彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

150年前:坂本龍馬脱藩(3月24日)

2012年03月24日 | 何の日?
文久2年(1862)3月24日、坂本龍馬が沢村惣之丞と共に土佐藩を脱藩しました。

龍馬が脱藩した理由は、既に加盟していた土佐勤皇党の中で意見が合わなくなってきたからだとも、この年の1月に訪問した長州藩の久坂玄瑞の影響を受けたからだともいわれていますが、 どちらかといえばはっきりとした明確な意思があったというよりは、先に脱藩していた吉村虎太郎の影響を受けて脱藩を決意していた沢村惣之丞に誘われてそのまま流れで脱藩したようにも感じられます。若者が一時の感情で行う社会に対する反発意識の最たるものだったのかもしれません。

土佐勤皇党の同志たちは、この若者の熱病にも近い脱藩行動をどんどんやらせたようなイメージがありますが、党首である武市半平太は、土佐藩に対しての忠誠心が強い人物で、藩という組織を裏切って野に下り、不忠の罪で藩から罪人として追われることとなる脱藩を認める人物ではありませんでした。ですので龍馬は脱藩と同時に土佐勤皇党との縁も切れたか薄くなったと考えられるのです。


さて、そんな龍馬の脱藩については、悲しい物語が語られるようになっています。

龍馬の様子がおかしいことに気が付いた兄の権平は、家族や親類に龍馬を監視するように命じるとともに、龍馬の刀を隠してしまったのです。
刀が無いままでも脱藩しようとした龍馬に対して、柴田家から離縁されて戻ってきていた二姉の栄が、龍馬に刀を渡しました。これは離縁の際に柴田の夫から与えられた物だったのです。こうして龍馬は栄から刀を受け取って脱藩し、栄はその後に全ての責任を負って自害したのです。
坂本家では、栄の遺体を墓地に深い墓を掘って密葬したのでした。その遺骨が昭和43年の墓地の改修で発見されたのです。

栄の話は、司馬遼太郎さんの『竜馬がゆく』で書かれて有名になった話で、その後に武田鉄矢さんが原作になっている『お~い!竜馬』でも描かれた話なのですが、『竜馬がゆく』の前は、三姉の乙女が龍馬に刀を渡したことになっていました。
また、昭和63年に坂本家の墓地の近くで柴田作衛門の妻の墓が見つかっていて、ここには坂本八平(龍馬の父)の娘であることと、弘化年間の9月12日に亡くなったことが刻まれていたのです。そうなると、柴田家に嫁いだ栄の死は黒船来航よりも前のことになり、黒船来航から9年後の龍馬の脱藩時にはすでに故人だったことになるのです。

刀を渡したのは栄か乙女か、はたまた刀を受けるエピソードがあったのかどうか?
栄はこの時にまだ生きていたのか?
龍馬脱藩時の坂本家にはそんな謎も残されています。