ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

「ガリ版」印刷。

2010年03月02日 | 感じたこと
 今朝の毎日新聞朝刊の「余録」の欄に、兵庫県明石市の国道沿いにあった小さな謄写版印刷工房の主であった安藤信義さんが74歳で亡くなったとの報を聞いて2週間経った、余録の筆者が「ガリ版」印刷に関して書いている。

 筆者は8年前にガリ版工房を訪ね、安藤さんと出会っていたらしいのだが、私たちの世代にとっては、多くの人がガリ版印刷のお世話になった思い出や記憶があると思われる。

 私の場合は、当然小学校の時代の「学級通信」や「テスト問題」がガリ版印刷だったことは間違いないのだが、小学生時代に参加していた「ボーイスカウト」の活動の一番小さな単位である「班」で、班長を務めた「タカ班」で、出した「タカ班通信」が、自分自身ではじめて製作した「ガリ版」印刷もどきものであった。

 学校に置かれていた本格的な先生たちが日常的に使っていた「謄写版」ではなく、子ども用の簡単な「プリントごっこ」的な道具があり、鉄筆で原紙に記事を書いて、インクをローラーに塗って、スクリーンの上からなでる様に転がして、一枚、一枚印刷する手法は、ほとんど謄写版と変わりがなかった。

 小さな謄写版印刷に始まった私自身の「印刷ごっこ」も大学生の時代になると、本格的な謄写版があったキリスト教の教会で、毎月発行していた「青年会」の機関紙の編集、印刷に活用されるようになっていて、約二年間近くは機関紙の編集人となって、原稿を書き、ニュースを取材し、レイアウトを考えては徹夜に近い状況で、毎月の発効日に間に合わせていた記憶がある。

 たったザラ版紙一枚、今の規格で言えばB4の裏表の印刷物なのだが、ギザギザの鉄板の上に蝋を塗った原紙を載せて、鉄筆で一字、一字、字を刻んでいくように傷つけていくやり方で、原稿が形になっていくのだが、途中字を間違ったりレイアウトを失敗でもすると、全てやり直さねばならなかったり、修正のために赤い塗料のような修正液を縫って、乾いてから書き直す作業が必要であった。

 こうした「ガリ切り」と呼ばれる作業に没頭していた時代に、どうしても「ガリ文字」と呼ばれる、角ばった独特の文字の書体が少しつづ身について、いつのまにか「ガリ版文字」の典型に近い技術を会得するに至ったのであった。

 こうした「ガリ文字」の苦労も、いつのまにか80年代以降は無くなって、ワープロへと移行し、今やパソコンの時代になり、全く「謄写印刷」などで刷り上った印刷物は見なくなっているのだが、こうした「ガリ版印刷」を残すために、安藤さんは「ガリ版の灯を守る会」を結成し、市民から原稿を募集し、文集を編集し、最後のガリ版印刷所と呼ばれていたらしい。

 器用で凝り性の日本人向きの「ガリ版印刷」は、欧米で技術が生まれたのだが、明治中期に日本で原紙などを改良して完成したらしく、その後は軍隊や学校、行政などで大いに活用されて等身大のメディアの原型として、「ガリ版文化」を発展させてきたのである。

 一字、一字に書き手、ガリ切りをする者の気持ちと意思が伝わりそうな「ガリ版」が懐かしい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする