今朝の毎日新聞朝刊のトップ記事に、福島、南相馬の93歳の女性が、なんと今回の大地震と大津波で被災された上に、福島原発の事故で体調を崩され入院避難されたが、無事5月には家に帰られ自宅でひとりで毎日テレビの原発ニュースを見ていて、よくわからないが、また避難が必要になったら、老人は足手まといになるからと生きたここちがしなかったらしく、「こうするよりしかたありません。さようなら、私はお墓にひなんします。ごめんなさい」という遺書を残して6月下旬に自らの命を絶ってしまわれた事実が、「原発が奪った大往生」という見出しで出ていた。
その記事の横には、自殺された女性が愛用されていた手押し車と女性が残した縦書きの遺書と思われる上記文章が書かれた白い市販の便箋に書かれた文字が読み取れる写真が掲載されていたのである。
ご覧になられた方も多いとは思うが、私の心に再び重くて辛い「被災者の自殺」というニュースが飛び込んできたのだが、それもあまりにも「言葉を失う」、この年老いた女性の自殺記事であった。
数日前に2010年の一年間の自殺者が13年連続3万人を超えたというニュースが伝えられ、その七割強が男性で、しかも40内、50代という働き盛りが多いとの報道に、経済的不況や人生半ばでの躓きや失敗などと共に、人間関係の挫折や長年の精神的バランスを失った方が多いのだろうと感じていたのだが、この中には今年3月11日の大震災、大津波、原発事故関連の自殺者はまだ含まれていなかったのである。
しかし、16年前の阪神大震災の時には、避難所暮らしを苦にした自殺や仮設住宅での孤独死が報じられてはいたが、今回のような「お墓に避難します」という書置きを残されての、93歳にもなられた長生きの女性の様な例は知る由もなかったのである。
東京電力福島第一原子力発電所事故により、一時は家族や故郷と離れて暮らさざるを得なくなった上に、原発事故の収束が全く見えない現状をも悲観してのことだったと思われると報じられてはいるが、遺書には「老人は避難の足手まといになる」ともあり、迷惑をかけたくないとするお年よりの切なる思いが募っての自殺らしい。
福島県南相馬市といえば、福島原発から北数十キロの田園地帯に代々続く田畑を守りながら、震災時は長男72歳の長男とその妻である71歳の嫁と孫2人の5人で暮らしておられ、足は以前から弱っておられたので、手押し車を押していたが、家事は何でもこなして、日記もつけれておられたというのである。
震災後の原発事故により、一家も3月17日に娘さんの嫁ぎ先である相馬市に身を寄せたが、一家は翌日南相馬市が用意したバスでさらに遠く群馬県への避難となり、長距離の移動や避難生活はばぁちゃんには無理との長男の判断で、女性は娘の嫁ぎ先に残ることとなったが、4月下旬に体調を崩して2週間入院生活を余儀なくされていたという。
退院後も「家に帰りたい」と繰り返し言われていたので、5月3日に南相馬市の自宅に戻られ、群馬に避難されているご長男やお孫さんたちにたびだび電話して゛早く帰ってこお」と寂しさを訴えておられたらしい。
約一ヵ月後の6月6日に長男ご一家が自宅に深夜に戻られた時には、玄関先で嬉しそうに女性は迎えられたとそうだが、緊急時避難準備区域に指定されている自宅なので、原発事故が再び深刻化すれば、すぐにまた逃げなければならないので、長男夫婦が「また避難するかもしれないが、今度は一緒に行こう」と言うと、言葉少なげだったと言う。
約二週間後の6月22日に庭で首をつっているのを妻が見つけ、長男が助け起こしたが手遅れだったというのである。
遺書の宛名にあった知人は、「長寿をお祝いされる様なおばぁちゃんが、何故にこんな目にあわねばならないのか」と絶句し、葬儀で読経した僧侶は「高齢者にとって避難がどれほどつらいことか」と話し、長男夫婦は「おばあちゃんが自ら命を絶った意味を、しっかりと伝えてください」と取材記者に最後に言われたというのである。
私は、土曜日の今日一日、移動八百屋で会った数人のお客様に、この話の概略を伝えながら、心からこの女性の冥福を祈ると共に、こんな寂しくこころ重たい自死が起きない世の中を望まずにはいられない心境で、半日を過ごしたのであった。
その記事の横には、自殺された女性が愛用されていた手押し車と女性が残した縦書きの遺書と思われる上記文章が書かれた白い市販の便箋に書かれた文字が読み取れる写真が掲載されていたのである。
ご覧になられた方も多いとは思うが、私の心に再び重くて辛い「被災者の自殺」というニュースが飛び込んできたのだが、それもあまりにも「言葉を失う」、この年老いた女性の自殺記事であった。
数日前に2010年の一年間の自殺者が13年連続3万人を超えたというニュースが伝えられ、その七割強が男性で、しかも40内、50代という働き盛りが多いとの報道に、経済的不況や人生半ばでの躓きや失敗などと共に、人間関係の挫折や長年の精神的バランスを失った方が多いのだろうと感じていたのだが、この中には今年3月11日の大震災、大津波、原発事故関連の自殺者はまだ含まれていなかったのである。
しかし、16年前の阪神大震災の時には、避難所暮らしを苦にした自殺や仮設住宅での孤独死が報じられてはいたが、今回のような「お墓に避難します」という書置きを残されての、93歳にもなられた長生きの女性の様な例は知る由もなかったのである。
東京電力福島第一原子力発電所事故により、一時は家族や故郷と離れて暮らさざるを得なくなった上に、原発事故の収束が全く見えない現状をも悲観してのことだったと思われると報じられてはいるが、遺書には「老人は避難の足手まといになる」ともあり、迷惑をかけたくないとするお年よりの切なる思いが募っての自殺らしい。
福島県南相馬市といえば、福島原発から北数十キロの田園地帯に代々続く田畑を守りながら、震災時は長男72歳の長男とその妻である71歳の嫁と孫2人の5人で暮らしておられ、足は以前から弱っておられたので、手押し車を押していたが、家事は何でもこなして、日記もつけれておられたというのである。
震災後の原発事故により、一家も3月17日に娘さんの嫁ぎ先である相馬市に身を寄せたが、一家は翌日南相馬市が用意したバスでさらに遠く群馬県への避難となり、長距離の移動や避難生活はばぁちゃんには無理との長男の判断で、女性は娘の嫁ぎ先に残ることとなったが、4月下旬に体調を崩して2週間入院生活を余儀なくされていたという。
退院後も「家に帰りたい」と繰り返し言われていたので、5月3日に南相馬市の自宅に戻られ、群馬に避難されているご長男やお孫さんたちにたびだび電話して゛早く帰ってこお」と寂しさを訴えておられたらしい。
約一ヵ月後の6月6日に長男ご一家が自宅に深夜に戻られた時には、玄関先で嬉しそうに女性は迎えられたとそうだが、緊急時避難準備区域に指定されている自宅なので、原発事故が再び深刻化すれば、すぐにまた逃げなければならないので、長男夫婦が「また避難するかもしれないが、今度は一緒に行こう」と言うと、言葉少なげだったと言う。
約二週間後の6月22日に庭で首をつっているのを妻が見つけ、長男が助け起こしたが手遅れだったというのである。
遺書の宛名にあった知人は、「長寿をお祝いされる様なおばぁちゃんが、何故にこんな目にあわねばならないのか」と絶句し、葬儀で読経した僧侶は「高齢者にとって避難がどれほどつらいことか」と話し、長男夫婦は「おばあちゃんが自ら命を絶った意味を、しっかりと伝えてください」と取材記者に最後に言われたというのである。
私は、土曜日の今日一日、移動八百屋で会った数人のお客様に、この話の概略を伝えながら、心からこの女性の冥福を祈ると共に、こんな寂しくこころ重たい自死が起きない世の中を望まずにはいられない心境で、半日を過ごしたのであった。