国宝四城を巡る記事も、ついに最後となりました。
今回訪問したのは松本城です。
松本城は、管理人の人生で初めての訪問でした。
姫路城と同じ規模の城でありながら、姫路城に比べて影が薄いイメージが先行していたからです。
実際に松本に到着してもなかなか城の姿が見えず、「五重の天守の割には目立っていない?」との不安感すら持たずにはいられなかったのです。
実際に松本城は、大阪城や名古屋城などの様々な巨大天守を見慣れている人にとってはそんなに大きな城ではありませんでした。
しかし、大手門方面から城の敷地に入ってすぐに目に映った城は、急に管理人の興味を惹くに相応しい風貌を魅せていました。

そこまでも重みがある漆黒の壁、そして四層目より広い五層目の造り、実は松本城が写真では大きく見えるのは、この五層目が広くなっているカラクリが目の錯覚を起こす為なのだそうです。
松本城は天正18年(1590)に、徳川家康の元を離れて豊臣秀吉に臣従した石川数正が、関東に移された家康の西上を食い止める東山道の拠点として築城された城だと言われています。
「ならば、この目の錯覚こそが城を大きく見せる為の造りだったのか?(今と違い当時は近くに建物の高さを比較する巨大建築が無い訳ですし、もっと遠くからも見えたでしょうから…)」と、目の前に見える筈もない徳川家康と石川数正(および豊臣秀吉)の知略を尽くした攻防に歴史ロマンを広げましたが、実際には元々の五層目は廻縁式だったも物が、雪国の強風と寒さが防げないために藩政時代に今の形になったのだそうです。
こんな思い違いも、歴史ロマンのなせる技なのでしょう。
ちなみに、右手に見える赤い廻縁が付いた「月見櫓」も石川時代には無かった建物で、藩政時代に造られた事が昭和の大改修で判明しています。
そんな天守を本丸側から見ると、天守のを挟むように月見櫓と辰巳付櫓が付く安定した建築となっています。

中に入ると武者走りや狭間などの様々な工夫が他の城に負けない位に凝らされていますが、御座所が最上階(6階)と4階にもあるという不思議な作りになっていました。
特に4階の御座所は建物の途中でありながらその空間には柱の邪魔が無かったのです。

訪問時期は紅葉の真っ最中で、月見櫓からは月が観れなくても紅葉を観る事が出来ました。松本藩主や藩士たちはここからどのような花鳥風月を楽しんだのでしょうかね?

松本城の特徴の一つには、まるで浮き城かのように天守のすぐ隣に内濠を残して居る事も挙げられます。
だからこそ、その水面に城を映す風流もある城なのです。

この濠にあるもう一つの名物が、赤い「埋橋」ですね、これは埋門から伸びる橋ですが、埋門は敵に悟られない為の緊急の橋ですから、まさかこんな赤い目立つ橋が付いていたとは思えないので、築城当時とは姿が違うでしょうが、今は松本城のシンボルの一つになっているのですから、日本一目立つ埋門になったのかもしれませんね。

その方向からの松本城も絵になる美しさです。

ちなみに今でこそまっすぐと建っている松本城ですが、明治の初めは西に傾いていました。
これには藩政に対して一揆をおこした加助という人物が、処刑される前に「天守に魂を宿らせ、減税を訴える。その証拠に天守を傾けよう」と言って首を斬られ、その後に傾いたという伝説が残っています。
しかし、調査で解った事は16本あるメインの柱の内の15本が腐っていた為に傾いていたのでした。
天守の解体復元調査は戦後にGHQの指示で動き出した、日本初の城郭の解体修理工事でした。
この為に慎重に慎重が重ねられ、その後の数多くの城郭解体修理工事や復元に役立てる資料をたくさん残したのです。
藩政時代は権力の象徴として不可思議な伝説を残しながらも、今は松本市民の誇りとなっていて、城下には面白い建物もあります。

管理人は彦根城を幼い頃から見て育ち、大概の城を見ても彦根城に勝る物は少ないと思っていました。
姫路城も、城と言うキーワードで見ると「プラモデルのように見える」と以前に書いたと思います。
そういった点で初めて「この城の方が凄い」と思ったのが松本城でした。
今回訪問したのは松本城です。
松本城は、管理人の人生で初めての訪問でした。
姫路城と同じ規模の城でありながら、姫路城に比べて影が薄いイメージが先行していたからです。
実際に松本に到着してもなかなか城の姿が見えず、「五重の天守の割には目立っていない?」との不安感すら持たずにはいられなかったのです。
実際に松本城は、大阪城や名古屋城などの様々な巨大天守を見慣れている人にとってはそんなに大きな城ではありませんでした。
しかし、大手門方面から城の敷地に入ってすぐに目に映った城は、急に管理人の興味を惹くに相応しい風貌を魅せていました。

そこまでも重みがある漆黒の壁、そして四層目より広い五層目の造り、実は松本城が写真では大きく見えるのは、この五層目が広くなっているカラクリが目の錯覚を起こす為なのだそうです。
松本城は天正18年(1590)に、徳川家康の元を離れて豊臣秀吉に臣従した石川数正が、関東に移された家康の西上を食い止める東山道の拠点として築城された城だと言われています。
「ならば、この目の錯覚こそが城を大きく見せる為の造りだったのか?(今と違い当時は近くに建物の高さを比較する巨大建築が無い訳ですし、もっと遠くからも見えたでしょうから…)」と、目の前に見える筈もない徳川家康と石川数正(および豊臣秀吉)の知略を尽くした攻防に歴史ロマンを広げましたが、実際には元々の五層目は廻縁式だったも物が、雪国の強風と寒さが防げないために藩政時代に今の形になったのだそうです。
こんな思い違いも、歴史ロマンのなせる技なのでしょう。
ちなみに、右手に見える赤い廻縁が付いた「月見櫓」も石川時代には無かった建物で、藩政時代に造られた事が昭和の大改修で判明しています。
そんな天守を本丸側から見ると、天守のを挟むように月見櫓と辰巳付櫓が付く安定した建築となっています。

中に入ると武者走りや狭間などの様々な工夫が他の城に負けない位に凝らされていますが、御座所が最上階(6階)と4階にもあるという不思議な作りになっていました。
特に4階の御座所は建物の途中でありながらその空間には柱の邪魔が無かったのです。

訪問時期は紅葉の真っ最中で、月見櫓からは月が観れなくても紅葉を観る事が出来ました。松本藩主や藩士たちはここからどのような花鳥風月を楽しんだのでしょうかね?

松本城の特徴の一つには、まるで浮き城かのように天守のすぐ隣に内濠を残して居る事も挙げられます。
だからこそ、その水面に城を映す風流もある城なのです。

この濠にあるもう一つの名物が、赤い「埋橋」ですね、これは埋門から伸びる橋ですが、埋門は敵に悟られない為の緊急の橋ですから、まさかこんな赤い目立つ橋が付いていたとは思えないので、築城当時とは姿が違うでしょうが、今は松本城のシンボルの一つになっているのですから、日本一目立つ埋門になったのかもしれませんね。

その方向からの松本城も絵になる美しさです。

ちなみに今でこそまっすぐと建っている松本城ですが、明治の初めは西に傾いていました。
これには藩政に対して一揆をおこした加助という人物が、処刑される前に「天守に魂を宿らせ、減税を訴える。その証拠に天守を傾けよう」と言って首を斬られ、その後に傾いたという伝説が残っています。
しかし、調査で解った事は16本あるメインの柱の内の15本が腐っていた為に傾いていたのでした。
天守の解体復元調査は戦後にGHQの指示で動き出した、日本初の城郭の解体修理工事でした。
この為に慎重に慎重が重ねられ、その後の数多くの城郭解体修理工事や復元に役立てる資料をたくさん残したのです。
藩政時代は権力の象徴として不可思議な伝説を残しながらも、今は松本市民の誇りとなっていて、城下には面白い建物もあります。

管理人は彦根城を幼い頃から見て育ち、大概の城を見ても彦根城に勝る物は少ないと思っていました。
姫路城も、城と言うキーワードで見ると「プラモデルのように見える」と以前に書いたと思います。
そういった点で初めて「この城の方が凄い」と思ったのが松本城でした。