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彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

12月2日、太陰暦最後の日

2010年12月02日 | 何の日?
明治5年(1872)12月2日、翌日が太陽暦(グレゴリオ暦)1873年1月1日になり。この日から日本でも太陽暦を採用する事が決定していた為に、暦を28日早めて大晦日となりました。

暦変更自体が23日前の11月9日に急に発表されたものでしたから、日本国内は大いに混乱した様子がうかがえます。
でもこれは首都圏や大都市の話で、地方では明治6年になった後で通知が来たところもあったそうです。


特に問題が起こったのは金銭的な事でした。
まずは、当時は大晦日にツケを集金する風習があり、大晦日を乗り切るとしばらく集金から逃れられた為に、回収に回る人々の準備が遅れた事。
それに月払いの給料の事も問題となりました。たった二日しかないのに1ヶ月分の給金を支払う必要があるのか?大きな問題となったのです。
元々太陰暦から太陽暦になった理由は、列強に合わせる意味もありますが、太陰暦では閏月があると年に13ヶ月になる年もあり、月給制(明治4年より役人は月給制・それ以前は年棒)の役人では場合によって1ヶ月分多く給料を支給しなければならなかった事。日本では1と6の付く日を休日にしていたので、西洋の1週間7日方式になれば休日も減らす事ができる事。といった利点があったのです。

ちなみに明治6年を太陽暦で始めたのは明治5年12月と明治6年閏6月の2ヶ月分の月給を払わずに済むからだったといわれています。
そんなお金にケチな政府の考え方で暦が変わりますから、2日だけで1ヶ月分の給料が出る方向に向かうはずもなく、大抵の場合はこの2日をただ働きとするか、明治6年1月分の給料に少しだけ色を付けて支給する形式になったようです。


何がともあれ、この日で太陰暦は旧暦となってしまうのです。


暦の会会長の岡田芳朗氏が、NHKの番組で紹介した話によると。

改暦後七年もたった明治十三年の暮れの『江湖新報』には、五畿内の某県下(恐らく滋賀県)では、改暦後二、三年は新暦の一月一日を正月としたが、其後は年々旧暦に服し、一月に日の丸を懸けるのは戸町役場と学校ぐらいで、年賀の式を行う者はいないありさまとなった。県庁ではこれを憂いて、郡役所に内命し、今年から一月を正月とすべしとお触れを出すとともに、二十八日に至って正月に食べる雑煮を搗くように命じ、実際に餅搗きをしたかどうか郡の役人に村々を巡回して検査させた、という記事が掲載されています。(『NHK知るを楽しむ 歴史に好奇心』テキスト2008年1月分より)

とのことです。滋賀県だけではなく、地方ではしばらく旧暦を重んじる風潮が残っていたのではないでしょうか?
コメント
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