晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

鉄滓(5) 3/19

2013-03-19 | 歴史・民俗

2013.3.19(火)快晴

 念道で発見される鉄滓の多くは清水鋳物師に由来するものと思われるが、総てがそうであるかということは解らない。上林谷で製錬、精錬が行われていただろうと予想するも、鉄滓が近世の鋳物滓である限りそのことは証明できない。清水鋳物師以外の鉄滓の発生を探るには、清水の下流域以外で鉄滓を発見することである。
畑口川清水上流、上林川畑口川出合上流域、上林川支流域で発見することが第一であると気付いた。と言ってもこれは恐ろしく広範囲で雲をつかむような話である。
 これ等の地域に行った際に必ず河原や神社、遺跡の周辺をつぶさに見ることとしている。同じ上林川流域でも支流での岩石構成はかなりの違いがある。そんな特質が解ってくるのだ。Img_3657 Img_3539
 



例えば左は市志の河原、右は市茅野の河原である。

 しかし鉄滓らしきものは見つかることはなかった。しかし念道の府道の北側で1個の鉄滓を拾うことができた。上林川堤防から50mあまり離れている。同時にその地域は土師器や須恵器の破片が多く見つかっている地域である。これ等の土器を作る事ができるのは、鉄を溶融する温度を得られることでもある。鉄滓の形状は例の鋳物滓と似かよってはいるが、流路から離れているので清水鋳物滓とは無縁の物かもしれないという期待も出てきた。P1020895
P1020898



流域から離れたところで発見した鉄滓と発見場所。

 しかしその地点は現在ゲートボール場となっており、造成された土地のようだ。ということはもともとその地にあった過去の遺物が出てくるとは考えにくい。やはり堤防と同じく他所の土砂を運んでいるのではないだろうか。もっと山側で発見されれば別だが、現在の位置では清水鋳物滓と別物と考えるのは難しい。
 そんな時偶然にも新たな発見があった。つづく

【作業日誌 3/19】
耐火レンガ搬入P1040097 P1040096




約300個の耐火レンガをゲット、石窯でも作るべか。右は昨年流れ着いた石材。

【晴徨雨読】175日目(2007.3.19)大分~別府
鹿児島上陸以来九州は随分寒かった。別府では周囲の山々には雪が見えていた。別府は過去にも数回来たことのある温泉で、入ってみたかった泥湯に浸かる。でも街中の庶民の温泉が安くていい。Img_3374 


竹瓦の湯、100円


【今日のじょん】:3月は鹿の角のシーズンだ。落ちたてほやほや、しかも両角そろいである。これはなかなか珍しい。P1040094

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鉄滓(4) 3/18

2013-03-19 | 歴史・民俗

2013.3.18(月)雨

 謎1.清水鋳物師の鉄滓捨て場はどこか?
 ここ2年間で念道周辺で見つけた鉄滓が上流清水から流れ着いたとしたら、大元の清水には相当多くの量の鉄滓があったはずである。
 井関家の先祖が鋳物技術を持って清水に来住したのが元和3年(1617年)といわれる。(綾部史談 鋳物師に関する研究 村上真澄)明治期まで操業したとして250年間の間に出てきた鉄滓は莫大な量であると想像する。
もちろんその間に洪水などで順次流れたとしても、鉄滓捨て場には多くが残っているはずである。
 ところが地元でそのような話を聞いたことは無いし、井関氏がたたら場周辺で集められた鉄滓も一抱え、数Kgに過ぎない。必ず大量に捨てられた場所があるのだろう。この探索は今後の課題でもある。P1020568

 


井関伝助氏跡地、鉄滓など出るがごく少量。


 謎2.清水鋳物師の鉄滓が流れ出たとすると、念道以外の上林川でも発見出来るはずである。
 畑口川出合い周辺、小山橋周辺を調査したことがあるが発見には至っていない。但し河床部分の調査なので、堤防周囲の調査が必要かもしれない。今後機会があれば歩いてみたいと思うが、念道周辺のように細かく見ることは不可能である。ただ念道周辺意外でまったく見つからないとなるとこれは謎である。清水鋳物師発生説を考え直さねばならなくなる。

 謎3.近世鋳物師は鍋釜、農具などの鉄製品を作っていたが、後世に残って出所の解る銅製品もつくっている。梵鐘や灯籠、仏具、仏像などである。これ等の鉱滓も当然出てくるはずであるが、それはいったいどのようなものだろう。文献も少ないので解らないのだが、今までに発見したものについては弱い磁性があったり、赤錆が発生したり(酸化鉄)しているので鉄滓というふうに考えているのだが。

 謎4.椀形滓と流動滓
 鍛冶炉の底に溜まった鉄滓は椀の形になり、中には炭を残している物もあるという。これは鍛冶滓といわれ、鉄の精錬の際に出てくる鉄滓だそうだ。
 実は念道橋下流100m右岸堤防内側で1個採取している。内部に炭を含んでおり、鉄片らしき部分もある。Img_2869
 



下部の窪みに炭が存在、右上の赤錆の上部に鉄片らしき部分がある。

 もしこれが鍛冶滓であれば、清水鋳物師の鋳物滓とは異質のものとなる。出来た場所も清水以外ということも考えられる。
 流動滓という言葉もあるのだが、それがどのようなものか解らない。ただ他の鋳物滓と見られるものとは違った、流れ出て固まった鉄滓を2個採取している。これは念道橋下流100m左岸堤防外農道で発見したものである。P1030046
 
 



 これ等総ての鉄滓について、化学的成分分析や年代分析などを行う設備や知識を持たないものにとっては目視で判断するか、専門家に見て貰うぐらいしか確かなことが解らない。もちろん文献による学習は続けていくが、確証が持てないのが辛いところである。つづく

【作業日誌 3/18】
耐火レンガ搬入

【晴徨雨読】174日目(2007.3.18)佐伯~大分
自転車ならではの旅が戻ってきた。車で走っていては絶対に見つけられない物が見つかる。ひとつは鯨墓である。鯨の墓だけでも驚くが戒名から卒塔婆まであり、法会が行われているところもあるという。鯨が経済的に大きなウェイトを占めていただけでなく、精神的にも人と同様に扱われていて民俗学的にも価値ある遺跡だと思う。もうひとつは上浦町暁嵐公園の河童伝説である。河童と相撲を取る像と伝説の看板があるが、九州なら”ひょうすべ”ではないかと思うのだが、そのような記述はなかった。津久見に入ると椎茸栽培の創始者の案内があった。これ等の情報はやはり自転車でなくては得られないものだ。Img_3334 Img_3340 Img_3344




鯨の墓、六兵衛と河童の相撲取りの像、椎茸栽培創始者源兵衛の碑



【今日のじょん】:昨日の野焼きのお蔭で散歩コースはすっきり、くっきり、なにより憎っくきダニ野郎が焼け死んだと思うとこれほど気持ちの良いことはない。そのうちまた鹿やイノシシが持ってきてくれるだろうが、それまでの間は安心しておこう。P1040089 P1040091



 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする