彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

東京訪問記4:江戸城 平河門~外桜田門

2011年11月17日 | 日本100名城と続100名城
北の丸をぐるっと回り、再び北詰門橋まで出たので、そのまま平河濠沿いに進みます。

そして平河門から江戸城内に入ることにしました。

以前から時々書きますが、古く残っている橋の擬宝珠は色んな情報が詰まっています。
特に見やすかった物を覗いただけでも慶長や寛永の文字が普通にでてきます。つまりは家康や家光の時代に目の前の物が作られた証なのです。



変な主張をするならば、確実に触ることができる歴史的な遺物でもあるのです。
いずれは擬宝珠も評価され博物館の中に入ってもおかしくないので、観て触れられる間にたくさん観た方がいい物だと思いますよ。

余談はさておき、ここから門を潜ると天神濠を経て二の丸に至ります。

平河門は、大奥の関係者が通る門でしたので、春日局が帰城時間に遅れて門の締め出しを受けて夜明けまで門外で待たされたという逸話があるのはここかもしれません。
しかし、その一方でこの門は江戸城内で罪人が出た時や死人があった時に城の外に出すための門だったために不浄門との異名も付いています。
絵島もここから高遠に向かって行ったといわれています。


二の丸は本丸の下にあたりますので、本丸を見上げる形になる石垣も積まれています。

その途中にあるのが本丸へと通じる汐見坂です。今はここから海を見ることはできませんが、江戸城が築城された時は、ここから海が見えたので汐見と命名されたそうです。



汐見坂の隣りは白鳥濠です。

二の丸の庭園は小堀遠州の作庭したお庭です。

こうして、再び大手門に辿り着き、本丸・北の丸・二の丸見学は終わりました。
ここからお濠沿いを桜田門まで歩きました。


まずは桜田櫓と呼ばれる二重櫓を目にします。

この近くにあるのが桔梗門(内桜田門)です。皇居を参観する時はこの門から入ります。

そして次には坂下門が見えます、坂下門の向かって右側に宮内庁の建物があるのが確認できます。

坂下門と言えば、坂下門外の変で有名です。どの辺りで起こったのかを訪ねてもいまいちピンとくる答えはありませんでしたが、門前ではないかとのことでした。

今でこそ広い空間ですが、江戸期にはここに老中などの要職の大名の屋敷が並んでしたのです。坂下門はそれらの大名が登城するための専用の門でした。ここで襲撃事件が起こったのは、もしかすると桜田門外の変よりもあり得ない事態だったのかもしれませんよ。

そんな歴史の現場から西の丸大手門に移動すると、有名な二重橋が観れます。

右に見える二重櫓は伏見櫓です。

伏見城から移築されたという櫓ですが、関東大震災の時に下の石垣が崩れて十六体の立ったままで埋葬された白骨が見つかりました。その遺体にはそれぞれに古銭が付けられていたそうです。
この事件は、震災のごたごたで闇に葬られた形になっていますが、今も何の為の遺体だったのかはっきりしたことはわかっていません。
美しい景色の中にそんな歴史も混ざっているのです。

ここから一番近い城外に出る門が、外桜田門です。

この門の前が、桜田門外の変が起きた現場でもあります。

彦根市民としてはやはり感慨深いものがあります。坂下門の時に要職の通る門と書きましたが、城内に屋敷を構えていない大名は、城外の上屋敷から登城するのですが、外桜田門も要人が通る門でした。
井伊直弼が大老だったために外桜田門で襲われますが、もし大老職になければ、ここではなく大手門からの登城となっていたのです。


外桜田門を出て、江戸城の散策は終わりです。次は旅の目的地の一つだった増上寺に向かったのです。
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