晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

里山サイクリング 9/23

2008-09-25 | 日記・エッセイ・コラム

2008.9.23(火・祝)晴

 やっと上林で行われるイベントに参加できることとなった。いそいそと準備をしてあっぱれ号で出かける。途中で空気入れを忘れたことに気付く。まあパンクなんてしないだろうと、そのまま行く、それより腰痛が心配だ。会場は二王公園で、既に派手なサイクリストで賑わっている。レースには何度も出場したが、こういうイベントは初めての参加である。「ママチャリでもいいですよ」なんて福山実行委員長も言ってたし、昨年の写真を見てもママチャリが沢山写っている。ところがだ、会場はピカピカのロードレーサーで埋め尽くされ、MTBも数少ない。さすがに会場や走行中にも幾人かに声を掛けられた。初恋号6世はMTBのツーリング仕様でキャリアなどもそのままなのだ。開会のセレモニーがあって、10人ずつ、一分ごとにスタートする。しまったそんなことなら早く申し込んでおけば良かった。最初のスタートから25分後である。
Img_0792_2

こんな感じでスタートする。


 私の参加したのは水源の里を巡る48Kmのコースで、老富、市志を折り返すコースである。老富は車でしか行ったことがないし、市志はまだ行ったことがないところなのでなんとなく楽しみである。別にレースではないので焦ることはないのだが、追い抜かれると、なにくそという気になる。ところが相手はロードレーサー、こちとらMTBのツーリング仕様でまるで歯が立たない。諦めて秋の風情を楽しむこととする。土筆庵のところに来ると、車が駐まっている。帰りには寄ってみよう。光野町あたりを走っていると、稲刈り後の稲木干しが目に付く。先日上林では見なくなったと言っていた矢先なのに奥上林ではいくらでもある。記念に写真を一枚。Img_0793

四段重ねが上林流のようだ。

折り返して帰ってくると、土筆庵の井上さんが手を振っている、みんなを応援しているようだ。小道を上って挨拶に行くと、採ったばかりのミニトマトを頂く。冷たくておいしい、袋にいっぱい頂いて先を急ぐ。八津合の観光センターのあたりを周回して、市志に向かう。市之瀬までは車で走った道だが、自転車で走ると景色が違う。気付かなかった滝や民家の庭先など興味深く眺める。特に白樺の木が育っている庭や蕎麦の花の満開なのが嬉しかった。市之瀬橋を右折して少し行くとお茶を接待している家がある。ひょっとして農家民宿をされている芝原さんの家かも知れない、帰りに寄ってみよう。市志は予想通り美しいところだ。川の美しいのが印象的だ、水源の里ならではの水の美しさである。公民館で折り返し、市志はどんどん奧にゆくと奥上林の大唐内(おがらち)に出られるそうだ。一度行ってみたい道である。休憩せずに先程のお茶の接待所に急ぐ。やっぱり芝原さんが応援をしていた。お話をしたり写真を撮ったり、民宿は「素のまんま」という名で泊まってみたくなる宿だ。Img_0798 Img_0799

来年同じコースで開催されたら是非立ち寄るべし。


 走行40Kmを越すとやや疲れ気味、店は12時開店などと予告してきたが、もう1時を超えている。ゴールするとぜんざいを頂き、そそくさと帰路につく。
 開店後はサイクリング帰りのお客さんなどで大賑わい、四方市長さんも行事の帰りに寄っていただき、中身の濃い一日となった。

今日のじょん:じょん語録(7)ぽんぽこぽん
既に案内済みのボール遊びだが、ボールが砕石の上をあちこちに弾むのでぽんぽこぽんとなった。最近は10連発は常となり、バリエーションも増えてきた。ひとつはボールを追いかけずに、ボールが止まってから拾いに行く方法、自分で勝手に投げて拾いに行く方法、少し先で振り返り、投げるのを誘う方法などである。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

環境問題2冊 9/22

2008-09-25 | 日記・エッセイ・コラム

2008.9.22(月)曇り

 晴徨雨読のはずが徨も読もできずに半年が過ぎた。徨の方は先日記事の「定住という名の旅」で出来ているとして、読の方はさっぱりだった。28日に吉右衛門と環境問題をテーマに一杯呑み(じょんのび闇鍋会)をやろうというので、少し環境問題に関する本を読もうと、2冊の本を読み終えたところである。「間違いだらけのエコ生活」(武田邦彦著)と「環境問題の杞憂」(藤倉良著)の2冊である。前者は「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」を既に読んで、ある意味でショッキングな内容であったことを思い起こさせる。2冊の本を同時に少しずつ読んできたので、内容がごっちゃになり、訳がわからん状態になっているが、いずれも現在の環境対策に批判的というか、一石を投じるといった趣旨である。こういうタイプの本を読みあさってきた理由は、CO2による地球温暖化に疑念を抱くためである。わたしも以前はこの説に納得しており、京都議定書の信奉者のようなものであった。ところが日本一周の旅で東北、北海道を訪れて、多くの縄文遺跡を訪ねることによって、気候というのはそれほど短絡的なものでは無いのではと考えるようになった。決定的なのは三内丸山遺跡を訪ねたときである。どこの博物館に行っても係の人に質問できるようになっているが、お役所の窓口同様、「専門の者がおりませんので」とか「係が違いますので」とか言われて、欲求不満になるのだが、三内丸山遺跡だけは国立の一級の博物館だけあって的確に即座に答えて貰うことが出来た。私の疑問は「なぜ狩猟採種の縄文文化が寒い雪国で花開いたか」ということと、「相当の内陸になぜ貝塚などの海岸遺跡があるのか」ということであった。歴史、特に古代については最も得意な分野であったのだが、恥ずかしながら縄文海進については深く考えていなかった。「なぜ寒冷の地に縄文文化が花開いたのですか?」「当時は現在ほど寒冷では無かったのですよ」「それでも西日本や九州はもっと温暖で、暮らしやすいと思うのですが?」「適度に雪がある方が狩猟はしやすいのですよ。」なるほど、足跡や巣穴の問題で雪がある方が狩猟はしやすそうだ。貝塚などの問題も、海面の問題も縄文海進で納得がゆく。三内丸山も今でこそ内陸にあるが、当時は海辺であったようだ。この縄文海進の時代は世界的にも温暖で、海水面は現在より4mほど高かったそうである。となるとだ、その当時のCO2濃度が現在より高かったかどうかは別として、少なくとも人為的なCO2の発生は無かったわけだ。その後地球は寒冷化が進み、現在は氷河期というか寒冷期の真っ只中で、昨今の温暖化というのもその寒冷期の中の小さな循環というわけだ。子供の頃から比べれば雪が減ったとか、温かくなったとかそんな小さなサイクルで気候というのははかれないものではないか。CO2の濃度を50年前の濃度に戻したとして、気候が50年前のものに戻るかというと、そうはいかないだろうと誰でも思うのではないか。
 というように温暖化=CO2とは短絡的に考えにくいと思うが、武田氏のこの本は、講演なら聞き流して済むような内容だけど、書籍としてはちょっと受け狙いかなあという気もする。レジ袋は使う方が環境に良い、割り箸を使った方が森林を守る、コンビニの深夜営業自粛は環境にも人にも役立たない等読者が総て自らの意識と反対のことを無理矢理に論じているようだ。テレビ番組で「放っておくと大変なことになりますよ」なーんて言ってる番組によく似ている。特に田舎暮らしはエコライフではなくてエゴライフだなんてくだりは、都市生活と農村生活を単にエネルギー消費率だけで見ている短絡的な思考で、木を見て森を見ない単に受け狙いの文章ではあるまいか。私はこの本が環境問題を真摯に考えようという人のために書かれたか疑わしいと感じた。Img_0796

上林の自然は守りたい、一番低いところが口、中上林を分ける峠


今日のじょん:じょん語録(6)よっこらじょん
 最初はじょんを抱き上げるときに使っていたのだが、寄る年波には勝てず、のべつ幕無しに使うようになった。ちなみに立ち上がるときはよっこらじょん、座るときはどっこいじょんとなるのが決まりと野坂昭如氏が言っていた。よっこらじょんと持ち上げて測った体重15.4Kg、かんべんしてよ。
Img_1091
おネエになる前からおネエ座りだ。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする