ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

死生観とお葬式

2011年09月08日 | イベント
 近頃、近所でも友人、知人の中にも突然死も含めて、いろんな死に直面することが多くなった。

 自分自身もそれ相応の年齢に達しているからといえば、それまでだが、お盆や敗戦記念日を過ぎて、九月の秋らしい気候になってきた今、何故に改めて「死生観とお葬式」について書こうと思ったのであろうか。

 そのひとつのきっかけが今年のお盆過ぎに伝えられた同年輩の男性の訃報からお通夜に参列した時の印象からであった。

 その方とは私自身が勤めていた団体の活動にお子さんが参加されていて、そのお父さんということで地域と子供の関わりを通じて知り合った知人というか友人であった。

 しかし、そう親しくしていたわけではないのだったが、地方公務員として働いておられたことは知っていて、時折たぶん職員組合の関連のお仕事をされていたらしく、世界と日本の諸課題に関わる運動や市民活動の情報などを通じて、彼らしい独特のスタンスとでも言うべき姿勢や思想を垣間見ることが出来た程度なのだが、いつも自分というスタンスは忘れないマイペースの人であった。

 ご家族は奥さんとご長男さんの三人暮らしだったと思うのだが、一人っ子のお子さんが大学を出て、たぶん関東圏だつたと思うが離れて生活をされ、奥さんを貰って幸せな家庭を築いておられる程度の情報しか私は耳にしたことがなかった。

 突然の訃報に驚きながら、その日の夕刻に知らされた葬儀上へと足を運んだのだったが、知らせをくれた友人の言葉では「宗教的儀式はしないと、香典などのお気遣いは要らない」との伝言があったので、真夏の葬儀で一番厄介な思いになる上下黒のフォーマルスーツを着込んで直接会場脇の駐車場まではネクタイを外して行って、会場に入る時に黒のネクタイをして入場した。

 葬儀社のセレモニーホールと称される式場での最近の葬儀は、ほんと流れ作業の如きご葬儀やお通夜が多く、私自身は少しうんざりと言うべきか、どうも亡くなった故人を送るという心からの哀悼の意を表したり、故人の面影を思い出しつつ、ご遺族への衷心からの弔意を簡単な言葉としぐさで表すというよりも、参列した者たちを順番に「ご焼香」をさせるために誘導し、遺影を拝しつつ短時間のお別れをして、ご遺族に一礼して帰るだけといった「形」だけの参列になる場合が大半であった。

 今回のお通夜式は、仏式でも神式でもなく、葬議場の司会者の職員はおられたが、簡単な式の始まりを告げられた後は、故人となってしまった知人の職場の同僚と関係者がそれぞれ正面の遺影の飾られた花束が飾られた祭壇の前に立って、前もって準備された弔辞とやらを読むのではなく、故人との関係とエピソードなどをご自分の言葉で思い出されながら語られたのであった。

 故人とまの関係は千差万別だと思われるのだが、職場での彼の人となりや仕事に関わる姿勢、また友人でもある職場の同僚たちが彼のことをどう思っていたのかなど、私などには全くわからなかった「人となり」とでも言うべきか、「人間性」の一こまとでもいうべき人柄や性格について憶測できる様な情報というべきお話がなされたのであった。

 職場帰りの同僚職員と思われる人たちが通夜式が始まった後にも、次から次へとやってきてお焼香をされ続けて、ようやく儀式的ではなかったが、一時間余の時間が過ぎて、一人息子でもある喪主の長男がお礼の挨拶に立たれたのであった。

 彼は自分と父である故人との関係、プライベートな家庭での故人の様子などを語りながら、この会場に流れているBGMは、父の書斎兼仕事?部屋でもよく流れていた「モーツアルト」であると明かして、こんな通夜にしたことを自分の言葉で会場に参列した人たちに理由と気持ちを披露して、「どう感じられたでしょうか?」と自問自答していた様に感じられた。

 いずれにせよ、私たちが日頃感じているお葬式やお通夜、またお墓参りなど、当たり前の如くなされている「形」が、本当に死者である故人や残されたご遺族たちの思いとなっているかが疑問なケースが多く感じられる昨今の、特にセレモニーホールなどでの葬儀、告別式と感じていたので、今回の知人のお通夜式の形式には囚われない「形」になんとも言えぬ心を感じると共に共感を覚えたのであった。

 さて、自分の高齢の母や親戚を含む数々の訃報を通じて、これからも幾多の葬儀や通夜に参列することがあると思うのだが、私自身の才覚で故人との別れや式をプロデュースできる機会があるならば、やはり故人の人となりや性格、ご家族の中での姿、言葉、そして一番いい故人の写真などを披露して、この世での人生の全ては表現できなくとも、少しでも故人の一生の個性、生き方、価値観などを、せっかく参列して下さった方々にだけは、知っていただく工夫を施した「形」にしたいものだと痛感したのであった。

 決して、宗教的儀式が無用だとか言うのではないが、故人の送別を残された故人と親しかった者たちが、じっくりと心の中に故人を偲べるわ様な工夫ある式典、集いとしたいなぁと改めて思ったまでである。

 また死生観については、多くの人や書物に多様な意見や考え方があって自由なのだが、前世は何だったとか、亡くなった人が見ているとかいう霊や魂の存在説をあまり信じてはいないし、宗教的儀式も人間的な創られた所作としては理解できるが、必ずしも死者の魂や人生の最後を送るセレモニーとしては的確だとは言い難い面が多いのだが、人は今迄通りが一番安心するのかも知れないと思っている。





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