佐伯祐三の足跡を辿るついでに立ち寄ったのが藤田嗣治の住んでいた上の写真のアパート。モンパルナスと言えば知名度は佐伯より藤田が上。場所はエコール・ド・パリの芸術家達の溜まり場となっていたカフェが集まっているモンパルナスのヴァヴァン交差点のすぐ近く。エドガー・キネ広場につながるドランブル通り(Rue Delambre)の5番地。ちょうど夕暮れ時だった。
このアパートにはカフェで知り合った女流画家のフェルナンド・バレーがもともと住んでいて、結婚を機に藤田がころがりこみ、1917年から1924年までの7年間を過ごしている。彼の画業でみれば、第1次世界大戦終結の翌年である1919年に再開されたサロン・ドートンヌに出品して評価され、1921年には裸婦を描き始め、翌1922年にパリ市立近代美術館の記事で紹介した出世作「寝室の裸婦キキ」で決定的な成功を収めた。その裏には、フェルナンドの精力的な画商巡り等の支えがあったらしい。
当時は”乳白色の肌”で名声を得て引く手あまたで、絵の値段も高騰してプチ成金状態。とにかく毎晩どんちゃん騒ぎをやっていたらしい。だけどフェルナンドが藤田の弟子でイケメンの若い男を同居させたことをきっかけにヒビが入り始めて。
悩んでいた藤田の前に現れたのが、カフェで知り合ったリュシー・バドゥという若いパリジェンヌ。藤田は彼女に夢中になり、名前を”ユキ”に改名させ、結局妻と別れアパートを出て高級住宅街パッシーのアパートで暮らし始めた。うーん、とにかく派手、私生活が。モデル、妻、愛人と女漬けの毎日。思うに彼の救いは酒が飲めなかったこと。だから周囲がベロンベロンになっている間に宴会を途中で抜け出して、翌朝には絵を描き始めることができた。あの画風は几帳面じゃないと生まれない。
灯りが燈り始めた通りを歩いてみたけど、雰囲気は極めて庶民的で、レストランや飲み屋もあればコインランドリーもあるといった雑多な感じ。やはり藤田が住んでいた場所らしく、そのにぎやかさと開放感が裏通りの暗さをあまり感じさせなかった。
このアパートにはカフェで知り合った女流画家のフェルナンド・バレーがもともと住んでいて、結婚を機に藤田がころがりこみ、1917年から1924年までの7年間を過ごしている。彼の画業でみれば、第1次世界大戦終結の翌年である1919年に再開されたサロン・ドートンヌに出品して評価され、1921年には裸婦を描き始め、翌1922年にパリ市立近代美術館の記事で紹介した出世作「寝室の裸婦キキ」で決定的な成功を収めた。その裏には、フェルナンドの精力的な画商巡り等の支えがあったらしい。
当時は”乳白色の肌”で名声を得て引く手あまたで、絵の値段も高騰してプチ成金状態。とにかく毎晩どんちゃん騒ぎをやっていたらしい。だけどフェルナンドが藤田の弟子でイケメンの若い男を同居させたことをきっかけにヒビが入り始めて。
悩んでいた藤田の前に現れたのが、カフェで知り合ったリュシー・バドゥという若いパリジェンヌ。藤田は彼女に夢中になり、名前を”ユキ”に改名させ、結局妻と別れアパートを出て高級住宅街パッシーのアパートで暮らし始めた。うーん、とにかく派手、私生活が。モデル、妻、愛人と女漬けの毎日。思うに彼の救いは酒が飲めなかったこと。だから周囲がベロンベロンになっている間に宴会を途中で抜け出して、翌朝には絵を描き始めることができた。あの画風は几帳面じゃないと生まれない。
灯りが燈り始めた通りを歩いてみたけど、雰囲気は極めて庶民的で、レストランや飲み屋もあればコインランドリーもあるといった雑多な感じ。やはり藤田が住んでいた場所らしく、そのにぎやかさと開放感が裏通りの暗さをあまり感じさせなかった。