晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

日置のこと(30) 日置殿町の謎-3 9/26

2013-09-27 | 上林地名考

2013.9.26(木)曇り
 日置殿村(へきどのむら)が江戸期から明治7年までの村名で、日置谷、殿からなっていることは先ほど述べたとおりであり、現在の日置谷、殿に比定されるようだ。従って日置谷、殿には個別の意味があろうと思う。
 日置はともかくとして、殿というのは一般的に地形地名で微高地、段丘地形を表す。上林の居住地の場合ほとんどすべてが上林川に対する微高地、段丘地なので殿だけがいわゆる殿地形だというわけではない。
 日置谷は室町期に初見する古い地名でだが、殿は江戸期より前にはどう呼ばれていたのだろう。角川日本地名大辞典では殿村→日置殿村となっておりそれ以前のことは記されていない。
 角川日本地名大辞典には日置殿村として記しているが、その根拠としている文書には日置谷の名こそあれ日置殿村の記述は何処にも無いのである。本当に日置殿村というのは存在したのだろうか。江戸期に於ける古文書もいくつか見たのだが、すべて日置谷村、殿村となっている。一体何を根拠に角川は日置殿村を書いたのだろう。
 もっと謎なのは、日置殿町(へきとのまち)という小字が五津合町遊里(ゆり)に在ることだ。遊里のど真ん中、木住川が畑口川に出合う極小さなところが日置殿町である。
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府道51号舞鶴和知線の木住川橋のあたりが日置殿町、日置谷からは2,2Kmで道中に大町があり、道路を辿る分には別個の地域と思える。またここは室尾谷神社の参道でもある。

 何でこんなに離れたところに日置があるのだと考えるところだが、それは行政区画として別の地域と考えるだけであって、地図で見ると日置谷の裏山の続きといった地域である。
 上林風土記の上林の地名という欄に年代別の地名が表になっており、昭和31年遊里は明治7年遊里村、明治元年遊里村、それ以前呼称日置殿町と書かれている。
 遊里が日置殿町であったとは、これまた何処にも現れない事なのである。同じ上林風土記に江戸時代の山争いの古文書がいくつか出ている。登場する村名は、日置谷村、殿村、由利村(遊里村のこと)で日置殿村も日置殿町も出てこない。つづく
 
 
 

【作業日誌 9/26】
草刈り(6-7)

【今日のじょん】昨晩もセンサライトが点いた。外を見ても何事も無かったのだが、朝おきて見るといやはや大変、またしてもイノシシが襲来している。
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直しておいた庭石が蹴散らかされている。
ドッグランどのドアを閉めておいたら入り口のクチナシ周辺が掘られた。
薪割りの原木周辺が掘られている、センサライトはこのとき点灯したものか。

今までもこの時期に来ることはままあったが、それは単発なのである。連続してくることは無かった。周囲に栗など豊富に食糧がある時期なので余計不気味である。

コメント
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