ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

時には母のない子のように。

2010年03月08日 | ガリバー旅行記
 昨日の夜、久しぶりにライブコンサートで、あの「カルメン・マキ」を聴く機会があった。

 数日前にジャズライブなどを自分の店で時々やっている友人から電話があって、日曜日の夜に「カルメン・マキ」をやるから来てくれないかとのことだった。

 「へぇー!、あのカルメン・マキ」なら一度聴きに行こうと思って、一ヶ月に一度の大阪にいる年老いた母の顔を見に行った帰路にちょっと不便な田舎町の友人の経営するライブ喫茶へと小雨の中向かった。

 大阪から約一時間で最寄の駅には着いたのだが、バスの時間では間に合わないので、タクシーでライブ会場の「ナーダム」に開演前になんとかたどり着いた。

 「カルメン・マキ 歌手生活41年目のうた・歌・唄」と題したライブ演奏で、ヴァイオリンの太田恵資とギターの桜井芳樹がバックミュージシャンとして来演する演奏会であった。

 あの伝説とでも言うべき「時には母のない子のように」で、1969年に17歳で鮮烈なデビューを飾った彼女だが、父がアイルランドとユダヤの血を引くアメリカ人で母が日本人と言う混血児で、エキゾチックな顔立ちの美人であったと記憶しているのだが、果たして今晩現れる彼女の風貌は如何にといった感じで登場を待った。

 七時半前に二人のバックミュージシャンの前演奏の中、登場したカルメン・マキさんは若き頃よりも失礼ながらどっしりとした感じの熟女といった感じの風貌であったが、歌声は若き頃と変わらぬ美声と歌いこんだ熟練のボーカルといった感じに変貌した部分も感じられた。

 昨年暮れに突然の訃報が届いた、先輩歌手の「浅川マキ」さんに触発された面もあったというカルメン・マキさんは、あの浅川マキさんの名曲「かもめ」も歌って、彼女の追悼的気持ちも込めて歌っていたが、浅川マキも好きだった私にとっては、とってもラッキーかつ思い出深い曲に何十年ぶりに出会えた感じで嬉しかった。

 カルメン・マキさんは1968年にあの寺山修司さん主催の「演劇実験室・天井桟敷」の『青髭』公演にいたく感銘し即入団し、その年の8月に新宿厚生年金会館での「書を捨てよ、町へ出よう」で初舞台を踏んで、芸能界に足を踏み入れたという経歴の持ち主である。

 その翌年に、CBSソニーから前述の「時には母のない子のように」で歌手デビューし、1972年には、「カルメン・マキ&OZ」を結成し、1977年までに4枚のアルバムと3枚のシングルをリリースして解散している。

 その後は、ロックやフォークにとらわれず、ジャンルを超えたフィールドで活躍するミュージシャンたちとコラボしつつ、ソロの音楽活動を続けていて、今回のヴァイオリンの太田恵資らの協力を得て、2009年に歌手生活40周年記念アルバム「ペルソナ」をリリースしている。

 何処となく「寂しさと憂い」を含んだ独特の語りとバラードっぽい歌声に魅せられた約2時間のライブは、私自身の70年代の東京での音楽事務所での仕事や時代を髣髴させてくれて、とっても懐かしく思い出す機会となった。
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