或る「享楽的日記」伝

ごく普通の中年サラリーマンが、起業に向けた資格受験や、音楽、絵画などの趣味の日々を淡々と綴ります。

きのうの神さま

2009-10-30 06:23:31 | 010 書籍
久しぶりに読んだ小説、それが映画監督として有名な西川美和の「きのうの神さま」(2009年)。実は最近まで彼女のことを全く知らなくて。カミさんが少し前に彼女の映画を観たいと言い始めて。自分としては広島出身と聞いて興味を持ったのだけど。調べると確かに広島市の出身で、成績が優秀な子が集まる有名なミッション系の私学を経て早稲田の一文を卒業していた。

本題の小説だけど、読んでビックリ。作家の才能をこれほどまでに身近に感じたことがなかったから。とにかくその知的で洗練された文章を自在に使った表現力には、ある種の品格さえ感じる。本職が映画監督だから、どうせ片手間に書いたのだろうと軽くみていたけど、とんでもない間違いだった。そう思っていると今年の直木賞の候補だったし、落選したけど。なるほどね。

中味は5つの短編から構成されていて、最初の”1983年のほたる”を除いて残りの4編は全てへ僻地医療のお話。後書きを読むと、寒村の医療現場をいろいろ取材して、それを基に映画は完成したのだけど、使わなかったネタがたくさんあって、なんとか別の形で表現したいという気持ちが強かったとか。ちなみに”ディア・ドクター”は映画化されたのとは全く別のお話とか。

彼女の小説の特徴としては、人間の心の底にズバリ切り込んでいること。特にまとわりついて逃れられない宿命的な部分。ルックス的に明るい童顔の外見とは裏腹に、その観察は実にクールで感覚はナイフのように鋭い。この小説では今が旬の老人介護も主要なテーマとなっている。そんな、ともすれば暗くなりがちなテーマをさらりと仕上げているところが憎い。

自分的に最も気に入ったのが4つめの"ディア・ドクター”。外科医の父に強い憧れを抱いていた不器用な兄と、反対に要領が良く世渡り上手な弟の物語。その二人が久しぶりに出会う。医者にはならず職を転々とし今は田舎の医院で事務をして働いている兄。しかし弟は、強く生きている兄に感動する。「ぼくは理解した。兄は、とっくに父を卒業していたのだ。・・・」

この小説の中では唯一とも言えるハッピーな瞬間。兄についてのネガティブな心配が交錯していた弟への素敵なサプライズ。いや素晴らしい。読み終えてすっかり彼女のファンになってしまった。そうなると、今度は映画を早く観なくちゃね。

きのうの神さまきのうの神さま

オランジュリー美術館

2009-10-26 06:08:37 | 830 パリ紀行
パリの美術館紹介シリーズの第5弾は、チュイルリー公園の端に位置しコンコルド広場のすぐ近くにあるオランジェリー美術館。前回のパリ訪問時は改装のため休館中だったので今回は絶対にと。調べると休館は1999年8月から2006年5月までだから、なんと7年間。長かったんだ。

この美術館はモネの睡蓮で有名だけど、実はジャン・ヴァルテールとポール・ギョームのコレクションも素晴らしい。印象派の作品がずらりと並ぶ中で目立ったのが、上の写真のルノアール「ピアノに寄る娘達(Jeunes filles au piano)」(1892年)。オルセーとメトロポリタンにも同じの構図の作品があるけど、デフォルメが効いていて鮮やかな青と緑が印象的なこの作品が一番好きかな。そうそう、コレクションの中で忘れてならないのがユトリロの作品。数は多くないけど傑作ばかり。これは別の記事で紹介するつもり。

それで全部見終わった後に真打ちとも言えるモネの睡蓮の展示室へ移動。入るとすぐに気づいたのは館内が明るいこと。それもとても自然な感じ。後で分かったことだけど、他の作品を地下に移し、睡蓮の展示室の天井から直接自然光を採り入れ、それを半透明のスクリーンを通して展示物に映しこむという大工事を施したらしい。なるほどね、だから休館が長かったのか。

広い円形の部屋が2つあって、各部屋に4枚の大きな睡蓮の壁画が飾られていた。自然に数日前に見たジヴェルニーの風景が脳裏に浮かんでくる。これらはモネの最晩年の作品であり遺作でもある。国に寄付をする上で「他の作品を展示しない」、「作品の上にガラス等をかぶせない」といったモネが提示した条件が全て守られていて、ひとつの空間芸術になっている。

とにかく素晴らしかった。あたかも柔らかな日差しに包まれて庭のテラスで佇んでいるような。これで客が少なければもっと良かったのに。でも逆にそのお陰というか、今回の一人旅では自分の写真を撮ってもらうつもりなんてサラサラなかったのだけど、あまりの日本人の多さに、つい若い女性グループにデジカメを渡して頼んでしまった。今では良い記念になったと喜んでいるけど。


森鴎外

2009-10-24 07:03:33 | 800 観光
九州プチ観光の最後は、小倉での森鴎外ゆかりの場所の探索。というのもブログタイトルの元ネタである”或る「小倉日記」伝”の「小倉日記」は、森鴎外の小倉時代の日記だから。その意味では松本清張と同様に、自分のブログのルーツを辿る聖地巡礼。小倉市内には何ヶ所か当時を偲ばせる場所が保存されていて、今回はそれらを順番に周ってみた。

最初はJR小倉駅前広場の南西の端にある京町旧居跡へ。立派な記念碑が建っているにもかかわらず、夜は若者の溜まり場になっているのか、碑の上やら横やらに空き缶やペットボトルが無造作に捨てられていた。下の写真はそれらを片付けた後に撮ったもの。なんか場所がまずいよなと。夜なんて怖くて近づけないだろうなあ。碑自体が壊されるのも時間の問題かも。

次ぎは小倉城の敷地内の南端に残っている第12師団司令部の正門跡。ここに鴎外は軍医部長として東京から赴任し、明治32(1899)年から35(1902)年までの3年間を,過ごした。当時天守閣はなく、現在あるのは昭和34年に再建されたもの。彼の自宅からは1~2kmの短い距離だけど馬で行き来していたらしい。左遷されたとは言え小倉ではエラかったのだろうなあ。

小倉城のすぐ東側の川沿いにあるのが鴎外の文学碑。6面に彼の作品からの抜粋が。そのすぐ傍には鴎外橋がかかっていた。時代を感じさせるレトロな雰囲気なのかなと思いきや、コンクリート作りでモダンなのには驚いた。橋そのものは予算の関係でしようがないとしても、せめて塗装の色を黒とか茶にして欲しかったなあ。その方がお城と景観的にマッチしただろうし。

なんてダメ出しをしながら橋を渡り東方向へ歩くこと数分。最後の目的地である上下の写真の鍛治町の旧居跡へ。ここは当時の家がそのままの形で保存され、市の文化財に指定されている。門を入ると観光客が数名。畳の部屋に座って庭を眺めていると人影がなくなった。管理人がもともといないので屋敷には自分ひとり。障子が開放されていたせいか、ひんやりした柔らかい風が吹き抜けて実に気持ちがいい。うとうとしてしまって。知らない間に少し寝たかな。今思えば最高の贅沢だったような。

京町旧居跡第12師団司令部正門跡
文学碑鴎外橋


鍛治町旧居 正門鍛治町旧居 座敷
鍛治町旧居 書斎鍛治町旧居 裏庭


独逸日記・小倉日記―森鴎外全集〈13〉独逸日記・小倉日記―森鴎外全集〈13〉

秋期情報処理技術者試験終了

2009-10-20 06:13:00 | 180 ITストラテジスト
この日曜日に秋期情報処理技術者試験が終了。場所は広島工業大学。そう、昨年社労士を受験したのと同じ会場。社労士はここで合格したので、これは縁起がいいなと思ったりして。その時の記事にも書いたけど、この大学は自分の家のすぐ近く。自転車で10分もかからない。社労士の時と今とで違うのは、自分の息子が通っていた付属高校が別の場所に移転したこと。

いつだったかTVのドキュメンタリー番組で特集していたけど、やはり自分の出身校がなくなるというのは寂しいだろうなと。息子の高校の場合は、なくなったというより新しい別の場所への移転に乗じて改名したらしい。まぎらわしい名前の高校が別にあったのが理由だとか。確かに制服はもとのまま。だけど校舎がなくなり名前も変わるんじゃ、卒業生はつらいだろうなと。

なんてことを思いながらキャンパスの坂を登っていくと、今回の会場は西側にある新しいビル。中に入ると、なにやらこざっぱりしたシティホテルの雰囲気。最近の大学ってどこもモダン。ITストラテジストの試験が行われた部屋はひとつで、他の試験と比べて人数がだいぶ少なく、受験者は約70名で女性が1割ぐらいだった。驚いたのは自分のような午前Ⅰの免除者が全体の5割を超えていたこと。それと若者と中高年が少なかった。30~45歳ぐらいに平均して分布していた感じ。

それで肝心の試験だけど、さっそく午前Ⅱの回答速報をチェックしたら25問中18問が正解。正答率72%で基準をクリアしていた。春期に撃沈した午後Ⅰは、おそらく点数アップしたはず。午後Ⅱの論文も、事前に準備していたERPパッケージ導入の話が使えたので、字数を埋めただけの春期よりは格段の進歩。全体として、ひょっとすると合格ラインに到達したかなと思ったりして。

だけどひとつ大きな心配ごとが。午後Ⅱの論文の表紙に選択した設問に丸印をつける欄があるのだけど、どう思い返しても記入した憶えがない。記入漏れだと一切採点しないと明記してある。つまりその時点でゲームオーバー。これはねえ、なんかヤバイ。今思えば独学なので、受験の基本的な注意事項がしっかり頭に入っていなかったかもしれない。つかの間の喜びだったかな。


焼きうどん

2009-10-16 06:20:02 | 600 グルメ
九州プチ旅行2日目の午前中に北九州市立美術館を訪問した後、昼食を取るために繁華街の魚町へ。小倉にも有名店がたくさんあって目移りがしたけど、下関に近いということから最終的に決めたのがふぐ料理専門店「ふく一」。ところが店に入るといきなり「今日は土日なのでランチはやっていません、コースだけです」との声が。さすがに昼からコースはないだろうとあっさり断念。

そうなると逆にターゲットが定まって、そこから北へ数分歩いたところにある「だるま堂」へ。ここは”焼きうどん”が有名。言うまでもなく一般的にポピュラーなのは焼きそば。焼きうどんというのは地味な存在。これは広島風お好み焼きにも言えることで、定番メニューは”肉玉そば”。”肉玉うどん”を注文する人はあまり見かけない。我が家で言えば自分ぐらいかな。

そのマイナーな焼きうどんの発祥の店ということで個人的にとても興味を持っていた。まさに元祖。場所は路地からさらに一本奥に入った狭い商店街の一角。いかにもって感じ。大きなのれんが掛かっていてすぐに分かった。店の中に入ると満席だったけど、ちょうど数人出てくるところで、ラッキーにもすぐに座ることができた。しかしやけに狭い。あるのはカウンターだけで定員7名ぐらい。

その向こうで腰が曲がったおばあさんが黙々と鉄板でうどんを焼いている。ビールをチビチビやりながら眺めていると、外見からは想像できない手際の良さに驚いた。その愛想のなさが、いかにも元祖という雰囲気を感じさせる。出来立てを賞味すると、特別に美味しいという訳ではないけれど、伝統を感じさせる素朴な味わい。やや不満だったのは量が少ないことぐらいか。

発案したのは亡き主人で、奥さんが引き継いで味を守っているらしい。なんか立派だなあと。70歳を超えているのに独りで全部やっている。これには素直に頭が下がる。なんか人間の生き様をまざまざと見せつけられた気がしてジーンときたかなあ。


松本清張記念館

2009-10-13 06:06:16 | 800 観光
今回の九州プチ観光でどうしても立ち寄りたかったのが小倉にある松本清張記念館。彼は小倉出身で、出世作となった芥川賞の受賞作品が”或る「小倉日記」伝”。そう、自分のこのブログのタイトルは、この本の題名をもじったもの。ある意味で聖地巡礼ってところ。場所は小倉城の敷地内にあり観光地としては絶好の立地。そのせいか客がやけに多かった。

館内に入ると、清張の年表が詳しく掲示されていて。彼の両親は広島から小倉へ移り住んだらしいこと、学校を卒業してすぐは印刷工として働いていて、そのデザインの能力を見込まれて新聞社へ入ったことなど、知らなかったことが盛りだくさん。芥川賞を受賞後に東京への転勤を希望して上司宛てに書いた手紙もあったりして、彼の足跡を理解するのにとても役立った。

最も感激したのは、”或る「小倉日記」伝”の原稿の模写を見た時。何故か妙に興奮して。気づいたのは、当時のタイトルが”或る「小倉日記」傳”だったこと。疑問に思ったのは、旧漢字の”傳”が今は”伝”になったとしたら、”或る”はどうして今は”ある”じゃないのだろうかと。でもね、もし”或る”が”ある”だったらつまらないかな。”或る”の古めかしさが気に入ったのかもしれない。

歩いていると、ふと自分のルーツを捜しているような妙な気分になったのは確か。なんだか楽しい。彼が実際に使っていた書斎が再現されていたりして、清張ファンにはたまらないだろうなあ。出口付近に近づいた頃に流れてきたのがブルーノート系のジャズ。そういえば館内は黒一色。清張と黒とジャズ。”黒い霧”をもじった訳じゃないだろうけど、意外にしっくりしていて。彼の生き様にフィットしていたような。思えば社会や人間の闇の部分を大衆メディアに載せた先駆者は彼だったかもしれない。

そうそう、入口付近に掲示してあったのがビートたけし主演のTVドラマ「点と線」のポスター。2年前に放映されていて、その時は見逃したけど、TSUTAYAでDVDをレンタルしてようやく観たのがついこの間。これがなかなかの出来で面白かった。



ビートたけし×松本清張 点と線 [DVD]ビートたけし×松本清張 点と線 [DVD]

北九州市立美術館

2009-10-10 07:05:52 | 300 絵画
九州プチ観光の2日目は小倉。前日の夕方に久留米から高速バスで1時間半かけて移動。まさかこんな路線があるとは。最も低料金だったし。翌日の日曜日の午前中に北九州市立美術館へ。ここは郊外に本館、市街地に別館という2館構成。ホテルの近くからバスに乗り西方向へおよそ30分。そこから無料シャトルバスで数分山を登ると、眼の前に巨大な白い建物が。

失礼だけど立地といい外観といい、よくあるどこかの宗教団体の施設っぽい雰囲気。著名な建築家の設計らしいけどスケール感がありすぎて美術とは馴染まないような。時が経てば経つほど廃墟の匂いが漂う、そんな殺漠とした景観に少し違和感を覚えたかな。だけどサプライズだったのがここからの眺め。響灘を一望できてヘンな展望台よりも断然素晴らしかった。

やけに幅の広い階段を登りきると受付が。そこで入館料を聞いてビックリ。常設展が150円で、企画展と合わせて千円ちょっと。どういう設定なんだと思いながらまず常設展へ。愛想の良い受付のご婦人の案内で中へ入ると、いきなりドガが描いた「マネとマネ夫人像」(1869年)が。真打ちが最初とは。マネには今年のパリ旅行から特別な興味を持ち始めているので別の記事にするつもり。それ以外で印象に残ったのは小出楢重の「卓上蔬菜」(1927年)ぐらい。なるほどね、展示作品が少ないのか。

次ぎに企画展の"源氏物語千年紀 石山寺の美"へ。琵琶湖のほとりにある石山寺は、紫式部が源氏物語を起筆したと言われていることで有名。国宝や重要文化財が目白押し。印象に残ったのが江戸時代の絵師である土佐光起(とさ みつおき)が描いた上の画像の「紫式部図」。色使い、筆使いが実に旨く品がある。後で判ったけど、前日に福岡市美術館で観て気に入った「源氏物語図屏風」も彼の作品だった。日頃TV番組の「なんでも鑑定団」ぐらいしか接点のない日本画を堪能したかな。

思うに、建物の立地や規模と比較して常設展が貧弱すぎ。わざわざ郊外の美術館に来た甲斐がない。企画展が充実していただけに、よけいにバランスが悪すぎる。少なくとも半々ぐらいの展示にすべきじゃないかと。ちょっと文句を言い過ぎか。


6区 サン・シュルピス通り

2009-10-08 06:18:07 | 830 パリ紀行
久しぶりにパリ紀行の続きを。サンジェルマン・デ・プレという地区は日本で言えば青山のようなところで、街行く女性がとてもファッショナブル。ちなみにサン・シュルピス教会でオルガンコンサートを聴く前に入ったカフェで、目の前に2人の若い金髪のパリジェンヌが座ったときはそわそわしたかな。とても同じ人間とは思えず、カワイイお人形が2体並んでいるって感じだった。

話を本題に戻すと、教会の裏通り沿いに面していたのが、フランスの思想家であり作家でもあったジョルジュ・バタイユが最後に住んだアパート。サン・シュルピス通りの25番地。実は歴代の哲学者や思想家の中で、自分が今最も共感できるのが彼。1962年3月にこのアパートに移り、その年の7月に65歳で死去している。最後は全身不随という哀れな状態だったとか。

しかしアブナイよな、この人は。カトリックの信仰を捨て「コントル・アタック」や「アセファル」といった妖しい秘密結社を創設。今で言えばオウムとかの新興宗教の教祖。パリ国立図書館の司書というおカタい職業でありながら、アフターファイブにはサン・ドニの歓楽街で複数プレイに興じるという変態オジサン。私生活そのまんまの官能小説をとても本名で出版できなかったのも理解できる。エロスとタナトスを同一視する彼の考え方は、今の日本で言えば男性版の杉本彩って感じかな、違うか。

だけど当時の常識だった西欧合理主義を徹底的に批判したのは素晴らしい。ヘーゲルの”絶対知”に対して”非-知”を対極に置き、”理性”ではなく”低い物質”と呼ぶ非理性的な力の中に人間の本質を見出し、”呪われた部分”と呼ぶ根源的欲望に基づく非生産的消費を軸とした普遍経済学を打ち立てた。その目線で今の世の中を眺めると実に納得がいく。戦争を、生殖を目的としないセックスと同じ”蕩尽”又は”消尽”と名づけた非生産的消費で括るなんて、たまらなくクール。

なんて難しい話になったけど、アパートの周りはアナキーな彼のイメージを微塵も感じさせないひっそりとした閑静な雰囲気。ホント青山の裏通りって感じ。1Fには小洒落たブティックが入っていて。なんと隣りには「MUJI(無印良品)」が出店していた。

バタイユ入門バタイユ入門        バタイユ 消尽バタイユ 消尽

G・バタイユ伝〈上〉G・バタイユ伝〈上〉 G・バタイユ伝〈下〉G・バタイユ伝〈下〉

久留米ラーメン

2009-10-05 06:03:44 | 600 グルメ
これまで一度も食べたことがなく今回の九州プチ旅行で楽しみにしていたのが久留米ラーメン。最初に行ったのは聖地である久留米市にある上の写真の大砲ラーメン本店。数あるラーメン店の中で何処にしようかと迷ったけど、西鉄久留米駅から石橋美術館に行く途中だし人気店らしかったのでここに決定。本店という響きに釣られた感もあるけど選択は間違っていなかったと思う。

この年になると食べモノの好き嫌いはほとんどなくなっている。だけど今回は久しぶりにギブアップ。石橋美術館を存分に楽しんだ後の午後4時ぐらいに入店。中途半端な時間なのに客が大勢いたのには驚いた。加えて客層も若者が中心。小洒落たジャズなんぞが流れていて、繁盛店によくある雰囲気。お腹があまり空いてなかったので、シンプルにラーメンのみを注文。

店内に入ったときから豚骨臭が気になってはいた。だけどいざ目の前に出されると、ここまで臭うとは。かなりキツい。それでもわざわざ来たのだからと麺は完食。さらにひるんでなるものかと、おもむろにスープを飲み始めたけど、結局数杯で打ち止め。いや、参りました。後から入ってきた若いキレイ系の女の子のグループがフツーに食べているのを見て落ち込んだかな。

次ぎの日に、どうしても口直しをしたいと事前にチェックしておいた小倉の市街地にある「魁龍」へ。しかしここで再び悪夢が。やはり豚骨臭が気になる。ここでもスープは数杯で打ち止め。ちょうど休日の昼どきだったので、店内は家族連れや学生で一杯。皆、美味しそうに食べている。後で分かったことだけど、ここは久留米ラーメンの専門店だった。つまり2連敗ということ。

なんかねえ、トラウマになりそう。いろいろ調べた結果では、同じ豚骨ラーメンでも、久留米ラーメンは九州のネイティブ向けで、博多あるいは長浜ラーメンはそれより洗練された一般向けらしい。他の地方の人間が久留米ラーメンを最初に食べると自分と同じような印象を持ち、それがだんだん慣れて病みつきになっていくのだとか。でも、自分にはとうてい無理なような気が。


石橋美術館

2009-10-01 06:35:38 | 300 絵画
九州プチ旅行の初日は、午前中に福岡市美術館を訪ね、足早に次の福岡県立美術館へ。ところが受付の女性と話が噛み合わない。県展をやっていて全館の展示室を使っていることが判ったのは少し経ってから。つまり常設展もなかったということ。これにはガックリ。この美術館の場所が荷物を預かってもらったホテルのすぐ傍だったのがせめてもの救いだった。

それで予定を変更し、早めの昼食をとって久留米へ。西鉄天神駅から大牟田線の特急を利用して約30分。車窓からのどかな田園風景を眺めていると突如としてビル群が見えてきた。その中心にある西鉄久留米駅から歩いて約10分。地図でみると美術館を含めた敷地はかなりの広さで、どんなところか興味深々だった。現地でパンフレットを見てようやく全貌が明らかに。

ここは石橋文化センターと呼ばれ、昭和31年に株式会社ブリヂストンの創立25周年を記念して、創業者石橋正二郎氏が郷土久留米市に寄贈したもの。対象としては石橋美術館、石橋文化ホール、石橋文化会館、日本庭園等があり、この他に市民図書館等も併設されていた。端的に言えば、大きな文化ゾーン。寄贈したにしてもスケールがやけにデカいなあと。

石橋美術館に足を踏み入れると、これが都会の一流美術館の佇まい。ちょうど「ランキングで楽しむ石橋美術館」という企画展をやっていて代表的な人気作品が多数展示されていた。特に地元久留米の出身である青木繁と坂本繁二郎のコレクションが充実していた。彼らは小学校時代の同級生で仲良しだったとか。青木は放浪生活の末に28歳で他界。心身共に病んでいたのだろうなあ。

2枚あった佐伯祐三以外では藤島武二の「屋島よりの遠望」と安井曾太郎の「レモンとメロン」が気に入り、堪能して退館したけど、時間に余裕があったので敷地内を散歩。花壇にはコスモス、ケイトウ、センニチコウ、彼岸花が咲き乱れ美しかった。あまりの心地よさにベンチでついうとうと。ゆったりとしていて癒される、そんな感じ。とても幸せな時間だった。

屋島からの遠望(1923年)レモンとメロン(1955年)