそうですよ。
シャクシャインの起した反乱は、それまでの日本人に対する恨みが籠ったもので、アイヌ民族は自分たちの民族の歴史がここで終わっても良いくらいの覚悟で蜂起したのです。
松前藩単独ではこれを抑えきれず、津軽藩を始めとする東北北部の藩が援軍に駆けつけたくらいでした。
松前藩は自藩だけで反乱が抑えられなかった事を問題視し、シャクシャインに和睦の話を持ち出したのです。
純朴で人を疑う事をあまり行なわないアイヌ民族の代表であるシャクシャインは、和睦の話に乗って停戦の宴席に着いたのです。
寛文9年(1669)年10月23日、宴席の最中に武装した松前藩士に囲まれたシャクシャインはそのまま謀殺されてしまうのです。
この後、アイヌ民族への大掛かりな処刑が行われ、松前藩の蝦夷地支配をまた強固なものにしてしまいます。
しかし、松前藩も少し懲りたようで、交換レートの酷さを半分にまで改めたのでした。
まぁそれでもメチャクチャ高いですがね。
こうした支配は、田沼意次が蝦夷地探索団を派遣した時に発覚し、松前領は幕府に没収されてしまいます。
やがて、許されて戻った松前藩でしたが、以前のようにはいかず、幕末には幕府によって五稜郭の建造もされるのです。
この田沼時代からの蝦夷地調査が北海道に多くの収穫の場を見出すものとして当時の知識人に知られ、その後は民間レベルにまで広がるのです。
その知識の中でいち早く動いたのは近江商人でした。松前藩が幕府から取り潰され、再び再興した時、松前藩主は近江商人の用意した船に乗って松前に入り、以降は松前藩の取引のほとんどを近江商人がになうようになったのです。これが鰊を近江に運ぶ要因となり、海の無い近江や京でニシンそばを食べる習慣も近江商人が持ち込んだものでした。
また、幕末に水戸藩や坂本龍馬が蝦夷地開拓を計画したり、榎本武揚らが五稜郭に入って蝦夷共和国を建国したのも、蝦夷地の可能性に賭けた為とも言えるのです。