常念が見える部屋から

ここから北アルプス常念岳が眺望できます。
季節の移ろいに写真を添えて発信します。

天国からの手紙

2010年08月22日 | 横浜物語
2004年元気だった義兄より

1日涼しくなっただけで酷暑の日がつづきます。お元気とのこと、何よりです。
小生も何とか暑さを切り抜けています。
本日ブドー沢山頂戴し、恐縮。 有難うございました。いつもお気遣いくださり、厚くお礼申します。
みち子に供えました。 好きでしたからね。 
お躰ご自愛下さい。ムリはいかんですよ。 ご家族様によろしくお伝え下さい。
涼しさを待望しつつお礼まで  2004年8月18日



天国から届いた手紙

突然一身上の事についてお知らせする失礼をお許しください。

小生

さきごろ、昭和5年に生を享けた一生を終えました。

長い人生でしたが、その間、親身におつき合いくださった親戚の皆様、心美しき近隣のかたがた かてて加えて親しい友や知己の皆様にとても良くしていただきました。優しい両親やきょうだい、それに小生には過ぎた伴侶や息子夫婦にも恵まれました。

誠に心豊かな、ハッピーで素敵な生涯でした。

わがまま人間の小生にはもったいないことでありました。そんなわけでこれ以上望むものもない身であります。

そこで有難い読経と、愛する家族だけに送られて、伴侶の待つ西方へ密かに旅立つことにいたしました。

したがいまして、勝手ながら通夜、葬儀を欠礼、香典。供花、焼香など一切をご遠慮し、固くご辞退申し上げた次第です。

生前のご交誼におこたえする術を得ずして逝きましたこと、どうかお許しくださいますように。

ほんとうにお世話になりました。ありがとうございました。お礼の言葉もありません。

皆様のご健祥と、ご多幸をお祈り申し上げます。

最後に、残る家族への変わらぬご厚誼を伏してお願いいたします。

ご機嫌よう、さようなら。 

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横浜物語

2010年08月09日 | 横浜物語
露草


横浜の旅の後もくだんの旅行会は日本の各地を回る旅を重ねた。

何年かして義兄は癌の宣告を受け、つらく厳しい癌治療を受ける身になった。

病状は一進一退し、義兄から強い意志と、弱気が交錯する便りを何度か頂いた。

秋になって 衝撃的な手紙が届いた「残されたわずかな人生を息子夫婦と姉妹に見守られて静かに終わりたい、これまでのご厚情に感謝しつつも、今後の交流は没とし、今後見舞はもちろん葬儀に関わる一切の関係を断ち切って欲しい」という内容だった。

納得がゆかず問い合わせた電話口の家族は、癌の末期特有の激痛をモルヒネで抑えながら、来るべきその日を待つ状態だという。

本人の堅い意志なので、どなたの見舞いもお断りしているという家族に懇願し、ようやく入院先を突き止め、早朝鎌倉大船の病院に急いだ。

甥夫婦と姉さんが迎えてくれ、重苦しい雰囲気が漂う中病室に案内された、そこには、体を海老のように曲げて、束の間の安眠に浸る義兄がいた。

ゆり起こそうとする甥を制して病室を出た、そして甥夫婦が駅まで送るというその好意に甘えた。

あまり親しい付き合いがなかった甥夫婦のこの申し出が嬉しくて、さっきまでの胸のつかえが取れた思いがした。

しかし 道すがら様々な思いが胸に溢れてきて声にならなかった、駅に着くと甥の嫁さんが急行券を買ってきて、新宿まで急行電車で行けば疲れも少ないからと言いながら渡してくれた。

電車が発車するまで二人で見送ってくれた。

しばらくして天国に旅立った義兄から銀河鉄道を経由して手紙が届いた。
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横浜物語

2010年08月08日 | 横浜物語
日本丸

松工は初戦を飾ることはできなかった。
残念には思うれど、精一杯全力を尽くせたらそれでいいと思う。
ありがとう。
横浜物語
姉夫婦は辻堂 茅ヶ崎と移り住んで、横浜の新興住宅地に居を構えた。
二人は高原で出会って恋に落ちたと聞いている。
しかし姉は50歳半ばで肝炎のため早世した。
義兄の憔悴を見かねて、私共兄弟姉妹が相談し年1回の旅行会を企画し実行した。
義兄の気力は年を追うごとに回復し、ある年の晩春、旅行会は義兄の発案で横浜に相集った。
義兄が案内してくれた、日本丸も、港が見える丘も、外人墓地も、夜の中華街もそれぞれに心に残るものになった。











コメント (3)
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