常念が見える部屋から

ここから北アルプス常念岳が眺望できます。
季節の移ろいに写真を添えて発信します。

来し方の記(2)

2010年08月20日 | 来し方


営業担当者の独立開業は、企業にとって致命的な痛手である。

急遽採用した、にわか仕立ての新任営業は、ベテランの彼らに翻弄され戦意を喪失し、得意先は思うがままに彼らに浸食されていった。 

経験の差というより販売に対峙する面相が違っていたように思う。

好況期にどっぷり浸るうちに、企業の体質はもろくなり、それらを鍛え直す経営力は成長を止め停滞していた。


拝啓 社長様(昭和45年社内誌より抜粋)

私が会社で不安に感じております事を手紙にて申し上げます。

私の不安感を一掃して下さいますようお願い申し上げます。

私の会社に対する不安焦燥感は日を追って強くなるばかりです。

これは自分だけが持つ感情かと思っていましたが、周りの仲間のほとんどが同じ悩みを共有している事をしり驚きました。

順風満帆とも見えるわが社においてそうなのでございます。

私は医療機器業界の洋々たる前途に何一つ不安を感じていません、しかし取り扱う商品が大きく変わる中で会社は従来のままで良いのでしょうか。

社員の共通する願いは将来を照らす明るい展望です。しかし会社にはそれが存在しません。

ただ、現在だけがあるように思えて仕方が無いのです。

又 仕事に取り組む仲間の投げやりな姿勢に不安を感じます。

それは社内に厳しさが欠けていることに起因するように思います。

販売をのばしなさい、回収を徹底しなさいという事と厳しさとは別だと考えます。

厳しさはピラミットの頂点より下に向かって伝搬されるものだと思います。

「厳しさ」と「優しさ」は両輪であり、会社にとってかけがえのない財産です。

この財産が将来の飛躍のエネルギー源になることを確信して私の手紙を終わります。

種々の暴言なにとぞお許しください。  憂士

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来し方の記 (医科器械とともに53年)

2010年08月19日 | 来し方


[1919年(大正8年)中島次太郎氏により創業された医療機器販売業中島尚誠堂(現社名中日本メディカルリンク株式会社)は90年余の歴史を積み重ねて今日に至った。

振り返ると1957(昭和32年)縁あって入社以来53年の歳月が流れていた。

会社では90年の節目にあたり社史発刊を決定、老骨に鞭打ち時代の証人としてその手伝いをする事になった。

手繰る記憶の中から、特筆すべき出来事を軸に、社史とは別の角度から時代の輪郭を探ってみたいと考えている]

私が医療機器業界に入った、昭和32年ごろから、M・E(メディカル・エレクトロニクス)という言葉が市民権を得たように思う、電子工学と医学の融合による、新しい医療機器を総称していたのだろう。

医療機器とりわけ、M・E分野の発展による市場の拡大は、旧来の医療機器業者の扱い商品を大きく変えた。

追い風となったのは、国民皆保険制度の確立、電子技術の進歩があげられると思う。

当時の社長は、ME機器の保守点検を重要な社業と先見し、工業高校で電気を学んだ若造を一人採用した、それが私である。

昭和33年3月の地方医療関連紙に「心電計技術部新設」と銘打った、弊社企業広告が掲載されている。

それから15年間、長野県内医療機関のM・E機器保守点検業務に明け暮れた。

動かない器械を再生し、地域医療に貢献し、人命に関わる業務を遂行できることに大きな喜びを感じていた。

しかし、業界が活況を帯び、需要が供給を上回る時代、目先の利く先輩や同僚たちは退職し、競うように独立開業した。

 

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夏山の吸血鬼

2010年08月18日 | 季節の便り


ウスユキソウ


鉢伏登山の為、終点で車を降りると、スズメバチの模様をした大型虻(アブ)が数匹、物の気配を察知してか、どこからともなく集まって来た。

羽音を立て体の周りを飛びながら隙を窺っている。

羽音が止った時が要注意、体のどこかに止まって吸血を始めるからである。

彼女達(血液を吸うのはメスだけ)は薄手の衣服を貫通させる鋭い針管を持っている。

一瞬 針を刺される痛みが走る、人は手という便利な器官をつかって、全方位に対応できるから救われる。

かって 山の放牧場に放された牛馬は彼女達の攻撃から身を守る術を知らない。

虻は、牛馬の尻尾と後足での、防衛行動が及ばない部所を知っていて、そこに群がって吸血する。

中には腹部が透けて赤く見えるほど血を吸い過ぎて、飛べずに地面を這っているものもいる。

いつか 何かに集中していて、虻が止まったことに気付かずにいたことがある、違和感に目を大腿に移すと、ズボンに潜るような姿勢で大きな虻が一心に吸血していた。

平手で叩きつぶすとやぶけた腹部から鮮血がほとばしってズボンを赤く染めた。

暫くして、穿刺された部位が赤く腫れあがり、痛痒い後遺症に相当期間悩まされた。

 

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巨人伝説 デーラ・ボッチ

2010年08月17日 | 季節の便り


昔、デーラ・ボッチという雲つく大男がいた。

鉢伏山山頂付近に直径100メートルを超す足型の窪地があって、デーラ・ボッチの足跡だと伝えられている。

もしこの足跡が本物であったら、身長は700メートルを優に越えていただろうと想像できる。スカイツリーの完成時とほぼ同じ身長である。

山頂に据えられた「鳴雷神」の大きな石碑と、デーラの巨大足跡が鉢伏山のシンボル的存在であった。

子供の時、父親に付いて登った山頂は、見渡す限り高山植物が咲き乱れる草原で、そう見えなくもない足型の、巨大な窪地は浅く水を湛えていたように思う。

現在 鉢伏山は山頂まで森林が浸食し草原の趣は大きく変わっていた。

草原に草を求めた生活様式が一変し、林業振興のため手っ取り早い落葉松を植樹したのだろう。

しかし植樹された落葉松は、絶え間ない強風に晒され、歪性化し、この地での造林が失敗であったことを明確に物語っていた。

往時の記憶をたよりに歩いてみたが、この高原でデーラの窪地を探し出すことはできなかった。

この鉢伏山の南西に、草競馬で知られる高ボッチ高原がある。

鉢伏山のボッチの足あとと、この高原の名前の由来に縁が偲ばれる。



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鉢伏登山 送り盆

2010年08月16日 | 季節の便り
孫4人の大将になって山登り
鉢伏山は山頂まで車道が整備されている。
今回6合目まで車を使い、最後の難所は脚に頼った。

草原にニッコウキスゲは全く見ることができない
鹿が好んで食べてしまうらしい。
久しぶりの山行き、昔取ったきねづかと、高をくくって出かけたのだが、20年前の脚力には及ばず愕然とした。
杖を持参して正解だった。
しかし負け惜しみではなく、ゆっくりゆっくり歩を進める登山も捨てたものではない、いろんな物が目にとまる。


登山の疲れも見せず若者は元気にソフトバレーに興じて歓声を上げた。

ナデシコ
平地で久しく見ることができなくなった、日本撫子が咲いていた。
里のナデシコはどこにいったのだろう。


ツリガネニンジン
標高約2千メートルの高原で見る花の色は鮮やかである


日が傾いてから、型どおりの送り盆

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全員集合 芋掘り 焼肉 花火 肝試し

2010年08月15日 | 季節の便り

百日紅




孫たちが集まってジャガイモの収穫を手伝ってくれた。
作物の出来ばえは平年並みであった。
曇天とはいえ蒸し暑い中全員良く頑張った。
日が落ちてから収穫した芋を加えてえてサルスベリの下でバーベキューを囲んだ。
しばらく見ないうちに孫たちの成長は目覚ましい。
暗くなってから花火に興じて、肝試しと進んだ、一人ずつ暗い神社の森を抜けて、鬱蒼とした昼なお暗い山沿いの路を進み、三差路を折れて、墓中の路を下って出発点に戻る約8分の行程である。
全員が無事帰還した。
明日は鉢伏山に全員登山

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献血奉仕

2010年08月14日 | 季節の便り
ヤブカンゾウ
太陽の色をして夏を謳歌したヤブカンゾウの最後の一輪が咲いた。


献血奉仕

所属している奉仕団体は献血奉仕に力を入れている。

今日は郊外のショッピングモールに献血車を派遣して、来店者に献血の呼びかけを行った。

現在輸血用血液の全てを善意の献血に頼っている。
呼びかけに多くの市民が呼応し、厳しい検査をパスた上で採血に応じてくれた。

20年前に肝臓障害で亡くなった姉は輸血による感染が原因であった。

二子を妊娠し死産した時、異常出血があり輸血で命が救われた。

輸血用血液を売血に頼っていた時代、困窮者がお金を手に入れる手っ取り早い手段は売血であった。

売血常習者の血液は薄くなり黄色く見えたという、その上検査法が確立しておらず、売血者の持つ肝炎ウイルスが輸血を通してまき散らされていた時代もあったらしい。
既に半世紀も時がたっている、正しい記憶も残っていないが「売血」「黄色い血液」という言葉は今でも覚えている。

日本がまだ貧しい時代、売血に至る環境は悲惨である、しかしその血液を体内につぎ込まれた人たちはもっと悲惨な運命が待っていた。
生前 義兄は言った「輸血が原因の肝臓障害で妻は長い間苦しんだ、しかし もしあの時輸血という手段がなかったら、妻の命は尽きていただろう。
病身とはいえ妻と30年の生活を共にできた事をありがたく思う」と

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迎え盆と100円ショップ

2010年08月13日 | 季節の便り
盂蘭盆
仏壇に灯篭を飾って朝のうちに先祖の霊をお迎えする。
午後菩提寺の住職が、バイクで檀家を回り読経する。
年ごとの決まったしきたりで、1年の早さを実感する日でもある。


100円ショップ
老眼が進んで文字が読みにくくなった、遠近両用はどうしても使いこなせなくて、ずっと単純な老眼鏡を使っている。
メガネ屋さんの老眼鏡コナーに行って、持参したテスト用の文字(万年筆のスペアーインクの空き箱に印刷されている文字)を読んで選ぶ。
居間用、洗面所用、トイレ用、パソコン用、ビジネス用等、ウインドウケースに陳列されている眼鏡に比べて格段に安い物を、一括して買ってくる。1本の価格は3千円前後である。
あるとき老眼が進み、同じなやみを共有する友人が言った「老眼鏡はどうせ半年か一年で替えるんだから、100円ショップで購入し使っている」
「で、どう?」聞くと全く問題ないという。
帰り道100円ショップに寄った、種類こそ少ないものの希望の視度のものがあり、テスト文字を読んで気に入ったので購入した105円である。
ついでに同じ価格で草刈用鎌も買った、通常千円はするだろう。
私は物を売ることを生業にしている、だから安く物を買って得したと思う反面、罪悪感にも苛まれる。
度を過ごした安売りは悪であると私は思っている。
それを買う人はもっと悪行と思うことがあるからである。





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盆に咲く花

2010年08月12日 | 季節の便り
夏水仙
盂蘭盆が近づくと夏水仙が咲く。
寺の日蔭や、墓地に群生を見る。
どんなに美しく咲いても家の中に飾ることはしなかった。
初夏に茂っていた剣の様な葉が枯れて、花茎が突然にょっきりと伸びて花が咲くその生態と、出生の故だろうか。




横浜物語


平成5年3月、信州聖高原の山荘から15分のところに、中央自動車道長野線麻績(おみ)インターチエンジができた。

完成を心待ちしていた妻はその1年あまり前に逝ってしまった。

一度でいいからここを走らせてみたかったがそれは叶わない。

山荘を作ったのは昭和51年、当時住んでいた茅ヶ崎から八王子まで一般道を走り、高速道路に乗り換えて大月まで、そこからは国道(酷道)20号線(甲州街道を)ひた走る。

運転は免許のある妻だけ。

明科から上山田に向かう県道は随一の難所、滝上峡に沿って進む、一方は崖、片方は底の見えない谷、曲がりくねった山道を妻はスイスイ、僕はヒヤヒヤ、息子は助手席で目を凝らす監視役。

家族3人の楽しいドライブ。妻は疲れたに違いないが、今記憶の残るのは笑顔で運転する若い妻の姿である。

やがて中央道は勝沼、小淵沢、諏訪、岡谷、松本とその距離を延し、安曇野豊科まで進み、そこで妻の命は尽きた。

その後、息子や甥が僕をのせて麻績インターを通ってくれた。その都度僕は妻の笑い声を耳の奥で聞く。

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お盆間近

2010年08月11日 | 季節の便り
墓掃除
盂蘭盆を迎える最初の行事は墓掃除である。
8月7日までに済ませるのが習わしである。
諸事の都合で今年は8日に行った。
1日遅れた分、念入りに行った。


横浜物語

妻の郷、信州の方言「ずくなし」は不精者の意である。

妻に言わせると、僕は「ずくなし男」であった。

妻は「運転免許は取らない、家事はしない、スポーツはしない」と数え上げてから「何をやってもブキでヘマだからやってもらわない方が気楽」ともいった。

肝臓の機能に異常が出てからも妻は良く働いて、僕を自由気儘にしてくれ、僕はそれに甘えてしまった。

病状が進むと流石に妻の動きは目に見えて鈍くなった。

仕方なく僕に任せるが、釘を打つ代わりに指をつぶし、枝を払うつもりで足を切る、妻の憂鬱は一層深くなった。

「パパが一人になったらどうするのかなァ」としみじみ云うものだから、僕もなんだか悲しくなり「俺を一人置いて行くと承知しないぞ」と威した。

妻が逝き、ガラーンとした家にポツネンとしていると、失ったものの大きさが、寂しさに変わって、押しつぶすように迫って来る。

もう、手足を動かすのも億劫で、三度の食事が二度になり一度になったりして、僕も早く妻のもとへ行きたい、と涙ばかり流している初老の男になっていった。

心配する息子夫婦や、親戚、近隣のかたがたの気遣い、心配り、優しさに支えられ、僕は何とか生きている。

見かねた妻が。時折耳の奥でハッパかけてくる。

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