ほんの少しばかり今回の東北大震災の被災地に行ってきたからと言って、東北地方の北から北関東までに及ぶ被災地の現状を語ることなど、とっても出来ないのだが、それなりに私が見て感じた一地域の現状について記すこととする。
昨日、三日間の亘理町と名取市での社会福祉協議会、災害ボランティア受付を通しての個人としてのお手伝いの概要を記したつもりだが、おおむね大津波に見舞われた地域と、免れた地域とがくっきりと分かれていて、前者の地域はまるで戦場だった如く何もかもが崩壊していて、何とか道路だけが復旧しているという有様で、昼間でもほとんど人影や通行人を見ることがない状況であった。
一方、大地震には遭遇したために、建物のいたるところに罅が出来たり、屋根の瓦が損壊したりして復旧の第一歩がまだ手付かずのところでは、グリーンシートが被せてあったり、応急処置とでもいうべきベニヤやセメンでの修理の跡が見受けられるものの、ちょっと見ただけでは、震災の被害すら感じられない街並と日常生活が一見戻っているように感じた。
しかし、ボランティアを通じて出会った被災地の人々との会話を通じて伝わってくる現実は、悲しい肉親との別れや友人、知人の悲惨な被害の実態を目のあたりにした人が多く、自分自身のことよりも、多くの近所や同じ住宅街や市町に住む人々の被災についての重たい現実から離れられない、心の苦しみやつらさが今も直横たわっていることに気づかされるのであった。
特に、前回のブログにも記したと思うのだが、人々の日常生活に突然襲った大災害で、住む家と共に日常的な生活のリズムだけでなく、経済活動と共に大切な日々の「普通の生活」を失ってしまつた人々、特にご高齢の方々の心の痛みと、これからを案ずる不安な日々の避難所暮らしなどを強いられている方々の気持ちを察すれば、「励まし」の言葉すら浮かばない現状があった。
そして、たくさんの遺留品整理と清掃を通じて展示された写真を含む多くの品々に纏わる、家族や仕事場、親子、結婚、仲間たちなどの記録の数々の中に、今はもうこの世には存在されていない、すなわち亡くなられたか行方不明の方々の姿も混じっているのかと思うと、一枚、一枚の写真の重さと大切さを痛感しつつ、できるだけちゃんと見れる形で、関係者家族に再び見ていただけるようになるといいなという気持ちで、写真の整理と復旧を手伝ったのであった。
大きな国際的ボランティア団体、NGOなどの大テントに、ずらっと並べられた遺留品の数々の展示を見ていると、幼い子どもたちの幼稚園、保育園、小学校などで描かれたのであろう、かわいい絵が並んでいて、自分の家族や父、母、兄弟や友人たちを描いているものもあり、位牌や表彰状、先祖の写真、バットとグローブ、サッカーボールなどのスポーツ用具にも名がサインされているものもあり、元気な少年たちの遊ぶ声やスポーツを楽しむ姿も想像できる遺留品も多くあった。
大津波の被害を直接受けたのであろう海岸べりの住宅地は、今は廃墟と化しているのだが、釣具店や漁業関係者の拠点的な場所やマリンスポーツの拠点と思われる場所なども判別ができるところがあるのだが、全て流されていて再びここで以前の様な業務や楽しい活動が再度出来るという保障はまったく感じられない現実があった。
また海辺に近い場所に保育所の建物のような廃墟があり、入り口付近の石の小さな門に刻まれた亘理児童館の文字だけが空しく、その場所に大地震、大津波前には元気で明るいたくさんの子どもたちの歓声と笑顔があったのだろうと想像だけはできるのだが、悲しい現実の前に幼い子どもたちが全員ちゃんと避難できたのかどうかが心配であったが、関係者に改めて尋ねることすら躊躇するというか遠慮せざるを得ないような心境となっていた。
もう二度と住むことはないだろうという感じで、廃墟に近くなった構造物だけを残した建物の玄関口に、たぶん以前は住んでおられたであろう親子が、残留物を捜し求めたり、運び出しておられたのたが、かける言葉すら浮かばず、「ご苦労様」とだけ言うのが精一杯であった。
そうした廃墟に近い海辺の大津波に見舞われた地域を歩いて、ボランティアへの要望の受付ならびに期日を知らせるチラシを配布していたら、廃墟の庭から玄関先と思われる近くに、ドロドロの財布の様な布切れで作られた女性の持ち物と思われるずっしりと重い小物入れ、いや健康保険証やら診察券がたくさん入った入れ物を発見した。
泥にまみれた少し赤い色が見受けられるその入れ物には、たぶんご高齢の病院通いをされていたであろう女性の大切な証明書や必要なカード類が入っていて、ひと目見て大切なものと感じたので、ボランティアセンターまで持ち帰って職員に手渡したのだが、もう震災から三ヶ月以上が経過しているので、再発行やらで間に合っているかもしれないが、ひょっとしたら大切な写真や小物も同封されていたかもしれないと思って持ち帰ったので、ぜひご本人に届くことを願っているが、ひょっとすれば亡くなられた方や行方不明の方かもしれないと考えると、再び心が重くなったのであった。
たった三日間の宮城県下の被災地での活動、体験だったのだが、脳裏には今もあの海岸線と被災された地域の残骸と人が行き交わない廃墟の道が浮かんで来て、あの道に明るい元気な子どもたちの声と笑顔が戻ってくるのはいつになるのだろうと溜息かまじりで思い出している二三日である。
昨日、三日間の亘理町と名取市での社会福祉協議会、災害ボランティア受付を通しての個人としてのお手伝いの概要を記したつもりだが、おおむね大津波に見舞われた地域と、免れた地域とがくっきりと分かれていて、前者の地域はまるで戦場だった如く何もかもが崩壊していて、何とか道路だけが復旧しているという有様で、昼間でもほとんど人影や通行人を見ることがない状況であった。
一方、大地震には遭遇したために、建物のいたるところに罅が出来たり、屋根の瓦が損壊したりして復旧の第一歩がまだ手付かずのところでは、グリーンシートが被せてあったり、応急処置とでもいうべきベニヤやセメンでの修理の跡が見受けられるものの、ちょっと見ただけでは、震災の被害すら感じられない街並と日常生活が一見戻っているように感じた。
しかし、ボランティアを通じて出会った被災地の人々との会話を通じて伝わってくる現実は、悲しい肉親との別れや友人、知人の悲惨な被害の実態を目のあたりにした人が多く、自分自身のことよりも、多くの近所や同じ住宅街や市町に住む人々の被災についての重たい現実から離れられない、心の苦しみやつらさが今も直横たわっていることに気づかされるのであった。
特に、前回のブログにも記したと思うのだが、人々の日常生活に突然襲った大災害で、住む家と共に日常的な生活のリズムだけでなく、経済活動と共に大切な日々の「普通の生活」を失ってしまつた人々、特にご高齢の方々の心の痛みと、これからを案ずる不安な日々の避難所暮らしなどを強いられている方々の気持ちを察すれば、「励まし」の言葉すら浮かばない現状があった。
そして、たくさんの遺留品整理と清掃を通じて展示された写真を含む多くの品々に纏わる、家族や仕事場、親子、結婚、仲間たちなどの記録の数々の中に、今はもうこの世には存在されていない、すなわち亡くなられたか行方不明の方々の姿も混じっているのかと思うと、一枚、一枚の写真の重さと大切さを痛感しつつ、できるだけちゃんと見れる形で、関係者家族に再び見ていただけるようになるといいなという気持ちで、写真の整理と復旧を手伝ったのであった。
大きな国際的ボランティア団体、NGOなどの大テントに、ずらっと並べられた遺留品の数々の展示を見ていると、幼い子どもたちの幼稚園、保育園、小学校などで描かれたのであろう、かわいい絵が並んでいて、自分の家族や父、母、兄弟や友人たちを描いているものもあり、位牌や表彰状、先祖の写真、バットとグローブ、サッカーボールなどのスポーツ用具にも名がサインされているものもあり、元気な少年たちの遊ぶ声やスポーツを楽しむ姿も想像できる遺留品も多くあった。
大津波の被害を直接受けたのであろう海岸べりの住宅地は、今は廃墟と化しているのだが、釣具店や漁業関係者の拠点的な場所やマリンスポーツの拠点と思われる場所なども判別ができるところがあるのだが、全て流されていて再びここで以前の様な業務や楽しい活動が再度出来るという保障はまったく感じられない現実があった。
また海辺に近い場所に保育所の建物のような廃墟があり、入り口付近の石の小さな門に刻まれた亘理児童館の文字だけが空しく、その場所に大地震、大津波前には元気で明るいたくさんの子どもたちの歓声と笑顔があったのだろうと想像だけはできるのだが、悲しい現実の前に幼い子どもたちが全員ちゃんと避難できたのかどうかが心配であったが、関係者に改めて尋ねることすら躊躇するというか遠慮せざるを得ないような心境となっていた。
もう二度と住むことはないだろうという感じで、廃墟に近くなった構造物だけを残した建物の玄関口に、たぶん以前は住んでおられたであろう親子が、残留物を捜し求めたり、運び出しておられたのたが、かける言葉すら浮かばず、「ご苦労様」とだけ言うのが精一杯であった。
そうした廃墟に近い海辺の大津波に見舞われた地域を歩いて、ボランティアへの要望の受付ならびに期日を知らせるチラシを配布していたら、廃墟の庭から玄関先と思われる近くに、ドロドロの財布の様な布切れで作られた女性の持ち物と思われるずっしりと重い小物入れ、いや健康保険証やら診察券がたくさん入った入れ物を発見した。
泥にまみれた少し赤い色が見受けられるその入れ物には、たぶんご高齢の病院通いをされていたであろう女性の大切な証明書や必要なカード類が入っていて、ひと目見て大切なものと感じたので、ボランティアセンターまで持ち帰って職員に手渡したのだが、もう震災から三ヶ月以上が経過しているので、再発行やらで間に合っているかもしれないが、ひょっとしたら大切な写真や小物も同封されていたかもしれないと思って持ち帰ったので、ぜひご本人に届くことを願っているが、ひょっとすれば亡くなられた方や行方不明の方かもしれないと考えると、再び心が重くなったのであった。
たった三日間の宮城県下の被災地での活動、体験だったのだが、脳裏には今もあの海岸線と被災された地域の残骸と人が行き交わない廃墟の道が浮かんで来て、あの道に明るい元気な子どもたちの声と笑顔が戻ってくるのはいつになるのだろうと溜息かまじりで思い出している二三日である。