紫式部を連れた藤原為時一行は打出浜から出港し夕立などの恐怖を乗り越えて琵琶湖を北上、横断を果たし塩津港に上陸した。
そのまま塩津で一泊し翌日、塩津神社に参詣したと言われている。塩津神社からは琵琶湖を眺めることができ間違いなく近江の絶景の一つであると言えるが紫式部は和歌を残してはいない、もしかすると琵琶湖上で感じた負の感情が強すぎて筆が進まなかったのではないだろうか?
塩津から敦賀に向かうためには塩津山の深坂峠という山道を越えなければならず、紫式部はますます不安になるのではないかと心配しながら次の和歌を鑑賞すると「塩津山といふ道のいとしげきを、賤のおのあやしきさまどもして、『なを、からき道なりや』といふを聞きて」との説明じみた詞書が記されている。直訳すると、塩津山という草木が生い茂った歩きつらい道。ここを越えるために(為時に雇われて付いてきている)風体の貧し人夫たちが「ここはやっぱり歩きにくい難儀な道(からき道)だ」と言っているのを紫式部が聞いた。と、次に記録される和歌がどのような状況で詠まれたものであるかという情景を細かく教えてくれている。少し補足を加えるならば、越前から都へ戻る紫式部が呼坂という場所で「輿も舁きわづらふを、恐ろしと思ふに」と「自分の乗る輿をかく者たちが大変そうで恐ろしく思った」との記録を残していることから越前へ向かう陸路でも紫式部が輿に乗っていた可能性が高い。こう考えるならば、不安定に揺れる輿に乗りながら人夫たちの「からき道」という愚痴を聞いたことが和歌へと繋がったのであろう。
しりぬらむ 往来に慣らす 塩津山 世に経る道は からきものぞと
直訳すれば「(人夫のあなたたちは)何度も行き来しているのだから塩津山が『からき道』であることは知っていたでしょう? この世の中の道(人生?)は、からいものなのです」と解釈すればよいであろうか? この和歌のポイントは「からき道」の辛さを「塩津山」の塩と重ねる言葉遊びであり、困難な山道と人生の辛さすらも詠み込んだことである。私的に解釈を加えるならば無位無官の苦しみを味わい続けた為時一家が越前守という大役に向かうために越えなければならなかった苦しい時期すらも組み込まれていたのかもしれない。
一般的に『枕草子』で現在のSNSで書かれるようなみんなに共感してもらえるコメントを上手に文章にした陽キャラのイメージが強い清少納言と、『源氏物語』や『紫式部日記』で人間の栄光や心の闇を炙り出した文学者肌の紫式部は、対照的に描かれている。しかし紫式部も言葉を遊びとして楽しむ一面も持っていたのである。
塩津浜の歌碑
そのまま塩津で一泊し翌日、塩津神社に参詣したと言われている。塩津神社からは琵琶湖を眺めることができ間違いなく近江の絶景の一つであると言えるが紫式部は和歌を残してはいない、もしかすると琵琶湖上で感じた負の感情が強すぎて筆が進まなかったのではないだろうか?
塩津から敦賀に向かうためには塩津山の深坂峠という山道を越えなければならず、紫式部はますます不安になるのではないかと心配しながら次の和歌を鑑賞すると「塩津山といふ道のいとしげきを、賤のおのあやしきさまどもして、『なを、からき道なりや』といふを聞きて」との説明じみた詞書が記されている。直訳すると、塩津山という草木が生い茂った歩きつらい道。ここを越えるために(為時に雇われて付いてきている)風体の貧し人夫たちが「ここはやっぱり歩きにくい難儀な道(からき道)だ」と言っているのを紫式部が聞いた。と、次に記録される和歌がどのような状況で詠まれたものであるかという情景を細かく教えてくれている。少し補足を加えるならば、越前から都へ戻る紫式部が呼坂という場所で「輿も舁きわづらふを、恐ろしと思ふに」と「自分の乗る輿をかく者たちが大変そうで恐ろしく思った」との記録を残していることから越前へ向かう陸路でも紫式部が輿に乗っていた可能性が高い。こう考えるならば、不安定に揺れる輿に乗りながら人夫たちの「からき道」という愚痴を聞いたことが和歌へと繋がったのであろう。
しりぬらむ 往来に慣らす 塩津山 世に経る道は からきものぞと
直訳すれば「(人夫のあなたたちは)何度も行き来しているのだから塩津山が『からき道』であることは知っていたでしょう? この世の中の道(人生?)は、からいものなのです」と解釈すればよいであろうか? この和歌のポイントは「からき道」の辛さを「塩津山」の塩と重ねる言葉遊びであり、困難な山道と人生の辛さすらも詠み込んだことである。私的に解釈を加えるならば無位無官の苦しみを味わい続けた為時一家が越前守という大役に向かうために越えなければならなかった苦しい時期すらも組み込まれていたのかもしれない。
一般的に『枕草子』で現在のSNSで書かれるようなみんなに共感してもらえるコメントを上手に文章にした陽キャラのイメージが強い清少納言と、『源氏物語』や『紫式部日記』で人間の栄光や心の闇を炙り出した文学者肌の紫式部は、対照的に描かれている。しかし紫式部も言葉を遊びとして楽しむ一面も持っていたのである。
塩津浜の歌碑