彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

8月13日、徳川吉宗八代将軍就任

2010年08月13日 | 何の日?
享保元年(1716)8月13日、徳川吉宗が江戸幕府8代将軍となりました。



徳川御三家のひとつ紀州藩の二代藩主徳川光貞の四男として誕生した吉宗でしたが、母の身分が低かったために幼いころから家臣の家で育てられ、光貞に引き取られたあとも兄たちから白い目で見られたとも言われています。



しかし、14歳の時に父が将軍綱吉に拝謁した時に、将軍の目の届かないふすまの向こうに控えさせられた吉宗に対して、大久保忠朝(「善人の良将」と称される老中)が「光貞殿にはもう一人お子が居られる筈」と綱吉の前で述べたことで、綱吉と吉宗の拝謁の機会を与えたのです。



この時に、吉宗を気に入った綱吉が、後に自らの名の一字を与えて“吉宗”と名乗らせ(それまでは頼方)、越前国葛野藩3万石を与えました。

ここから吉宗の出世が始まり、この後に次々と亡くなる兄の後を継いで紀州藩主となりました(この時に正式に吉宗と改名)。




紀州藩の藩政改革を成功させた吉宗に、将軍就任の依頼が下ったのは、2代将軍から続く徳川本家の血が途絶えた7代将軍家継の死去を受けてだといわれています。

しかし、実際には家継死去の時には徳川本家の血は絶えていませんでした。家継の叔父であり、6代将軍家宣の弟でもある松平清武という人物が存命だったからです。実際に、家宣の正室である天英院は清武を次の将軍に推していました。

ですが、清武は一度家臣の家に養子に入った事があり、しかもこの時には54歳でありながら実子が居なかった(先に亡くなった)からでした。また清武が認められるなら、既に家臣として会津藩を治めていた保科正之の系統すらも将軍継嗣に関われる前例を作ることになりかねなかったのです。



それらの理由で、松平清武を諦めた天英院が、次に推したのが吉宗でした。

吉宗には、家柄でいえば紀州の兄にあたる尾張の藩主と継嗣問題で争う筈だったのですが、都合よく尾張藩では藩主が次々に亡くなり(暗殺説が強い)将軍の座を得たのです。

そんな吉宗は、将軍就任後に天英院のライバルだった月光院と関係を持ったり、綱吉の養女だった竹姫を側室に望んだりしました(この時12歳・汗)。

結局、竹姫との事は天英院の反対に遭って(それぞれ養子でも、形の上では竹姫は吉宗の大叔母になるので)諦めますが、それでもなかなか自分の手から離そうとせず、13年間一緒に過ごした後でやっと薩摩藩主島津継豊の元に嫁がせますが、ここでの竹姫はしあわせな生活は送れませんでした。


ちなみに、長々と書いたこの記事の最後の締め。
竹姫(継豊死去後は浄岸院)は、吉宗から薩摩藩に押し付けた形の姫でしたので、この後の幕府は薩摩藩や竹姫の無理難題を聞くようになります。
竹姫は薩摩藩と将軍家との婚姻による繋がりを前例として活かし、薩摩藩主の正室に尾張藩や一橋家から姫を迎えるのです。その繋がりが今度は薩摩藩から将軍家に姫を嫁がせるようになり、篤姫の家定への輿入れまで関わってくるのです。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする