或る「享楽的日記」伝

ごく普通の中年サラリーマンが、起業に向けた資格受験や、音楽、絵画などの趣味の日々を淡々と綴ります。

18区 ラマルク通り

2010-03-28 07:10:42 | 830 パリ紀行
今日はいよいよ”パリ紀行”シリーズの最終回。いやあ長かった。何がって?最初の記事を書き始めてからが。旅行に行ったのが昨年の4月下旬から5月の始め。つまり書き終わるまで丸1年近くかかったということ。この記事で投稿もなんと57回目。我ながらスゴイなと。よくもここまでネタを見つけたと自分でも感心するけど。まあそれだけ密度が濃かったということなんだろうな。

あせり始めたのは今年に入ってから。このままのペースだと1年かかっても終わらない可能性があると。今年も4月下旬から旅行を予定しているので、それまでに終わらないとさすがに記憶も薄れてしまう。ということでこのところ音楽や釣りの記事を完全に放棄し、執りつかれたように撮った写真を見ては記事を書いていた。安堵感が漂い始めたのはつい最近のこと。

それで締めくくりの記事だけど、18区にあるラマルク通り(Rue Lamarck)。映画「男と女」(1966年)でアヌーク・エーメ演ずるアンヌが住んでいたのが、この通りの14番地にあるアパート。ノルマンディー海岸にある田舎町ドーヴィルの寄宿学校に自分の子供を預けている”男と女”が週末に各々の子供に会いに行った後、女が最終列車に乗り遅れ男にパリまで車で送ってもらう。車中で「パリの何処です?」と男に聞かれ、「ラマルク通り」と女は答える。アパートはこの後で幾度か登場するのだけど。

たまたまこのことを知ってからというもの、パリに行ったら絶対に訪れたいなと。場所はサクレ・クール寺院のすぐ東側の坂の途中。今は改装されてごく普通の小奇麗な建物に。抱いていた映画の雰囲気とはだいぶ違っていて少々気落ちしたかな。だけど帰国して再度映画を観て気づいたのが、窓の格子が当時のままだったこと。玄関のドアも当時は木目なので色が違うけど、おそらく同じもの。頭の中を映画の場面と現地の情景が交錯して。これはねえ、しみじみ嬉しかった。

振り返ると、どの記事も懐かしい。おそらく10年後、20年後はもっとだろうなあ。

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18区 サン・ヴァンサン墓地

2010-03-25 06:26:30 | 830 パリ紀行
パリでのユトリロの足跡を辿るシリーズの第9弾で、いよいよ最終回はサン・ヴァンサン墓地(Cimeitiere Saint-Vincent)。そう、彼が埋葬された場所。前に紹介した居酒屋「ラパン・アジル」のソール通りを挟んだすぐ反対側。ただしこの通りからは墓地の塀しか見えない。入口は塀の反対側で、コーランクール通り(Rue Caulaincourt)からは少し坂を登った所にある。

少々不安だったのが墓地内でのユトリロの墓の位置。ペール・ラシェーズ墓地やモンマルトル墓地だとHPに著名人の墓の場所が明記された地図が公開されているので、初めて訪れる観光客には良い目印になるのだけど、この墓地はHPもなく、ネット上で検索しても頼りになる情報がなかった。当日に墓地の入口付近で探してはみたけれど地図らしきものはなくて。

係りの人に聞くしかないなと、左手にある詰所に立ち寄ると、なんとも人が良さそうな若者が出てきて。「ユトリロの墓は何処でしょうか?」と尋ねると、建物の外まで出てきて「あそこだよ」と指差してくれた。いや、良かった。墓地の中央に大勢の人が集まっていて、てっきりそこかなと思い込んでいたから。広くはないけど、ひとりでひとつひとつ捜すとなると大変だったから。

ゆるやかに登る歩道を歩いていくと辿り着いたのが上の写真の墓。入口とはちょうど反対側で塀のすぐ側。ここでようやく塀のすぐ向こう側に「ラパン・アジル」があることが分かって。たまたまかもしれないけど、考えてあるなと。それから30分くらいかな、他にお参りする人もなく彼の波乱万丈の生涯に想いを馳せながらゆっくり時間を過ごせた。ある意味でユトリロの独り占め。

それで気になったのが墓石そのもの。赤褐色の御影石に金文字で彼と妻の名前が彫られているのだけど、どうも周りの雰囲気からは色的にやや浮いている。雑草も多くて墓の手入れがイマイチ良くなくて。勝手に”白の時代”のイメージを抱いていた自分にとっては何となく違和感が感じられて。ともあれ、たった半日だったけど存分にユトリロの足跡を満喫したかなあ。


18区 コタン小路

2010-03-22 07:43:45 | 830 パリ紀行
パリでのユトリロの足跡を辿るシリーズの第8弾は、右下の写真の通称”コタン小路”。以前に紹介したけど、2年程前ひろしま美術館で開催されていた”芸術都市パリの100年展”に、彼が描いた絵が数枚展示してあって。ポンピドゥー・センターが保有している左下の画像の「コタン小路(L'Impasse Cottin)」(1911年)もその中の1枚。それはそれは感動的な出会いだった。

正直なところ、それまではユトリロに対してあまり良いイメージを持っていなかったのは確か。というのも、よく行くひろしま美術の常設展示室に掛けてあるのが「モンモラシーの通り」(1912年)と「アングレームのサン=ピエール大聖堂」(1935年)。これらの作品は、画風としてデッサンがやけに直線的で無機的だし、マチエールも水彩画っぽくて平坦で味気が感じられない。

他の美術館でもかなりの数を見ているはずだけど、どうも琴線に触れるものがなかったのだろうな、記憶に全くないということは。そんな印象がこの絵で大きく変わることに。12号程度の割と小さな絵で、構図的にもアパートや道路の直線が中心で構図的には面白みには欠ける。しかし近づくにつれて建物の壁が徐々に視覚に訴え始めてきて。なるほどね、この絵の人気の秘密がよく分かった。だけど「ベルリオーズの家」と同様に、実物を近くで見ないとその良さが絶対に理解できないだろうなと。

それで実際のコタン小路。サクレ・クール寺院の東側に位置している。シュヴァリエ・ド・ラ・バール通り(Rue du Chevalier de la Barre)に沿って坂を下りていくと知らない間に賑やかなラミー通りまで出てしまって。行き過ぎたと気づいたけど後の祭り。でも左折をするとすぐに小路の入口が。そこから見えたのは、まさにユトリロの絵から抜け出たような情景。ひっそりとしていて、昼間でも奥のアパートの周りがやけに暗い。手前のアパートの明るさとのコントラストでよけいに。しかしこの寂しさはどうだ。

アパートに近寄ってみたり遠ざかってみたり、行ったり来たりを何度となく繰り返して。下の写真はその時に撮った1枚。サン・リュスティック通りといい、このコタン小路といい、”白の時代”に想いを馳せるには、これ以上ない場所のような気がしたかな。

コタン小路 1911コタン小路 2009

18区 ノルヴァン通り

2010-03-18 06:09:27 | 830 パリ紀行
パリでのユトリロの足跡を辿るシリーズの第7弾は上の写真のノルヴァン通り(Rue Norvins)。といってもあまりピンとこないので、有名なテリトル広場の前にあり、ユトリロの葬儀が行われたサン・ピエール教会(Eglise Saint Pierre)につながる通りといった方が分かりやすいかもしれない。この通りはサクレ・クール寺院と同様にモンマルトルの丘のほぼ頂上に位置している。

さすがにこの辺りは大勢の観光客でごった返していた。通りを囲んで様々な店が軒先を賑わせ、テリトル広場では絵描き達がイーゼルを並べて自分が描いた絵を並べて売っていたり、客の似顔絵を描いたりで、まさによくある活気に満ちた観光地の雰囲気。自分的には最も苦手なエリアなので、ざっとみてすぐにユトリロが好んで描いたソール通りとの交差点へ移動したけど。

ノルヴァン通りを散策した後に、ついに観光名所のサクレ・クール寺院へ。まじかにみると相当でかい。南側に面した広場に立つとパリ市街が一望に見下ろせる。モンマルトルに着いてから数時間。いろんな通りを探しては坂を登る。それを幾度となく繰り返した後でのこの眺め。久しぶりの開放感を味わったかな。おそらく観光客のお目当てのひとつもこれだったような。

記事を書きながらつらつら考えたのが、ユトリロの作品にこの寺院だけを画題にしたものはなかったような。つまり絵の中心はあくまで建物や歩道で、寺院は遠景の中のアクセントのひとつ。その意味では佐伯祐三の作品に通じるものがある。なるほどね、つまり彼らにとって、あくまで”街並み”がモチーフだったのか。改めて同じ時代を生きた二人の共通点を再認識したかな。

それでノルヴァン通りの絵なのだけど、ここもユトリロのお気に入りだったみたいで相当数の絵が残っていて、下の画像はその中の4枚。前回のサン・リュスティック通りでは構図として縦が好みだと言ったけど、ノルヴァン通りでは逆に横が好みかも。

1910 1914


1910 1911

18区 サン・リュスティック通り

2010-03-15 06:08:43 | 830 パリ紀行
パリでのユトリロの足跡を辿るシリーズの第6弾はサン・リュスティック通り(Rue Saint Rustique)。サン・ヴァンサン通りからコルトー通りを経て、更に南に上っていくと辺りの雰囲気がだんだんと観光地っぽくなってくる。つまりモンマルトルの丘の頂上にそびえ立つサクレ・クール寺院のすぐ傍まで来ているので、寺院がお目当ての客であちこちがごった返してくるということ。

客の間をすり抜けながら、ようやく辿り着いたのがこの通り。まさしくこれがと思えるような裏通り。中に踏み入れると周囲の喧騒が嘘のようにとても静か。他の通りに比べて恐ろしく人影が少ない。それもそのはず、店らしきものがほとんどなかったから。ふと振り返り空を仰げば、薄暗い日陰の中で左右の建物の上にのぞくサクレ・クール寺院が、そこはかとなく寂しい。

まさに自分の中のモンマルトル、もっと言えばユトリロの”白の時代”のイメージ。いびつで古びた灰色の石畳に長い年月の流れが感じられ、それと建物の白い壁が絶妙に調和している。他の通りと比べてやけに狭い。それが逆にサクレ・クールの存在を見る者により強く印象づけている。まさに空間の美学。なにかじわじわと熱いものがこみあげてきて。それから幾度となく通りを端から端まで歩いたかな。その間も通りの人影はずっとまばらなままだった。上の写真はその途中で撮影したもの。

それで帰国後に、こんな雰囲気のある通りをユトリロが描いていないはずはないと捜して見つけたのが下の画像。気づいたのが、横と縦の構図が同じぐらいの数あること。確かに自分も両方の構図で写真を撮っている。同じ被写体なのに、横と縦とでかなり雰囲気が違うものだなと。どちらも捨てがたいけど、やはり狭さをより感じるという意味で、自分的には縦が好きかな。

1910 1914


19XX 19XX

18区 モンマルトル博物館

2010-03-13 09:59:26 | 830 パリ紀行
パリでのユトリロの足跡を辿るシリーズの第5弾はコルトー通り(Rue Cortor)。前回紹介したサン・ヴァンサン通りからモンマルトルの丘の頂上に向かってもう1ブロック南へ登ったところにあり、この通りの12番地にあるのが上の写真のモンマルトル博物館。ここはユトリロにとってとても縁深い場所で、この建物の2階には母であるシュザンヌ・ヴァラドンのアトリエがあった。

ユトリロが9歳との時に彼女は金持ちの実業家ポール・ムージスと結婚。彼女は手に入れたアトリエで、ひたすら絵を描いた。彼女にとっては珍しく平穏で安定した生活を送っていた時代。ただしそれは彼女だけの話。ユトリロは邪魔だったのか、パリ郊外のピェルフィットで祖母に淋しく育てられた。そこからモンマルトルの中学校に通っていて、その頃に酒を憶えたらしい。

当時彼は12~13歳。うーん、かなり早いような。それからはもうアル中まっしぐら。母は勝手気ままな生活を送り、子は孤独で寂しい生活を送る。学校を中退後、職に就くもすぐにやめ療養所に入退院を繰り返す息子に医者の勧めもあり、リハビリ目的でデッサンを課するようになったのが、ユトリロが絵を描き始めるきっかけだとか。しかしねえ、なんか可哀想だよなあ。

だけどもっとスゴイのはその後。この母親は、ユトリロが連れて来た友人で画家のアンドレ・ユッテルに出会い、なんと恋に落ちてしまう。当時シュザンヌは43歳、ユッテルが22歳でユトリロが25歳。「オバさん、いい加減にしろよ」とツッコミを入れたくなるけど。それが原因で彼女は1910年にムージスと離婚。それからはアトリエを3人が使うようになって。下の写真は当時の様子。

それじゃ博物館の中に入ったかって?いや、入らずじまい。理由はハッキリしていて商業的雰囲気がプンプンしたから。これ見よがしの看板がドーンと眼に入った瞬間から引いてしまって。自分の中のイメージが壊れるのだけはいやだから。


18区 ベルリオーズの家

2010-03-11 06:18:42 | 830 パリ紀行
パリでのユトリロの足跡を辿るシリーズの第4弾は、これまた通りではなくて、とある家。前回紹介したラパン・アジルが面しているサン・ヴァンサン通りを東へモン・スニ通りと交差する場所まで少し戻ると、そこには作曲家ベルリオーズの家が。と言いたいところだけど、実はもうなくて。あったのはパリでよく見かけるアパートとその壁に埋め込まれた下の写真のプレートだけ。

プレートには1834年から1836年の2年間をここで過ごしたと表示してあった。有名な「幻想交響曲」を書いたすぐ後。と書いたところで久しぶりにCDでも聴こうと探してみたけど見当たらない。そうか、LPしか持ってなかったのかと初めて気づいてすぐにヤフオクで2枚ほど手に入れたけど。なんて話はどうでもよくて、興味を持っていのはユトリロの画題となった当時の木造の家。

正直な話、「ベルリオーズの家」が彼の作品の中でも有名なことは知っていたけど、構図的にさして面白くもなく、なんでこんな作品がという気持ちをずっと持ち続けていた。その認識が少し変わったのが、パリ市立近代美術館が所有している「ベルリオーズの家」(1914年)を広島で見た時。近くでみると、その白壁のマチエールと絵肌に妙にリアリティがあり印象に残った。

そうなると、どうしても見たかったのが同じ画題で最も有名なオランジェリー美術館が所有している作品。それが上の写真なのだけど、想像以上に素晴らしくて。これはねえ、実物を見ないと絶対に分からない。なんかヘンテコな構図だから。何枚か至近距離で撮影した絵肌を下に載せたけど、分かってもらえるかな、彼のこだわりが。本物の壁の土を取ってきて絵具に混ぜたらしくて。

こうしてみると、これ程までに執着した作品もあれば、その辺の金稼ぎ的なさらっとして何の面白みもない作品もあるしで、ユトリロというのは気まぐれだなあと。確かに晩年に駄作が多いけど、若い頃でもかなりある。そんな中で、オランジェリーのコレクションは秀作揃い。枚数としては少ないけど、彼の真髄に触れることができたというは今回の大きな収穫だったなあ。



アバド指揮:幻想交響曲アバド指揮:幻想交響曲  デュトワ指揮:幻想交響曲デュトワ指揮:幻想交響曲

18区 ラパン・アジル

2010-03-07 08:06:48 | 830 パリ紀行
パリでのユトリロの足跡を辿るシリーズの第3弾は、通りではなくて酒場。前回紹介したモン・スニ通りをさらに登っていき、交差点を右折し、再びソール通り(Rue des Saules)を登っていってサン・ヴァンサン通り(Rue Saint-Vincent)とぶつかる角にあるのがその店。名前は「ラパン・アジル(Lapin Agile)」。意味は「跳ねる兎」。この店は有名で、今ではモンマルトル観光の目玉のひとつ。

さすがに周りには、まだ外は明るいというのにかなりの観光客が集まっていて。人がいなくなるタイミングがなかなかなくて、写真を撮るのに手間取った。この店の歴史は古く、できたのが19世紀半ば。パリのシャンソンの歴史を語る上で欠かせない場所らしい。まあ、自分はシャンソンには興味がないから、とりたてて店の中に入りたいとは思わなかったけど。

左下の画像はポンピドゥー・センターにある「ラパン・アジル」(1910年)。”白の時代”の初期の作品。彼はこの画題で生涯に数百枚描いたらしい。個人的にはこの作品が一番好きかな。実はポンピドゥーに展示されていないかなと期待したのだけど、結局ユトリロの作品は1枚も見つけることができなかった。是非とも実物を見たい作品のひとつだったのに。ちょっと残念。

この店はユトリロがいつも飲んだくれていたことで有名だけど、当時の芸術家のたまり場だったことでも有名。ちなみにピカソ、シャガール、ピサロ、ヴラマンク等等。間違いなく1914年に第1次世界大戦が勃発するまでは、パリにおける芸術の中心地だった。いわゆるベル・エポックというやつ。1918年に終戦を迎えて以降は、中心が今度はモンパルナスに移ってしまったけど。

それにしても広いモンマルトルの中で木造の建築物というのはやけに目立っていた。まさに100年前の古き良き時代を懐かしむのにはぴったりという感じ。惜しむらくは外壁や柵のペンキが新しくて少々興ざめだったことぐらいかな。

1880-1890 1914 2009

18区 モン・スニ通り

2010-03-04 06:21:03 | 830 パリ紀行
パリでのユトリロの足跡を辿るシリーズの第2弾は、前回記事にしたポトー通りからモンマルトルの丘の頂上に位置するサクレ・クール寺院に向かって登っていく途中にあるモン・スニ通り(Rue du Mont Cenis)。ユトリロはモンマルトルを画題に数々の絵を描いているけど、その中でもこの通りの枚数は多い。というのも彼にとって特別な思い入れのある通りだったから。

1909年、ユトリロが20代半ばの頃、母親のシュザンヌ・ヴァラドンは離婚を機に郊外のモンマニーからパリに戻ってくるのだけど、ユトリロより3歳年下の画家アンドレ・ユッテルと同棲し、しかもユトリロや祖母マドレーヌと共にパリに住むことになる。こりゃ、たまらないだろうなと。彼は朝から晩まで酒漬けで、毎晩のように酒場から酒場へと渡り歩く生活を繰り返していて。

そんな彼が母の許を飛び出し居候したのが、女主人マリー・ヴィジェが経営していた店「美しきガブリエル」。この店があったのがモン・スニ通り。ユトリロは彼女に惚れ込んでいたらしく、その意味では彼の生涯で数少ない恋愛だったらしい。上の写真はオランジェリー美術館にある「モン・スニ通り」(1914年)。”白の時代”の最後の頃の作品。自分的にはかなりのお気に入り。

実際にこの通りを登りきって絵が描かれた場所に立ってみて、かなり急な勾配の坂だったことを痛感した。ちょっと疲れたから。でも眺めは最高で、パリ北方の市街地が一望に見下ろせる。平坦な土地が多いパリの中では珍しい、モンマルトルならではの光景。高低の差はかなりのもので、なんとも言えない開放感に浸れたかな。その時に撮ったのが下の写真。懐かしいなあ。

それにしてもねえ、1901年にパリのサン・タンヌ病院にアルコール中毒患者として入院し、アル中の対症療法として絵を描き始めたとは。母が母なら子も子。しかし私生活と絵の出来栄えは関係なくて。そこがまた芸術の面白くて素晴らしいところかも。


18区 ポトー通り

2010-03-01 06:13:48 | 830 パリ紀行
今日からはパリ紀行の最後を締めくくるシリーズ。帰国前日の午後を利用して散策したのが18区にあるモンマルトル。モンマルトルと言えばいろいろあるけど、多くの著名な画家が暮らしていた場所としても有名。その中で特に関わりが深かったのは、何と言ってもモーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo)。もっと言えば彼の母親であるシュザンヌ・ヴァラドン(Suzanne Valadon)。

ということで今日から始めるのがユトリロの足跡を辿るシリーズ。最初に向かったのは彼が生まれたアパートがあるポトー通り(Rue du Poteau)8番地。位置的にはモンマルトルの丘の頂上から北側に坂を降りていく途中にある。メトロ12番線のジュル・ジョフラン駅の出口の階段を登ると、目の前には彼の画題にもなった左下の写真のサン=ピエール・ド・モンマルトル教会(Saint-Pierre de Montmartre)が。その前に大きな交差点があって通りへの入口にもなっている。それが右下の写真。

ポトー通りに入ってすぐに感じたのがモンパルナスとの違い。薄汚れていて雑多で喧騒で、これがおそらくパリの下町の雰囲気なのだろうなと。距離的にはすぐだったけど、店の軒に隠れて見えにくい番地表示を探しながら歩いてようやく上の写真のアパートに辿り着いた。なんか感慨深かったなあ、ここで二人が暮らしていたと思うと。想像していた通りの場所だったかな。

脳裏をかすめたのが彼らの人生。シュザンヌは幼い頃に母親に連れられて田舎町からパリに出てきたのだけど、父親は一緒でなく、いわゆる私生児。その彼女がモンマルトルでお針子、サーカスの踊り子、画家のモデルと転々としながら成長し、18歳の時に生んだのがユトリロ。父親が誰だかは分からない。本人がそう語っているらしく、それじゃ分かりっこないけど。

まあ恋多き女であったのは確か。それから彼女はドガ、ルノアール等多くの画家のモデルをつとめるのだけど、最も関係が深かったのがロートレック。結婚はしていない、いわゆる愛人。思えば彼女の画風はロートレックからの影響が最も強いような。