晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

日置のこと(28) 日置殿町の謎-1

2013-09-25 | 上林地名考


2013.9.24(火)快晴 日置のこと(27)は2013.9.27

 日置の謎といえば、日置はなぜ西日本に集中的に存在しているかとか日置はなぜ山間部に多く存在しているかとか様々あるわけで、自信は無くともそれぞれ答えは持っている。
 いずれの機会にご紹介したいところだが、ここでは上林の日置について謎を提起して解決に向かうアプローチを紹介しよう。
 上林の日置谷(へきだに)は綾部市八津合町にあり、地域名として残っている。角川地名大辞典では室町期に「石橋村のうち」として出ている。江戸期になると日置殿村(へきどのむら)と呼ばれており、日置谷、殿からなり、それぞれに庄屋がいた、とある。殿村に枝村として片山が会ったと書かれているので、それぞれ現在の日置谷、殿、片山に比定されるようだ。
 日置谷には小字として日置、日置村中の名が見える。上林風土記には(ひおき、ひおきむらなか)のルビがふってあるが、現地で聞いたところは、へき、へきむらなかと呼んでおられた。
P1010161
 
日置の旧街道、日置村中の集落が日置殿の中心地である。


P1010162
現在の府道は新道、右手の家も村中という。


  郷土史などに見られる日置は以下のとおりである。
 何鹿郡誌(大正15年7月)
 
日置殿(へきどの)中上林村字八津合小字日置殿
 古く一村をなす。日置はへきとよむ。應神天応の皇子大山守命より出でし一族に弊岐(へき)君あり。此の族黨の住居せし所ならんか。姓氏録考証證にも「承平二年、丹波多紀郡國老日置公、檢校日置公、擬大領日置公」とあれば本郡にも住せしか。


 中上林村誌(昭和三十二年三月)
 
何鹿郡誌と同様

 綾部市史(昭和51年3月)
 
日置(部)八津合町に日置・日置村中の小字がある。五津合町にも日置殿があり、町村制施行までは日置殿村であった。
日置は日置部から出た名称で職業は明らかではないが、伴信友は、「日は戸(へ)なり、戸数を記しおく地方政治に関係ある品部か」といっている。恐らく租税徴収のためのための戸数調査を任務とする部であろう。(太田亮)この部は近畿・出雲に多く、丹波には多紀郡にも日置郷があり、東寺承平三年(九三三)文書に、「丹波国多紀郡国老日置公」と出ており、丹後には与謝郡に日置郷、但馬気多郡に日置郷と日置神社がある。各国々に日置郷があるところをみると、何鹿郡にも日置部の小規模のものが置かれていたのではなかろうか。
つづく

【今日のじょん】獣害対策の決定版として鳴り物入りで張り巡らされたワイヤメッシュ、これが根本解決にならないことは常々説いてきた。その一つの現れと言えるのが小動物の侵入である。何度も写真におさめてきたのだが、決定的なものがあったので公開しよう。P1010286
P1010287
P1010288


 
  
 

これだけでもう野菜は作れない。 

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