彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

神戸城訪問

2020年10月12日 | 史跡
いきなり惚気話のようで申し訳ありませんが、同じ趣味のカップルには、共通して行きたい場所が何か所かあると思います。
僕と彼女が付き合うようになった頃(もしくはその前かも?)から2人ともが行くべき共通の場所となっていたのが伊勢神戸城でした。

今回の鈴鹿市巡りの時に、彼女から「神戸行きたい」とのLINEが来て、兵庫県の「こうべ」ではなく三重県の「かんべ」が思い浮かべることができる2人ということです。


さて、ではなぜ神戸城が2人の共通する訪問地かと言いますと、井伊直政を補佐し彦根藩家老の初代となり実質的に彦根城築城を徳川家康と図った木俣守勝の父守時がいた場所だったからです。

楠木正成の子孫とも言われている木俣守時は、神戸氏に仕えていましたが、三河国を追われて放浪していた松平広忠(徳川家康の父)と出会い仕官し、広忠が今川義元の支援で三河の岡崎に戻るとこれに従って行くのです。
神戸周辺っで200年以上根を伸ばした神戸氏を去って、国に戻れるかどうかもわからない広忠に従った守時の気持ちを知りたいと思っていました。

その答えは見つかりませんでしたが、神戸城には行って良かったと思います。

神戸城築城は、沢城の時に紹介しましたように神戸利盛が天文19年(1550)に居城を移したことから始まります。
ただし、その前から城があったような記録はあります。
沢城が湿地帯に囲まれて大きさに制限があったことから、近くの広い範囲が保てる地に拠点を移したとも考えられます。

やがて、利盛の後を継いだ具盛が城主になりますが養子に迎えた神戸(織田)信孝に家督を追われることになり、信孝は最先端の石垣、礎石、瓦のある織豊期の城を築城したと考えられています。



今は、見事な野面積みの天守台跡なども残っていますし、









発掘では金箔瓦(鈴鹿市考古博物館に展示されてます)も見つかっています。

これらの遺構、異物が信孝期の物であるか否かは特定が難しいそうですが、織田信長の息子が神戸城主を務めていたことは間違いありません。
どの時期の物か、不鮮明な部分はあっても全体的にも、雰囲気よく遺構が残っている城でした。







信孝が羽柴秀吉と対立し、切腹させられた後、城は桑名城に移築され石垣のみが残しました。

江戸時代に入り、神戸藩は一柳直盛(直末の弟)が城主を務めますが西条藩へ転封となり廃藩、しばらくして石川氏が入り再び立藩し、石川氏は三代で転封となり、膳所藩本多氏から分かれ若年寄も勤めた本多忠統(宗範)が神戸藩主となったあと幕府から再築城も許可され明治維新まで本多氏がこの地を治めるのです。

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