南信州で茅葺屋根の民家を見た。
温泉宿に隣接して建てられており、風格のある柴垣にまもられている、ことによると名のある隠れ宿かもしれないと思った。
私が生まれ育った家もこんな佇まいであった。
囲炉裏の煙に燻されて何から何までが黒かった、人も煤けて見えた。
40年ほど前、萱を取り払い、瓦屋根に変えて現在に至る。
その時は、親戚、近所が総動員で手伝ってくれた、作業者は全身が何百年来の煤にまみれて異国人になった。
吸い込んだ煤で1週間ほど黒い痰が出たという。
南信州で茅葺屋根の民家を見た。
温泉宿に隣接して建てられており、風格のある柴垣にまもられている、ことによると名のある隠れ宿かもしれないと思った。
私が生まれ育った家もこんな佇まいであった。
囲炉裏の煙に燻されて何から何までが黒かった、人も煤けて見えた。
40年ほど前、萱を取り払い、瓦屋根に変えて現在に至る。
その時は、親戚、近所が総動員で手伝ってくれた、作業者は全身が何百年来の煤にまみれて異国人になった。
吸い込んだ煤で1週間ほど黒い痰が出たという。
友禅染めに挑戦できるという達人のお誘いで一同工房に向かった。
時間の制約があるので振袖は断念して、六色刷りの風呂敷に決めた。
丹後縮緬?の豪華な布を選んで、模様は四季の花が咲き乱れる花車とした。
作業台に縮緬をきちんと固定する、友禅染めでもっとも重要な工程である。
次に六枚の型紙が図柄から、外れる事がないようにしっかり位置決めのしるしをつける。
一枚目の型紙を位置決めの印にわせて置き、切り抜かれた模様の上に所定の色をタンポンを使って塗りこんでゆく。
順次型紙を変え、色を変え奥深い色に整えてゆく、色ずれしないように息を止めての真剣作業は久しぶりだ。
なまくらな人生を送っていることがよくわかる。
最後に糸目という輪郭の白線を入れて完成である。
昼食を食べている間に熱処理して染料を固定してくれる。
我ながらの出来栄えに満足したけれど、先生の助言と、難しいところには必ず手助けがあったから完成したのである。
京都在住の達人の推薦で、創業元禄二年京都東山にある、ゆばの老舗を訪ねた。
店に入ると、どっしりと磨き抜かれた竈が目に飛び込んできた。
ガスも電気もない時代、すべての炊事はこの竈が担ったのだろう、重厚な三つの焚口は蒸気機関車の焚口を彷彿させる。
同業者協会の集まりがあって県南部飯田市近郊の昼神温泉に出かける。
通常なら車で行くところだけれど、明日の予定を考えて電車で行く事にした。
松本から中央線で岡谷に出て、飯田線に乗り換える、約4時間の電車旅行である。
ホテルから飯田駅まで、私一人の為に迎えに出てくれるという。
以前は飯田線の分岐は、蛍で名高い辰野駅であったが、塩尻トンネルの開通で岡谷に移動した。
飯田線に乗るのは何十年ぶりだろうか、路線はバス停のような間隔で駅が並んでいた。
南信州は松本に比べ春の訪れが早い、小さな電車に揺られて行く春の飯田出張は楽しかった。
明日は中央道阿智パーキングエリアで、ワイズの皆さんと合流し京都に向かう。
京都では親交のある京都プリンスワイズメンズクラブの25周年例会を祝う。
26日は京都を観光して21時ごろ帰る予定。
残念ながら天候は期待できない、後は参加者の心掛け次第。
花を忘れた胡蝶蘭
知人との会話の中に「辻堂」という言葉が出た時、昭和30年代のことを思い出した。
ある旅を途中下車し、夕刻姉夫婦が住む辻堂駅に降りた事がある。
出迎えしてくれるはずの姉夫婦の姿が見えず、薄暗い辻堂駅北口の改札口で途方にくれていた。
姉の機転でその不安な時間は程なく解消したのだが、そのことで東海道本線辻堂駅は生涯忘れ得ぬ駅となった。
当時辻堂駅に丘陵に向かう北口と湘南海岸に続く南口のあることが、田舎者には理解できなかったのである。
海岸近くの砂場のような土地に建てられた小さな平屋が姉達の住まいであった、床に入ると太平洋の波音が聞こえたように思う。
別の日には松の防風林を抜けて江の島まで歩いた。
江の島で借りた釣竿に河豚が掛って、風船のように膨らみ怒って鳴いた。
海に戻すと風船はしばらく浮いて、パチンと破けたように空気が抜けて、何事もなかったように河豚は海に戻っていった。
、
近所で蠟梅が、昨年比で2週間遅れて咲いたという。
庭のマンサクはまだ咲かない、掲載は昨年の写真である。
そんなに急ぐわけでもないが、半月の遅れはどうも気にかかる、せっかちになっていたのかもしれない。
昨日から急に春めいて、なんだか気持ちにゆとりがでてきたようだ。
一つの事がきっかけとなって、過ぎた日の事が止めどなく蘇る事がある。
半世紀も以前、勤め先の機構が代わって、医療用放射線機器の取扱いが始まり、部署の最高責任者として臨床放射線技師のM氏が入社した。
M氏は高校の先輩ということもあり、懇切なご指導をいただく事ができ、私の医療機器の基礎はこの時に培われたといっても過言ではない。
機器の据付け完成祝い、大型商談成立祝いなどといっていつも居酒屋で焼き鳥をごちそうになったものだ。
社内の才媛を娶り、数年して行政職に身を転じ、私達は疎遠になっていった。
行政では「県民の衛生保健]に尽力されたが、不幸にして病魔に侵され、若くして世を去った。
告別式の日最前列の遺族席に座る息子さんがいた。
後日 遺児育英の募金文書が届きい、くばくかの金額を記した。
そこで私の記憶は終わる。
何十年か後、M氏のご子息が有能な放射線医師として活躍している話は聞いた。
そのM医師が、取引先であるT病院に赴任され、訪問した当社の担当者に「私の父は数十年昔、貴方の会社に勤めていたことがあります、そこで母と知り合い結婚したのです。もう私の両親を知っている人は会社にいないでしょうが・・」と話しかけた。
担当者はその話を私につないだ。
日常とみに忘れることが多くなったと実感してたのに、この一言で私の記憶の蔵が開いた。
有明山(信濃富士)と群雀
日影と日向の温度差がすごい。
太陽に向かって立つと、お腹と背中の温度差で熱電対発電ができるかもしれない。
そういえば昔、熱電対冷却を使った凍結顕微鏡標本切り出し装置があったことを思い出した。
春になったらという意気込みが、大きく萎えてしまうほどの寒さが続く。
振り返ると、季節の特徴が際立って強いほど思い出に残るものだ。
夏の猛暑も、冬の厳寒日も過ぎれば懐かしい。
早朝の空に夏の星座群がひしめくように輝いて、放射冷却の強い厳寒の朝になった。
雲ひとつない連山が紅く染まった。
マイナス12℃ 早朝小川が 凍って水が道路にあふれた。
水は冷え切った路面に触れると湯気を出して凍った。
凍ってシャーベット状になった路面を、新しい流れが乗り越えて、まるで火山から流れ下る溶岩である。
冷たい流れを遮っていた落葉を取り除いて、水流は本線に引き戻したけれど、路面の凍結は一日中続いた。