晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

鉄滓(2) 3/16

2013-03-16 | 歴史・民俗

2013.3.16(土)晴れ

 上林川念道付近で採取した鉄滓について、上流から流れてきたものかこの地に産鉄の遺跡があるものか、研究者としては後者でありたいと願うものである。ところが冷静に観察するとどうも前者であるような気がする。その根拠は次のとおりである。

1.鉄滓の採取場所は広い範囲にまんべんなくある。
 例えば念道付近に産鉄の遺跡があるとすればそれは右岸左岸どちらか一方と考えられるのだが、両岸に渡って広い範囲で採取できるのは、上流から流れてきたと考えるのが妥当である。P1040002




発見されたのは上林川念道橋下両岸の堤防の外、念道橋上左岸堤防の外がほとんどである。

2.鉄滓は河床では未発見で、総て堤防の上、または堤防の外側の畑である。
 上流から流れてくるものと仮定した場合、通常の流れで流れ着くのなら河床にあってしかるべきと考えられる。堤防あるいはその外側で見つかるのはその土砂がいずれからか運ばれてきたと考えられる。
 現在の堤防は28水(昭和28年台風13号による水害)の後に整備されたものである。当時の災害復旧工事、特に堤防の工事は現在のように機械力によるものでなく、人力主体で行われていた。畚(もっこ)や猫車(ねこぐるま)が大活躍した時代のことである。つまり遠方から砂利や砂などの資材を運び込むことは出来なかったし、なにより目の前にうずたかく積もった土砂を捌くことがなによりも重要であった。その土砂を新堤防の材料としたことは想像に難くない。そのことを確認するため地元の方に聞いてみた。
 念道周辺の堤防は村田(そんでん)といわれる上林川の屈曲点、河牟奈備神社の南東の堆積地の砂利が運ばれたようだ。この屈曲点は上林川が大きく南に流路を変える地点で、流域では最も急角度で曲がっており、水害による土砂の堆積も相当のものであったようだ。この地の土砂が近隣の堤防造設に使われ、やはり人力で運ばれたとの証言があった。P1030873
 



この先から大きく左手(南方)に流路を換える。その右岸に向こうの山の裾まで村田が拡がる。

 現実に堤防の岩石は上林川特有の斑れい岩や赤色チャートを含み、河床と同様の岩石分布をしている。

3.鉄滓は比重が小さいため、浮いて流れ、また屈曲点などで堆積しやすい。
  鉄滓が河床に見つからないというのも比重が関係しているのかも知れない。

4.清水鋳物師の遺跡から出た鉄滓を見たのは後日のことであるが、上林川で採取したものとの違いは、ガラス質である。
 清水鋳物師のタタラ場で発見された鉄滓は表面がガラス質で覆われている。ところが上林川念道付近で採取した鉄滓にはガラス質は認められない。
 溶けた鉱物などが急激に冷却されるとガラス質ができると言われている。鋳物を作った際の鉄滓にガラス質が存在するのは当然のことだが、念道付近で採取した鉄滓にそれが無いのは、水没、風化の影響とみて良いのではないだろうか。
 つまり念道付近に製鉄や製錬の遺跡があるとしたら、ガラス質の残った鉄滓があってもいいのではないだろうか。つづく

【晴徨雨読】173日目(2007.3.16)高千穂~延岡
高千穂峡の自然は素晴らしい、自然の造形を科学的に見るのは値打ちがあるが、観光地として何かと謂われを作るのは頂けない。特にあちこち神話がからむのは白ける。Img_3257
 






高千穂峡は阿蘇熔岩の侵食谷だが、節理や甌穴など自然の博物館である。

 高千穂鉄道は災害で廃線となったが、人気があるらしく先日もテレビで放映していた。日之影温泉駅の温泉に浸かる。それにしてもよくぞここに鉄路を通したかという地形である。日之影温泉駅の隣は吾味駅である。学生時代のバイト先に吾味さんという女性が居た(五味さんかも?)。宮崎の出身で、お父さんが宮崎大学の教授で野坂昭如と友人でよく遊びに来ていたとか言っていた。こういう所にルーツがあるのだろうか。Img_3296





【作業日誌 3/16】
薪拾いP1040070




今回の成果。

【今日のじょん】:じょんの手も借りたい。
 伐採された木は廃棄物として今日処分される。今日の朝だけが勝負なのだ。いつもより45分も早く起きて支度する。散歩コースも薪の下見である。P1040069 P1040068

コメント
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