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ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

真夏の植木剪定

2011年07月13日 | ファミリーイベント
 今日は、大阪の実家の道路サイドの植木が伸び放題になっていて、生活道路とはいえ前の道路の半分近くにオリーブの大木などがしゃしゃり出ていたので、ご迷惑をかけていたらと思い思い切って伐採するつもりで、自家用の軽のワンボックスに高枝切り挟み、脚立、のこぎり、剪定挟みなどと共に軍手とゴミ袋を用意して朝から出かけた。

 午前中にはだいだいの剪定が済むだろうとの予測をはるかに上回って、昼ごはんの休憩をはさんだとはいえ、なんと思いもかけずの5時過ぎまでの「植木屋さん」の如き仕事となった。

 日中はさすがに暑さを感じて、自宅から持参した麦茶のペットボトルはすぐに空になったので、自動販売機でスポーツドリンクを買って、水分補給をしながらではあったが、どんどんと汗をかくので「熱中症」にだけは注意しながら、高枝バサミと剪定ばさみ、のこぎりを駆使しながら、伸び放題の植木との格闘を行ったのである。

 幸いか不幸か知らないが、向かいのマンションの駐車場や周辺の植木の剪定に、プロの植木屋さんが来ていて、若いお兄さん二人と年配の仕事人が二人、計四人もの仕事人が仕事をしていたので、こっちも負けないくらい一人でがんばった。

 どうしても午前中だけでは時間が足らず、一時過ぎにやっと昼食休憩をとったが、午後からの時間の経つのがあっと言う間と言うべき感じで、二回ほど水分補給のためにペットボトルの水とコーラを自動販売機で買った以外は、一生懸命に刈り取った枝や草を出来るだけ短くカットして、はじめはゴミ袋に詰めようとしたのだが、小さな小枝やバラの棘などでビニール袋が破れてしまうこともあって、小さくカットした枝や葉っぱを直接ワンボックス車の後ろのスペースに詰め込んだ。

 汗をかきかき奮闘している私に、近所の奥さんだろうと思われる女性が声をかけてきた。自分ちにどんぐりのなる木があるのだが、大きくなり過ぎたので剪定というのか切ってほしいとのことで、「おいくらくらいかかりますか?」と尋ねてこられたのである。

 いやはや、私如きが自分の実家と言っても、現在は誰も住んでいない状態の家の玄関先から道に面している庭木が、あまりにも伸び放題なので切っていただけなのに、なんと植木屋さんと間違われた様子であり、実はプロの植木屋ではなく、この家の者で自分でやっているのですと説明した。

 しばらくすると向かいのマンションの仕事をしていた植木屋さんたちが仕事を終えて片づけをしてトラックに切った植木やゴミを積み込んで帰って行かれたのは気づいていたが、時間はあまり気にせずに植木と格闘していたので、向かいの管理人さんが今度は声をかけてこられて、「そちらは蔭がないから大変でしょう、水でも浴びますか?」と親切にも「熱中症」になってはいけないと気遣って下さったみたいだった。

 大丈夫ですとご親切を断って、もうひとがんばりして何とか車いっぱいに剪定した枝や葉っぱを積み込んで終了した時刻は、既に時計の針は午後5時を回っていて、びっくりして玄関先を掃除して車に乗り込んで京都の自宅へ帰途につき、行きしは第二京阪道の側道を走って行ったので、帰りは早くと思って阪神高速を走って帰った。

 とても気持ちのいい疲れと汗した体のままで、一仕事した満足感を感じながら阪神高速を走り抜けて枚方バイパスから、いつもの大阪からの帰路に使う、第二京阪道路の側道に入ってしばらく走ったところで、何か異変を感じた時は既に遅かった。

 後ろから何処から出てきたのかわからぬままに、白バイのおまわりさんが停止を指示していたのであった。

 高速道路の側道とはいえ新しい走りやすい道なので、ついついスピードが出てしまっていたらしく、「スピード違反」の反則金を払わねばならない違反切符を切られてしまった。

 なんとも皮肉なことに、一日汗してひと仕事をを終えて後はシャワーを浴びて、伝統の一戦で昨夜も勝った阪神タイガースの甲子園球場での巨人戦のテレビ中継を見るのを楽しみに急いでしまったために、とんでもなく後味の悪い結果となってしまった。

 なんとおまわりさんに「違反切符」を切られている時に、妻から携帯電話に「阪神は新井、金本の連続二塁打で先制した」とのメールが届き、スピード違反のお咎めさえなければ、とっても気持ちのいい阪神タイガースの快勝で借金を2とした晴れ晴れしかった夜になったのになぁと溜息交じりの日となってしまった。お疲れさんでした。
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「卒原発」の機運到来!

2011年07月12日 | 季節の話題
 3・11東北大震災後の福島原発1号基から3号基までのメルトダウンを伴う大事故から約4ヶ月が経つが、被災地復興の諸案件も含む延長国会では、与野党の「原発談義」は続いているが、福島原発の事故処理に「数十年単位の時間がかかる」との菅首相の見解をはじめ、早期収束を願っていた多くの国民、関係者、マスコミの期待を裏切って、とんでもない長期間の収束に要する年月と共に巨額の税金投入が必要であることがようやく見えてきた。

 福島第一原子力発電所の少なくとも上記3基の「廃炉」を前提とした見通しでは、枝野官房長官も11日の記者会見で、「最終的にすべての処理が終わるには一定の年月がかかるだろう」という首相の趣旨だと説明した上、同原発の廃炉までを想定していることを認めたのであった。

 つまり、今回の原発事故の当初想定されていた、収束計画もしくは原発の安全性の確認をした上での再稼動なんて見通しは全く消えうせていて、どのような手段と時間をかければ、周辺地域への放射能汚染をはじめとする影響被害を最低限に抑えられるかという難題に直面しつつ、もう福島原発の再稼動なんてありえないという自然なコンセンサスを持たざるを得ないところに来てしまったのである。

 全国各地にある日本の全54基もの原子力発電所で現在稼動しているものは実際は10数基しかない状態であるにも拘わらず、日本の経済活動や今後の産業活動には「原発は不可欠」という立場をとっている政治家や企業人がまだまだいることは事実だが、全国の都道府県知事の中の女性知事でもある二人の知事が、今日、明日秋田市で行われている全国知事会で「卒原発!」のアッピールをすることとなった。

 いずれも隣の県に原発が立地している山形県の吉村美栄子知事と滋賀県の嘉田由紀子知事で、共同でアッピールし、併せて国に再生可能エネルギー導入のための規制緩和や財政支援を求めるというものである。

 アッピールでは、原子力発電から出る廃棄物処理の困難さや健康や環境へのリスクを勘案すれば、原発への依存度を徐々に少なくし、卒業できるような「卒原発」が望ましいと表明していて、再生エネルギーの導入などの推進を加速させるようにと提言しているのである。

 この具体的なアッピールが女性知事のふたりから始まることに大いなる意義を感じると共に、石原慎太郎東京都知事をはじめとする古い体質の経済優先しか考えていないような男性政治家や知事たちが多い中で、少なくともすぐに「反原発」や「脱原発」という戦いではなくて、「卒原発」という柔らかだが強い意志のアッピールを始めた女性知事にエールを送りたいと思う。

 私の住む京都府も原発銀座と言われる福井県の南に位置していて、約50キロから80キロくらいで、福井の原発が事故を起こすと間違いなく直接的な放射能被害に見舞われる地域なのだが、自分たちの住む地域が危険だというだけでなく、日本の原発が事故を起こせば、日本の全国での生活、経済活動だけでなく、全世界的なあらゆる問題に波及して風評被害や実質的な放射能汚染が広まることは、言うまでもないことが今回の事故でも明らかになっている。

 全国各地で、多種多様な原発に対する問題提起や「反」「脱」「卒」などと冠をつけての「原発」を回避しようとする動きが、徐々にてはあるが間違いなく浸透しつつあることを実感していると思うが、一番対応や自分自身の見解を表明するのが遅いのが政治家や企業の経営者たちだろうと感じていて、一般の市民、国民がいろんな形で「原発のない社会」を願う気持ちを明らかにして行くことで、日本もドイツ、スイス、イタリアに並ぶ「脱原発」を目指す国となれると思うのである。

 今国会を初めとして、民主党政権の危うさや菅直人首相の退陣を求める与野党の論調などが目白押しで、「原発解散」などという菅首相の最後の一手などと言われたりしているが、菅直人首相が市民派的政治家として政界に出てきた時代を思うと、まさに今、彼自身が前記した二人の女性知事のアッピールの如く「卒原発をめざす!」というスローガンを思い切って掲げれば、国民の過半数以上が、今そうした機運の中で考えていると思われるので、首相退陣をしたとしても歴史的に残る「卒原発」の歴代首相のトップになれるのになぁと思っている。

 いずれにせよ時間はかかるが、世界から「原子力」による平和利用や「原爆」ではないとの言い逃れではない、「卒原発」の流れは変えられない21世紀となるであろうことは間違いないのである。
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女子ワールドカップ準決勝へ。

2011年07月10日 | イベント
 やりましたね。日本時間では未明から明け方にかけて、ドイツで開催されているFIFA、国際サッカー連盟の女子ワールドカップ決勝トーナメントで、世界王者で三連覇に挑んでいる地元強豪ドイツに、なんと90分を0-0で戦い切っての延長戦の後半に、決勝ゴールを「なでしこジャパン」が決めて、残り10分余のドイツの猛反撃を何とか守り切り、軌跡のいや実力の勝利をあげたのである。

 昨夜の前評判では、決勝リーグへの出場を決めた後のイングランド戦に、いいところなく0-2で負けた日本チームの疲労度やいくらFIFAランクは世界4位といっても、かつてドイツには一度も勝ったことがないという宿敵というよりも、王者に対して果敢に対決し、勝利への執念を燃やしたとしても、惜敗するだろうとの見方が多かったので、私もいつもの様に深夜1時前には床について眠っていたのであった。

 ところが今朝、6時前に寝床の中で耳にしたラジオのニュースによると、後半に入ってもいまだ両チームともに得点を奪えず、なでしこジャパンは王者ドイツに対して素晴らしい健闘をしていて、後半から終盤にかけてに勝機が訪れるかもしれないとの報に、寝てもいられず起き出して、NHK衛生放送の生中継に見入ってしまったのであった。

 確かに身長差もって、我が日本女子の動きはすばやくとも、ここぞと言うときには体を入れることが困難で、ドイツの選手にボールを奪われるシーンが多く見られたのだが、細かいパス回しやスピードでは決して引けをとらない鋭さと瞬発力が日本選手には見られたので、淡い期待を込めてテレビ中継を見続けたのであった。

 前後半45分づつの時間を0-0で終わってしまったのだが、日本女子代表サッカー選手たちには疲れはあっただろうが、大和ナデシコというよりも、さらに強い精神力と粘りの根性の様なものが感じられていたので、何とか延長戦での決着を夢見ていたのであった。

 延長の前半だつたと思うのだが、32歳のベテランで日本女子サッカーの牽引者でもある澤選手がピッチに相手選手との交錯で転倒し、相当内腿を強打したらしく一時はタンカーでピッチ外に出て治療するという一幕があって、しばらくの間は10人対11人の不利な条件下で、防戦しながら戦っていたので、この時間帯に相手にゴールを決められたら不運だと感じて、澤選手の復帰を祈っていたのであった。

 幸い、痛みをこらえつつ澤選手が復帰したので、これで行けるという機運が高まって、なんと彼女のゴール右への絶妙なロングパスから決勝点となるゴールが生まれたのは見事だったし、芸術的でもあった。

 まだ澤選手以外のナデシコジャパンの代表選手の名前や個性をあまり知らないので、ゴールした18番の丸山選手のことも全く知らないが、見事に走りこんで相手防御の選手の間とゴールキーパーの動きの隙をついてのゴール左隅への的確な素晴らしいキックが炸裂したのであった。

 当然、早朝にも拘わらずのテレビ観戦だったのだけれど、ゴールが入った瞬間とその直後にとっても熱い思いと久しぶりの感動の重いがこみ上げてきたので、期せずしての拍手と歓声となってしまい、家内も何があったかと目を覚ましてしまったほどであった。

 まだまだ女子世界サッカーの最高峰を決める「女子ワールドカップ」は、第7回目ということで歴史的には男子のワールドカップとは雲泥の差があるが、新星ニッポンの奇跡的なドイツに勝利したニュースは、地元ドイツだけでなく世界中に打電?(古いなぁ!何時の時代や)世界中から賞賛されることとなるだろう。

 勝利の喜びに浸っている間のない「なでしこジャパン」の目標はメダル獲得にあるので、7月14日に行われる相手はスエーデンとオーストラリアの準々決勝の勝者との準決勝の戦いと共に、決勝への進出を果たしたならば、世界一も夢ではないチームへと成長するであろう、女子サッカー代表チームの健闘と活躍、そして夢の世界一へのチャレンジに、被災地の皆さんのみならず日本中が勇気と喜びを与えられることだと思うので、しっかりとチェックして応援をしたいと思うのである。

 感動と感激が覚めやらぬままに今日のブログの原稿は、これしかないと思って書き綴ったので、誤字脱字や言葉の言い回しに、いつも以上の変なところがあるかも知れないが、ご容赦いただきたいと言いながら、汗をかきかきキーを叩いている自分に可笑しさを感じている今である。

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お墓に避難死。

2011年07月09日 | 感じたこと
 今朝の毎日新聞朝刊のトップ記事に、福島、南相馬の93歳の女性が、なんと今回の大地震と大津波で被災された上に、福島原発の事故で体調を崩され入院避難されたが、無事5月には家に帰られ自宅でひとりで毎日テレビの原発ニュースを見ていて、よくわからないが、また避難が必要になったら、老人は足手まといになるからと生きたここちがしなかったらしく、「こうするよりしかたありません。さようなら、私はお墓にひなんします。ごめんなさい」という遺書を残して6月下旬に自らの命を絶ってしまわれた事実が、「原発が奪った大往生」という見出しで出ていた。

 その記事の横には、自殺された女性が愛用されていた手押し車と女性が残した縦書きの遺書と思われる上記文章が書かれた白い市販の便箋に書かれた文字が読み取れる写真が掲載されていたのである。

 ご覧になられた方も多いとは思うが、私の心に再び重くて辛い「被災者の自殺」というニュースが飛び込んできたのだが、それもあまりにも「言葉を失う」、この年老いた女性の自殺記事であった。

 数日前に2010年の一年間の自殺者が13年連続3万人を超えたというニュースが伝えられ、その七割強が男性で、しかも40内、50代という働き盛りが多いとの報道に、経済的不況や人生半ばでの躓きや失敗などと共に、人間関係の挫折や長年の精神的バランスを失った方が多いのだろうと感じていたのだが、この中には今年3月11日の大震災、大津波、原発事故関連の自殺者はまだ含まれていなかったのである。

 しかし、16年前の阪神大震災の時には、避難所暮らしを苦にした自殺や仮設住宅での孤独死が報じられてはいたが、今回のような「お墓に避難します」という書置きを残されての、93歳にもなられた長生きの女性の様な例は知る由もなかったのである。

 東京電力福島第一原子力発電所事故により、一時は家族や故郷と離れて暮らさざるを得なくなった上に、原発事故の収束が全く見えない現状をも悲観してのことだったと思われると報じられてはいるが、遺書には「老人は避難の足手まといになる」ともあり、迷惑をかけたくないとするお年よりの切なる思いが募っての自殺らしい。

 福島県南相馬市といえば、福島原発から北数十キロの田園地帯に代々続く田畑を守りながら、震災時は長男72歳の長男とその妻である71歳の嫁と孫2人の5人で暮らしておられ、足は以前から弱っておられたので、手押し車を押していたが、家事は何でもこなして、日記もつけれておられたというのである。

 震災後の原発事故により、一家も3月17日に娘さんの嫁ぎ先である相馬市に身を寄せたが、一家は翌日南相馬市が用意したバスでさらに遠く群馬県への避難となり、長距離の移動や避難生活はばぁちゃんには無理との長男の判断で、女性は娘の嫁ぎ先に残ることとなったが、4月下旬に体調を崩して2週間入院生活を余儀なくされていたという。

 退院後も「家に帰りたい」と繰り返し言われていたので、5月3日に南相馬市の自宅に戻られ、群馬に避難されているご長男やお孫さんたちにたびだび電話して゛早く帰ってこお」と寂しさを訴えておられたらしい。

 約一ヵ月後の6月6日に長男ご一家が自宅に深夜に戻られた時には、玄関先で嬉しそうに女性は迎えられたとそうだが、緊急時避難準備区域に指定されている自宅なので、原発事故が再び深刻化すれば、すぐにまた逃げなければならないので、長男夫婦が「また避難するかもしれないが、今度は一緒に行こう」と言うと、言葉少なげだったと言う。

 約二週間後の6月22日に庭で首をつっているのを妻が見つけ、長男が助け起こしたが手遅れだったというのである。

 遺書の宛名にあった知人は、「長寿をお祝いされる様なおばぁちゃんが、何故にこんな目にあわねばならないのか」と絶句し、葬儀で読経した僧侶は「高齢者にとって避難がどれほどつらいことか」と話し、長男夫婦は「おばあちゃんが自ら命を絶った意味を、しっかりと伝えてください」と取材記者に最後に言われたというのである。

 私は、土曜日の今日一日、移動八百屋で会った数人のお客様に、この話の概略を伝えながら、心からこの女性の冥福を祈ると共に、こんな寂しくこころ重たい自死が起きない世の中を望まずにはいられない心境で、半日を過ごしたのであった。

 
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九電のやらせメール

2011年07月08日 | とんでもない!
 またもや、とんでもないことが秘密裏に当たり前の如く行われていたことが発覚した。

 九州電力が玄海原子力発電所の再稼動についての公開討論会という形での番組に際して、前もって傘下の下請け子会社の社員らに宛てた社内メールで、一般の市民を装って、原発の推進、必要性についての賛成の立場からのメールを、各々の家庭のPCから送ってほしいとの伝達、もしくは業務ろ命令の様な「やらせメール」を依頼していたことが発覚したのである。

 九電だけでなく、電力会社各社の隠蔽体質とでもいうべき情報隠しにとどまらず、福島原発の事故の収拾のメドも立っていない最中に、何とか原発の安全性と稼動を推進したいと思う上層部の思惑からか、なんとも幼稚ともいえるような依頼をしていたのだが、あぁ、やっぱりとでも言うべきか、とんでもないと言うべきか呆れた事態が明白になり、政府はやむを得ず「リスクテスト」という徹底的な検査を行い約半年経てから稼動すべきかの判断をするという方針を急遽打ち出して。地元玄海町の町長などは、国に振り回された格好で困惑しているという。

 また海江田経済産業相は、今回の九電玄海原発の再稼動について要請し、いったんは了承を得たことから、全く予期せぬ事態になり、政府見解も含めいい加減な判断であったとの批判もあって、与党からの責任追及に対して、いずれ責任をとって辞職するべきとの個人的見解を述べるに至り、菅首相と同様に「やめる予定の大臣」のひとりに加わってしまったのである。

 しかし、今回の九電の「原発推進に対する賛成メール」の依頼には、驚くまでもない過去の日本の大企業だけでなく、政府、内閣での失態や前例を思い出すのは私だけではあるまい。

 一番記憶に残っているのが、教育基本法をめぐる、いわゆるタウンミィーテイングと称する文部科学省が主催した全国各地で行われた、市民参加の形をとっただけの「公聴会」であるが、事前に参加者の希望者をチェックした上で、政府に都合の悪い反対意見や問題提起をする人は除外して、「やらせ公聴会」を行ったことであるが、問題になり京都では裁判にまでなったのだが、結論はなかなかはっきりとは断定されていない。

 しかるに、いつの時代にも為政者や経営者にとって都合の良い市民や有権者、またし株主や社員がいてくれた方が「助かる」とか「都合がいい」という発想が権力を行使したりするお偉い方々には、知らず知らずの内に当たり前の「愛国心」や「愛社精神」の様になってしまって、それが確信的な犯罪行為に近い「やらせ」をもたらしてしまうものなのだろう。

 今回の九電の「やらせメール」問題は、あくまで氷山の一角であって、全国各地で福島原発事故以来は、大幅に増えた「反原発」の講演会や映画界、シンポジウムなどであるが、まだまだその背景には、表立っては「反原発」を語ったり、表明できない人々が悶々としていると思われてならない。

 素直に「原子力の安全性」なんて、人間の人智を尽くしても100%ありえないし、科学技術の推進の過程とは言え、地球や自然界に大きなリスクを半永久的にもたらすであろう、原子力の廃棄物や半減期の長年にわたる放射能汚染の危惧に対して、誰も私が責任を取るとは言えない将来に向けての膨大かつ危険な放出物はどうにもならないのである。
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七夕にチア

2011年07月07日 | 季節の話題
 七月七日、七夕の夜なのに、夜空は雨模様で彦星と織姫星は今年も天の川を挟んで対岸にいる相手に出会えなかったのだろう。

 2011年3・11から早や4ヶ月が経とうとしているのに、被災地支援のための国の政策どころか、国会も70日延長を決めたのにも拘わらず、約2週間は具体的には動かず、与野党共に何をしているのかと言った有様で、やっと昨日から国会が動き出したらと思ったら、松本前復興大臣の任命責任やら、原発再稼動をめぐる経済産業相の責任問題などと、いつまで経っても実質審議よりも、足の引っ張りっこの実態が続いている。

 避難所暮らしの被災民がやっと10万人を下回ったとはいえ、まだまだ被災地の生活は大変な状況が続いているのに、東京で国会ごっこをしている国会議員の皆さん方や高給取りの国家公務員の皆様方は、本当に被災地の復興や被災された方々の日常生活を取り戻すためのサポートに全力を尽くしておられると言えるのでしょうか。

 今日の毎日新聞の夕刊の「元気もらった」の欄に、笑って踊って社会貢献という見出しで、大阪のチアリーディングノグループである「JUMPS」が紹介されていました。

 「チア」とは、Cheer,すなわち「元気づける」、「勇気づける」とのことであり、夕刊紙面に掲載されている写真でも、本当に周りの人たちを笑顔にしていしまうメンバーの笑顔とコメントされている様に、心からはちきれんばかりの笑顔があふれているのである。

 はじける笑顔と元気な声で、迫力あるパフォーマンスを魅せる「チアリーディング」の力と効果は抜群だと思うので、全国のチアリーダーズたちの一部でもいいから、東北各地の避難所や仮設住宅を訪問することも検討して、政府が派遣するくらいの支援をしてもらいたいものである。

 どんな困難にぶつかっても、自分たちの気持ちを盛り上げて、笑顔とパワーで周りの人たちを元気にするチアリーダーたちの精神を東北の被災地に直接届けることが出来たらと思ったのである。

 あのふてぶてしいとでも言うべき前復興大臣の松本龍氏は何故か大臣を辞してから、長野県の被災地を訪れて、またもや偉そうに仮設住宅を視察しながら、グリーンカーテンでも作ったら言いと町長に進言しながら、秘書官らしき付き人に「ゴーヤの苗を送らせろ!」と指示している光景が報道されていたが、もううんざりである。

 もっとさわやかな応援、支援、楽しく元気と勇気が出てくるようなプレゼントも必要ではないだろうか。

 多くの有名なタレントやスポーツ選手も自分たちの存在感と中には売名行為だと自認する形で、東北各地に赴いておられるらしいが、テレビに出ている人たちだけでなくて、普通の元気で明るく人に接することの出来る人たち、すなわちチアリーディングのグループなどが現地に行って、小さなイベントでもいいが大きな励ましになるのではないだろうか。

 大阪のチアクラブ「JUMPS」の代表である石原由美子さんは、神戸女学院大在学中からチアリーダーとして活躍し、卒業後も仕事の傍ら活動を続けて、2005年にJUMPSを設立し、2年後には運営に専念し「チアの力で広く社会に貢献し、社会を元気づけたい」と語っておられるのである。

 ぜひ、このグループに限らず、七夕の短冊に多く書かれたと思われる、被災地の復興と少しでも心を癒して、新たな夢を抱くことが出来るようなサポート、支援のひとつとして元気と勇気と夢を与えに行ってほしいものである。
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「大阪」が心配やな。

2011年07月05日 | とんでもない!
 今秋、大阪府知事である橋下徹氏は任期を半年ほど残して知事職を辞して、大阪市長と大阪府知事のダブル選挙をもくろんでいるという予測にもとづく毎日新聞朝刊のトップ記事に対して、大阪府大阪市生まれの私としては、少し苦言を呈したいと思うのである。

 そもそも、テレビの島田伸助司会の「行列の出来る法律相談所」に出演する弁護士としてマスコミに登場して以来、タレントとして活躍し、勢いで大阪府知事に当選した橋下氏なのだが、確かに歯に衣を着せぬ言い回しや思い切った言動で、大阪府民の圧倒的な人気と支持を得ていることはすごいことだと思うのである。

 しかし、彼がマスコミ、特にテレビを中心とした媒体を如何に上手に利用して、これまでも自分の言動や政策決定をコマーシャルしてきたかは、いまさら言うまでもないことなのだが、果たして新聞、テレビを中心とするマスメディアは、彼の行動や政策について、しっかりとした論評や評価をしてきたといえるのだろうか。

 私の一番疑問に感じているのは、今春の統一地方選挙で知事自らが率いる地域政党「大阪維新の会」の躍進と議会における過半数を獲得した大阪府議会についてであり、堺市議会に置いても既成政党の民主党、自民党を凌ぐ議席数を獲得して、第一党となったという現実である。

 こうした議会における派閥、もしくは議席数による一定の主義主張を同じくするグループもしくは政党があることは否定しがたい事実なのだが、今回の「大阪維新の会」という地域政党は知事自らの主張に同調することを前提とした知事を全面的に支持する応援部隊としてのグループであり、戦後の日本の民主主義の形としてある、行政の長としての市長や知事に対する、議会は常に市長、知事の提案する政策や予算に対して、多角的に検討議論し、如何に市民や府民の立場にとって、ベターな施策や選択かどうかを審議し是か否かを決めるための場であるのが「議会」であるはずである。

 しかし、今回の大阪の「大阪維新の会」や名古屋や愛知県でも登場した「減税日本」なる地域政党のリーダーは、市長や知事であり、しかも今春の統一地方選挙で当選した候補者の中には、自分自身の言葉で市民や有権者に政策や信条を訴えることすら出来ない若い女性候補や社会経験もあまりないポット出の候補者までいて、そんな候補者まで有権者は当選させてしまったのであった。

 特に大阪府議会における「大阪維新の会」の過半数制覇は、橋下大阪府知事にとっては、もう「議会」は自分の意のまま、好きなように出来るという、お墨付きと言うべきか、いやファシズムと言ってもいいほどの「言いなりの無用の長物化」したのではないだろうかと甚だ危惧しているのである。

 先日の学校行事などにおける教員たちの「君が代起立」条例においても、十分になる議論がなされたとは言いがたい短時間で、規定の事実の如く、橋下知事が提案した「君が代起立条例」は可決してしまっているのであって、結論先にありきと言った形になっていて、議会制民主主義という首長と住民代表の議会の両輪で、行政施策を推進して行くといった姿では全くなくなってしまっていたのではないだろうか。

 今秋の大阪市長及び大阪府知事のダブル選挙と言う、橋下徹現大阪府知事の想定する形にしても、辞職や再立候補などは確かに個人の考え方でどうにでもなるのかもしれないが、大阪府、大阪市の二重行政的問題点を解消するための施策としての「大阪都構想」などを推進するためとの大儀名文はあるのかもしれないが、平松邦夫大阪市長との考え方の相違を、全面的に打ち出して勝負するといったパフォーマンスを税金を使って、市民、府民を巻き込んで仰々しくやろうとする独裁者的発想だと言わざるをえないのではないだろうか。

 いくら彼のパフォーマンスや言動が画期的だとしても、また有権者住民が踊らされていたとしても、マスコミ、新聞、テレビのしっかりとした役割としての批判や問題提起が必要だと思うのだが、ほとんど大阪府を中心とする「ファッショ的」言動や選挙の遂行に対しての指摘がないのは、どうしてであろうか。

 政治の世界は何があっても可笑しくないとも言われたり、一瞬先は闇だとも言われる、あえて言えば業界なのだが、民主主義という教科書で学んだ、住民参加による是々非々の議論や少数意見の尊重なども十分考慮した上での、最終的な多数決決定はやむをえないとは思うのだが、今進行しているこの大阪府議会と橋下知事を筆頭とする「維新の会」の動きなどは、決して議会制民主主義を逸脱した暴挙だと言わざるを得ない面があることを、少数意見だとしても新聞、テレビなどのメディアは、しっかりと報じながら問題提起を怠らない姿勢を失ってはいけないのである。

 もともと日本社会には「民主主義」という言葉はあっても、実際は全体主義的国家だとの批評もあることは十分承知の上で、元大阪府民の一人として警告を発したいと思うものである。
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松本復興相の発言。

2011年07月04日 | とんでもない!
 松本龍復興担当大臣が震災の現地である、岩手県と宮城県を訪ねて、とんでもない発言を繰り返したというニュースに、もはや驚くばかりか呆れてものが言えないといった、「またか!」と言った政治家の失言と言うよりも本音、人間的資質に問題があるとしか言いようのない言葉に、言葉を失った。

 震災からもうすぐ四ヶ月になろうとする東北各地で、被災地の復興に対する県と国の連携の下、各地域ごとの優先順位と具体的な支援策が早急になされるべき時期に、やっと初めて現地入りしたということ自体が遅きに感じるのだが、岩手県庁および宮城県庁で、両知事と会談した松本氏の言動の一部が報道されただけだが、復興担当大臣である前に衆議院議員であり、しかもなんと解放同盟の故松本冶一郎委員長の養子で、現在の副委員長であるという肩書きからしても、考えられない高飛車で庶民生活や被災民の心情などは全く理解し難い御仁であることがわかったのである。

 達増拓也岩手県知事に対しては、「知恵を出したところは助け、知恵を出さないやつは助けない」などと偉そうに語り、また村井嘉浩宮城県知事に対しては、「幼長の儀を知る自衛隊なら、ちゃんと客の来る前に迎えるのだ」という暴言を吐き、いかにも自分が来る前に知事が待機して待ち、招き入れるべきとの見解と共に、命令口調で知事に説教をしたのであった。

 松本復興相といえば、社会党時代に全国解放同盟の組織的応援を受けて初当選した二世議員なのだが、先日は「民主党、自民党、公明党も嫌いだ」との見解を述べて物議をかわしたところなのだが、ともかく民主党の中でも一番の高額所得者であり、ぼんぼん育ちの「お偉い御仁」なのである。

 そんな育ちの良さなどは、微塵も感じさせない「偉そうな口調」で、被災地の復興支援担当大臣であるにも関わらず、「私は九州の人間だから、被災地東北の市町村なんか知る由もない」という論調で、しかも上から目線の命令口調で全ての指示や見解を述べるといった人間性そのものが問題でもあり、ともかく大臣として、被災地の皆さんに対して、出来る限りの救援、復興の施策を協力にサポートして行くという決意や熱意すら感じられない暴君ではないだろうか。

 自分の名前の「龍」からか、復興担当のチームをドラゴン・・・と自称したり、ともかく勝手気ままな御仁がそのまま、経済的資産や社会的地位?に胡坐をかいたままで、立身出世とでも言うべき国会議員、そして大臣に上り詰めたと言っても過言ではない「お人」なのだと言わざるを得ないのである。

 今後の東北地方の被災地復興のための政府代表としての舵取りは愚か、防災担当相としても今までも「ボーとしていた」だけで、その内閣における役割や指導は、なんと同じ社会党出身の前官房長官であっ仙石氏がほとんど担っていたというから、驚くばかりか、何故にこんな御仁を菅首相が、この期に及んで復興大臣に任命したのかさえ信じられないのだが、内閣人事や大臣ポストの陰に巨額の資金や力関係が潜んでいるのかとあたらためて思うと、益々被災地及び被災民の立場が疎かにされているという現状に憂いすら感じるものである。

 松本龍復興大臣の発言の詳細については、新聞各紙やテレビマスコミでも報道されていると思われるが、宮城県庁での村井知事に対する「出迎えに対する不満」についての「叱責」については、「これはオフレコにしてくれ、もし書いたらその新聞社や報道機関は偉い目にあうぞ」と言った感じの「脅し」にも似たセリフも言っていて、なんとも子供じみた、いや子供でもそんなバカなことは言わないし、たぶん権力に胡坐をかいて、自分の小ささや非力を「偉そうな発言」でカバーしようとしているお坊ちゃまに過ぎないのだろうが、やはり国民としては許しがたき発言である。

 
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震災被災地の現状。

2011年07月03日 | イベント
 ほんの少しばかり今回の東北大震災の被災地に行ってきたからと言って、東北地方の北から北関東までに及ぶ被災地の現状を語ることなど、とっても出来ないのだが、それなりに私が見て感じた一地域の現状について記すこととする。

 昨日、三日間の亘理町と名取市での社会福祉協議会、災害ボランティア受付を通しての個人としてのお手伝いの概要を記したつもりだが、おおむね大津波に見舞われた地域と、免れた地域とがくっきりと分かれていて、前者の地域はまるで戦場だった如く何もかもが崩壊していて、何とか道路だけが復旧しているという有様で、昼間でもほとんど人影や通行人を見ることがない状況であった。

 一方、大地震には遭遇したために、建物のいたるところに罅が出来たり、屋根の瓦が損壊したりして復旧の第一歩がまだ手付かずのところでは、グリーンシートが被せてあったり、応急処置とでもいうべきベニヤやセメンでの修理の跡が見受けられるものの、ちょっと見ただけでは、震災の被害すら感じられない街並と日常生活が一見戻っているように感じた。

 しかし、ボランティアを通じて出会った被災地の人々との会話を通じて伝わってくる現実は、悲しい肉親との別れや友人、知人の悲惨な被害の実態を目のあたりにした人が多く、自分自身のことよりも、多くの近所や同じ住宅街や市町に住む人々の被災についての重たい現実から離れられない、心の苦しみやつらさが今も直横たわっていることに気づかされるのであった。

 特に、前回のブログにも記したと思うのだが、人々の日常生活に突然襲った大災害で、住む家と共に日常的な生活のリズムだけでなく、経済活動と共に大切な日々の「普通の生活」を失ってしまつた人々、特にご高齢の方々の心の痛みと、これからを案ずる不安な日々の避難所暮らしなどを強いられている方々の気持ちを察すれば、「励まし」の言葉すら浮かばない現状があった。

 そして、たくさんの遺留品整理と清掃を通じて展示された写真を含む多くの品々に纏わる、家族や仕事場、親子、結婚、仲間たちなどの記録の数々の中に、今はもうこの世には存在されていない、すなわち亡くなられたか行方不明の方々の姿も混じっているのかと思うと、一枚、一枚の写真の重さと大切さを痛感しつつ、できるだけちゃんと見れる形で、関係者家族に再び見ていただけるようになるといいなという気持ちで、写真の整理と復旧を手伝ったのであった。

 大きな国際的ボランティア団体、NGOなどの大テントに、ずらっと並べられた遺留品の数々の展示を見ていると、幼い子どもたちの幼稚園、保育園、小学校などで描かれたのであろう、かわいい絵が並んでいて、自分の家族や父、母、兄弟や友人たちを描いているものもあり、位牌や表彰状、先祖の写真、バットとグローブ、サッカーボールなどのスポーツ用具にも名がサインされているものもあり、元気な少年たちの遊ぶ声やスポーツを楽しむ姿も想像できる遺留品も多くあった。

 大津波の被害を直接受けたのであろう海岸べりの住宅地は、今は廃墟と化しているのだが、釣具店や漁業関係者の拠点的な場所やマリンスポーツの拠点と思われる場所なども判別ができるところがあるのだが、全て流されていて再びここで以前の様な業務や楽しい活動が再度出来るという保障はまったく感じられない現実があった。

 また海辺に近い場所に保育所の建物のような廃墟があり、入り口付近の石の小さな門に刻まれた亘理児童館の文字だけが空しく、その場所に大地震、大津波前には元気で明るいたくさんの子どもたちの歓声と笑顔があったのだろうと想像だけはできるのだが、悲しい現実の前に幼い子どもたちが全員ちゃんと避難できたのかどうかが心配であったが、関係者に改めて尋ねることすら躊躇するというか遠慮せざるを得ないような心境となっていた。

 もう二度と住むことはないだろうという感じで、廃墟に近くなった構造物だけを残した建物の玄関口に、たぶん以前は住んでおられたであろう親子が、残留物を捜し求めたり、運び出しておられたのたが、かける言葉すら浮かばず、「ご苦労様」とだけ言うのが精一杯であった。

 そうした廃墟に近い海辺の大津波に見舞われた地域を歩いて、ボランティアへの要望の受付ならびに期日を知らせるチラシを配布していたら、廃墟の庭から玄関先と思われる近くに、ドロドロの財布の様な布切れで作られた女性の持ち物と思われるずっしりと重い小物入れ、いや健康保険証やら診察券がたくさん入った入れ物を発見した。

 泥にまみれた少し赤い色が見受けられるその入れ物には、たぶんご高齢の病院通いをされていたであろう女性の大切な証明書や必要なカード類が入っていて、ひと目見て大切なものと感じたので、ボランティアセンターまで持ち帰って職員に手渡したのだが、もう震災から三ヶ月以上が経過しているので、再発行やらで間に合っているかもしれないが、ひょっとしたら大切な写真や小物も同封されていたかもしれないと思って持ち帰ったので、ぜひご本人に届くことを願っているが、ひょっとすれば亡くなられた方や行方不明の方かもしれないと考えると、再び心が重くなったのであった。

 たった三日間の宮城県下の被災地での活動、体験だったのだが、脳裏には今もあの海岸線と被災された地域の残骸と人が行き交わない廃墟の道が浮かんで来て、あの道に明るい元気な子どもたちの声と笑顔が戻ってくるのはいつになるのだろうと溜息かまじりで思い出している二三日である。

 
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宮城県亘理町

2011年07月02日 | 感じたこと
 今週の日曜日、私たち男の料理サークル「おりじ」が久々の宇治でのオーガニックランチを提供する「ゆめカフェ」を開いて、「ゆめハウス」関係者をはじめ、私の友人、知人も交えてのお客様にお越しいただき、用意したランチセットはほぼ全て食していただけて感謝でした。

 片づけを済ませて、その夜京都駅を発車する格安夜行高速バスに乗車し、一路東京は新宿西口へと向かったのだが、普通の観光バスタイプの深夜バスなので、隣の客とも肩や体が当たったりするし、狭いシートと足元のスペースに身を沈なかなか眠ることができず、うとうととしつつも途中三回ほどのトイレ休憩で車外へと出て、開放される時以外は窮屈な姿勢で寝返りを何度も打ちつつ早朝の新宿に無事着いてのであった。

 今回の東北大震災ならびに大津波による被災地への個人的な支援は、少々のカンパや義捐金という形だけでは、どうもすっきりとせず、機会を作って一度は現地に入って、自分の目と心で被災地を体験し、少しでも自分に出来るお手伝いをしたいと願っていたのだが、なかなか東北地方まで足を向けるのは難しく、今までその機会を作ることが出来なかったのであった。

 しかし、東日本大震災と名づけられた今回の大震災ならびに大津波の被害の甚大さと、福島原発事故による放射能漏れの不安が募る中、かつての仕事での出会いや友人たちが数名いる宮城県の沿岸部の町に足を向けて、微力ながらのお手伝いが出来ればと、事前情報などを参考に石巻市か亘理町の社会福祉協議会を通じて災害支援ボランティアとして行くこととなった。

 と言っても全くと言っていいほど現地の現状や私如きがお手伝いできる仕事があるのかどうかすら不確かな状況、すなわち情報不足と共にインターネットなどによる情報だけでは正確さを欠く場合もあるので、「行ってみて、直接申し出てやるというスタイルで、事前には全くコンタクトもとらずに現地へ入ることとした。

 念のために、久しぶりにリュックに一人用テント「リンツー」とコンパクトな寝袋を入れて、後は汚れても平気なゴム長靴、ビニール手袋、軍手、ヘッドライト、シェラカップなど、いわゆるアウトドア的キャンプ用品の最低限の備品を忍ばせて、後は靴下、下着、Tシャツ、ジーパン、半ズボンなどの個人的着替えとペットボトル、非常食、洗面道具とタオル、濡れテッシュなどを詰め込んでの出発となった。

 東京では、被災地ボランティアに行く前の時間を友人、知人との久しぶりの再会と出会いの機会としようと、電話でコンタクトできた人のお宅にお邪魔したり、夕刻の仕事帰りのご高齢の友人との食事もして、昔トウキヨウに住んでいた頃の懐かしい地域を小雨の中散歩したりもして、英気を養ってから再び新宿発仙台行きの夜行バスに乗ったのであった。

 仙台駅前に早朝について、早速簡単な朝食を済ませてから仙台郊外のわたの亘理町の最寄駅までJRで約40分、駅からボランティアらセンターのある体育館まで約20分余、大きなリュックを担いでの歩きは、やはり汗びっしょりとなったが、何とか受付時刻にはの間に合って、初日の仕事にありつけたのであった。

 まるで、日雇い労働者が職安や寄せばの立ちん坊で、仕事を求めているが如く、肉体労働の泥かきや残留品の運びだし、遺留品の清掃、整理、社協、ボラ協のチラシのポスティングなど、各種多様な仕事とも言うべき「役割分担」が決められて行くので
 集まったボランティアたちは、各々の思いを胸に割り当てられた仕事に従事するためにリーダーたちの指示の下で自動車に分乗したり、自分のマイカーに数人を乗せて現場へと出発するのだが、ニーズのある現場や被災現場の方向すらわからなかったりして、先導車や地元のスタッフの誘導がなければ仕事先にすら到着できないといった状況も見られた。

 とにかく、その日その時間で必要な被災地支援のために関連した人手として、何でも要望があればやるといった心意気で集まった人々が大半なので、全ての人たちがなんらかなお手伝い仕事に割り当てられた形で、日々を過ごすのだが、ともかく楽しく仲間と共に少しでもお役に立ちたいとの願いがあるので、初めて出会う人ばっかりだったが、おしゃべりを大切にしてすぐに打ち解けた感じで、同労の仲間となった。

 二日間の亘理町でのボランティアと最終日のボランティアで私自身は、泥んかきだし、物資の種わけ、運搬、遺留品の清掃、゛整理、避難所、仮設住宅などへの情報のポスティングになどを行ったのだが、やはり同じ市町内でも、大津波の被害を受けた地域と地震の被害だけの地域の光景は全く異なっていて、前者の大津波の被災地域はほぼ壊滅状態で、魚の死骸や悪臭が漂うところもまだ残っていて、廃屋状態の家がまばらに軒を並べているという状態であった。

 大津波の波に侵食された家々から発見されたらしいアルバムや写真の束などが山積みされていて、その一枚一枚の写真の取り出しや洗浄、乾燥、リカバリーをしていると、名も知れぬ人たちなのだが、その方々の家庭環境、家族構成、お仕事、趣味、旅行などの貴重な写真がたくさん出てきて、どれをとっても大切な写真のように思えて、出来れば一枚でもご家族や、中にはご遺族に届けばという気持ちで作業をしたものであった。


 たった実質三日間の現地での支援活動だったが、少しだけ自分自身のわだかまりや肩の荷が軽くなった思いになって、自己満足かもしれないが、本当に現地に行けて良かったと感じているのである。

 またボランティアとしての仕事や役割を通じて出会った、各地からやってきた人々との出会いと楽しいおしゃべりや情報交換は、全ての人が基本的には主体的な自分自身の思いで参加しているために、本当に温かな友情に似た感情が短時間で確認されたと言っても過言ではないという感じの出会いであり、嬉しくもありたのもしくもあった。

 今回の支援のためという五日間の旅だったが、結局は私自身のための「何か直接的にしたい」と思っていた「思いの達成感」を得るための行動にすぎなかったのかも知れないが、「ありがとう」の感謝の言葉をいただき、こちらこそ「ありがとう」と感謝した現地での三日間であったのである。
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