ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

百姓仕事が世界を変える。

2008年04月15日 | 日本の課題
 いつの頃からか私も人の子として、「農業」「食品」「食文化」「食育」などに関心を持つようになっていた。

 誰にとっても、「食」は、生きている以上必要な課題であるのだが、なかなか自分の人生と「農」や「食」についてじっくり考えることが少ない人が多い世の中である。

 されど私の場合は、できれば無添加、無農薬の食品や野菜を少しでも食べられたらと思うようになって、そうした農産物や加工食品を引き売りで販売する人たちと出会い、お客としていろいろと教えてもらっているうちに、約15年前から、自分自身が「引き売りの八百屋」をやるようになったのである。

 二十数年前には、少しの畑を借りての「畑づくりごっこ」をしたことはあったが、なかなか手間隙をかけることなく、夏野菜のきゅうり、トマト。茄子とさつまいも位しか栽培できなかった。

 日本の現在の穀物自給率は、何と先進国といわれる欧米諸国などと比べても最低に近い、40%を切っている状態であり、昨今の栽培植物のバイオ燃料化や、発展途上国などの食物需要の急速な増加や世界的異常気象などでの「世界的食糧不足」の危機が近づくこともありうる状況となっている。

 しかし、日本政府も日本人もいたってのんきな国民だと思うが、何とかなると思っているのか、経済力で何でも輸入したり買えばいいと思っているのか、食糧に関しても「平和ボケ」と言わざるを得ない状況ではなんいだろうか。

 そんな世界の食糧危機が近づく中で、最近の学生さんや若者の中に「農業」や「食」に関心の強い人たちが思いのほかたくさんいることを最近知ったのである。

 私の最近出会った若き友人や学生さんたちの中に、大学を休学していて「農業の研究」をしている男の子がいたり、世界の放浪の旅を続けていた女子学生の話を聞いてみると、意外や近い将来は「田舎で農業をやりたい」と言う人がいたりと驚きというか、頼もしい話が聞けたのである。

 二年来の付き合いになる学生の中には、大学を卒業し、大学院に進学して、「環境と農」をテーマに研究をしたいとする若者もいて、なかなか嬉しいことである。

 今日もあるご年配の「農と科学」をテーマに多くの実践とビジネスの世界を行き来しておられる面白い御仁のお話を聞く機会があったのだが、机上の空論に終わらせず、学生、市民も交えた「新しい農のかたち」を模索しつつ、経済、有機、環境をリンクさせた「農」をポジティブに試行する必要を強く感じている。

 現在、私は週末の無添加食品と無農薬農産物の移動販売八百屋を続けつつ、新しい「無添加食品と有機農産物」を届ける生活協同組合のお勧めの営業をしながら、日本の世界の「新しい農」と「食」のあり方についての実践者や研究について学びたいと思っている。

 ぜひ、大切な「農と食」の問題を多くの市民、消費者が関心を持って、世界の食糧危機を乗り切らねばならない。
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ビラまき有罪判決。

2008年04月14日 | とんでもない!
 4月11日に、最高裁判所が、所謂「立川反戦ビラ配布事件」に対して、有罪を確定する判決を出した。

 2004年1月から2月にかけて、反戦、反基地運動を行っている団体がイラク派兵に反対するビラを自衛隊の宿舎地域内に入って投函したことで、自衛官が警察に通報し抗議したため、関係者以外の立ち入り禁止行為だとして禁止事項違反として被害届を提出した。

 それに対応して、立川警察署が同団体メンバー三人を住居侵入の容疑で事務所、自宅などを捜索し、書類、パソコンなどを押収し、ビラを投函した上記三名を逮捕し、起訴、拘留したのである。

 当初、このニュースを聞いた時点から、「おかしい!」と直感した事件であったが、拘留期間が75日間に及んだことや接見禁止の裁判所の決定が出されるなど異常な対応振りも話題になり、まるで重犯罪行為みたいに、「ビラ配布」を、住居侵入罪として裁判にかけた事件である。

 しかし、東京地方裁判所での初審においては、被告人らを無罪としたのに、検察官は控訴し、弁護人は、検察官が起訴したこと自体が「表現の自由」の抑制や所属団体の活動の停止をさせる目的だとして、控訴自体が公訴権乱用の違法だと指摘した。

 裁判所は、公訴提起は、ビラの記載内容を重視した側面があると指摘し、他の商業的宣伝ビラに対するものとは異なる不快感を抱いたという、住民感情に着目したらしい。

 また、弁護人は、被告たちの立ち入った階段や通路部分は、刑法上の住居侵入罪にいう「住居部分」ではないと主張したが、裁判所は住居であると、これを斥け、被告人らの立ち入りは入居者らの意思に反したものとの理由で、表現の自由の前に、入居者らの承諾や拒否する意思も尊重すべきとし、いずれも弁護人の主張を斥けた。

 控訴審で東京高等裁判所が有罪判決を出したために、最高裁に被告人らは即刻上告したのだが、最高裁判所が棄却したために、東京高裁の有罪判決が確定したのである。

 全く可笑しな判決であり、思想的弾圧、表現の自由の抑圧であり、住居侵入罪の誤った違法性の判決であるとしか言いようのない結果であった。

 以前にも「共産党ビラ」や自分たちに都合の悪い主義主張に関するビラ配布に関しての「違法性の訴え」に対する判例はいくつかあるが、まるで言論抑圧であり、司法までもが国に都合の悪い言論を「住居侵入罪」などで処罰し、懲らしめるという前時代的な判決だと断言する。

 私も議員活動を通じての「議会報告」の配布や、現在はある商業的活動の案内ビラをポスティングする場合があるが、郵便受けが敷地内にある場合などは、駐車スペースや表の柵を通り抜けて入って投函する場合もある。

 どんな目的であっても、所謂家屋への侵入は遠慮しなければいけないが、敷地内全てを「住居侵入罪」として検挙、起訴、有罪などとされたらたまったものではない。

 とんでもない憲判決は、この国をどんどんと駄目にする方向への兆しとしか思えない。

 
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桜の見納め。

2008年04月13日 | 季節の話題
 今日の日曜日、久々に京都市内に出かけた。

 お昼ごろから、僕の友人でもある同志社大学の嘱託職員が約4年間の勤務を終えて、三月末に退職したので、お世話になった学生や出会った我々が、彼の「送別会」をすることとなり、鴨川の河川敷にブルーシートを敷いての飲食の集いとなった。

 当然学生さんたちが中心なので、私ごときは最年長の「おじさん」と言うことだが、男女合わせて彼と強烈に出会った20名前後の若者が車座になって一同に会して自己紹介や近況も含めて再度出会ったのである。

 昼下がりの鴨川河川敷では、桜の花はほぼ散り出していたのだが、あちらこちらで「花見」のグループが場所を陣取って、各々特色のある宴会を始めていた。

 この同志社大学京田辺キャンパスの職員が企画した、特に大学新入生を中心とした「エンパワーメントプログラム」に私も「内モンゴル企画」に少し関わったものとして、今回の集いにも参加することとなったのである。

 私は知る由もない、沖縄、熊野、備前、高山などの国内各地で3年間の間に9ヶ所の「エンパワ企画」を彼が提唱し、実現したために、その参加者であった学生たちが強い絆で結びつき、彼の退職、その後も関わりを求めての「送別会」となった。

 私が1988年から行き来している、中国内蒙古自治区の草原でのゲル生活と遊牧民との交流は、一昨年夏の「エンパワメント企画・特別編」として、12名の学生とスタッフ3名の15名が一週間にわたる草原での自然な生き方生活を体験したのである。

 国内の数箇所での5,6泊の企画においても、大学に入ったけれど、何を目的にどう学生生活を送るべきかの指針を持たない学生たちにとっては、大きな「生き様」を学ぶ機会となったようで、各々の表情に「自分らしさ」と「自信」がみなぎった様子だったという。

 今後も大学の講義や教授たちの指導だけでなく、大学の内外の情報と国際的な見地から、専門外の興味やネットワークの友情、情報を生かして、各々の学生たちがエネルギッシュに将来に向けて個性的に生きていくだろうとの確信を覚えた。

 三時過ぎには、市内の東山の黒谷西翁院での、お花見茶会に足を向けて、二十数年前からの庸軒流家元の宗匠と共に数人が、山桜の満開の木の下で、お菓子とお薄をいただいたのである。

 街中の桜がほとんど散っている状況の中で、「やま桜」は、まだしっかりと花を咲かせて保っていたので、何とも静寂の中で、メジロやオナガ、キビタキなどの野鳥たちも桜の枝に戯れていて、何とも長閑な茶会であった。

 京都駅を始め、京都市内各地がまだまだ「春の京都」を楽しむ観光客で賑わっている中、同じ京都ではあるが、静かで長閑な「桜の花」を愛でるお茶席に集えて幸せであった。
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阪神W記念打で10勝!!!

2008年04月12日 | プロスポーツ
桜も散りだして、少し寂しく感じだした春の昼下がりだったが、やっとこさ我が阪神タイガースの主砲、金本知憲外野手の記念すべきプロ野球37人目の2000本安打が達成された。

 広島カープ時代から「兄貴」と慕っていた今は同僚となり、同じユニフォームを今年から着た新井選手の1000安打達成と、何と同じ試合、つまり今日の横浜球場での阪神、横浜5回戦で両選手が揃って、記念すべき一打を打って達成したのである。

 しかも逆転による勝利に両者が貢献して、阪神タイガースは、今シーズン開幕以来の絶好調でセリーグ10勝一番乗りの10勝3敗の好成績で単独首位を突っ走っているのだ。

 今年の阪神タイガースは、あの宿敵巨人の大型補強と比べるとどうしても見劣りがするのか、多くのプロ野球評論家による優勝予想においても、断然読売ジャイアンツが優勝すると予測した人が圧倒的で、実力的には中日ドラゴンズについでの三位予想が多かったのである。

 それが開幕すれば阪神は開幕5連勝と好スタートを切ったのに、読売軍は逆に5連敗という最悪のパターンで原監督の情けない顔に、同情すら禁じえない宿敵同士の正反対のスタートであった。

 その読売軍にエースのグライシンガーと四番打者ラミレスを巨額の年俸の力で横取りされた格好のヤクルトスワローズが主将宮本慎也選手を筆頭とする、どうしても開幕戦の巨人を3タテするとのチームの結束で決意どおり3連勝したヤ軍が今夜も逆転勝ちを収めた様子で、巨人様お気の毒と言った感じである。

 我が阪神タイガースの好調ぶりは、春の珍事に終わることなく、今シーズンの終着点での歓喜の結果へと進むと思われるが、開幕後のもっぱらの話題は、金本兄貴の2000本安打と400号ホームラン、そして新井選手の1000本安打と200号ホームランだったが、まさか安打の記念すべき数で両者の同時達成など夢にも思わなかった。

 金本知憲選手の2000本安打については、あと一本の1999本から、なんと3試合は安打も出ず、珍しく三振が多くて、あの「鉄人」と呼ばれる金本選手ですら、記録へのプレッシャーがあるのだと驚くばかりの停滞であった。

 やっと今日の横浜戦の3-3で迎えた7回表のラッキーセブンに、もう少しで阪神での初ホーマーになり損ねた三塁打を放った弟分の新井選手を、右前打を放って迎え入れての感動の光景だったが、記録ずくめの「鉄人金本」に新たに2000本安打到達までの18打席ノーヒットという珍記録?まで生まれた。

 さすがアニキと慕われる「金本知憲選手」の大記録達成を祝し、ついでにご一緒した新井選手の記録記念も兼ねて、私たちは近くのラーメン屋で当たった商品券を元手に、ラーメン夕食パーティーを開くこととなった。

 感動と記録と勝利を「ありがとう」。阪神タイガースの今シーズンが益々楽しみです。新装なった新甲子園に家族揃って7月の中日戦に観戦、応援に参ります。
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裁判員制度

2008年04月10日 | 日本の課題
 数年前から日本の裁判制度に、何故か一般国民の参加を義務付けた「裁判員制度」が始まるとのニュースがあったが、いよいよ来年5月からスタートすることが決まったみたいである。

 そんな今日この頃であるが、昨日に4人の死刑執行がなされたらしく、鳩山邦夫現法務大臣のサインによる死刑囚の死刑執行が、昨年8月から計10名となった。

 約2ケ月に1人の死刑執行というのは、歴代の法務大臣の中でも異例のスピードでの執行となるとのことである。

 一方で、多くの「冤罪」が全世界的な裁判制度の中にはあると言われている現状の中で、罪を犯したものであっても、国家権力が「死を宣告し執行する」、死刑制度を廃止もしくは休止した国も世界の中には多くあるのが実情である。

 果たして人が人を裁くという「裁判制度」の誤りや間違いが本当に皆無になるという保障は全くないまま、日本では「死刑反対」を訴える声は、被害者家族の悲痛な叫びや、犯罪を犯した容疑者に対する厳しい罰し方として、「死」以外には罰は考えられないとする世論が今も強い。

 しかし、今後来年度から始まる一般国民の裁判員としての参加による「裁判員制度」によって、凶悪犯罪を犯したとされる容疑者の裁判において、一般の国民、しかも二十歳以上の男女であれば、一応に選ばれれば原則的に義務として参加しなければいけない制度となると、果たして正確な情報を得た上で、裁きに評決で参加できるのだろうか。

 一般国民に街頭でインタビューしている特集やニュースによると、多くの老若男女が、「素人が責任ある裁き」を出来るのかどうかを不安がる人々が多かった。

 特例として妊婦や八十歳以上の人や特別な理由が認められて猶予される人もあるらしいが、多くの普通の国民にとっては、たとえ重要犯罪の容疑者であったとしても、その容疑者を罰する「禁固刑」や「過料」、ましてや「死刑」や「無期懲役」などの重刑を科すことなどできるのだろうか。

 アメリカなどにおいて実際行われている「陪審員制度」を参考に、日本でも採用されることとなった「裁判員制度」ではあるが、果たして日本の国民性や文化や法律的土壌に馴染むものとなり得るのかが大変心配である。

 私の拙い人生経験からでも、「罪は憎んでも人は憎まず」とする心情もある日本人の心の心理をかなぐり捨ててて、人を罰することに加担することは、出来れば避けたいと思う人も多い様である。

 歴史的に多くの「冤罪」と言われた事件や裁判を通じて、専門家である裁判官や検事、弁護士にも間違いはあるのである。

 そんな人間の為せる業は、果たして「神のみぞ知る」、他人の犯罪行為や容疑に対して、「裁き」をできるほどの技量は持ち合わせていないと思う、一般庶民が大半ではないだろうか。

 欧米の真似事で試行されたり法制化される制度があるが、果たして日本人にとって、この「裁判員制度」は、馴染み難い違和感を感じる制度の様な気がしてならない。

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何をおっしゃる福田さん。

2008年04月09日 | 日本の課題
 久々に行われた党首討論。いわゆるクエスチョンタイムが今日午後国会内で約45分間行われたのだ。

 小泉首相、安部首相に続いて自民党総裁選挙で勝利して「内閣総理大臣」となった福田康夫氏だが、野党第一党党首である小沢一郎代議士との「党首会談」は、首相になって半年を過ぎたが、やっと2回目ではないかと思う。

 昨年11月だったか、例の「大連立構想」とやらが、小沢、福田両首脳間で企てられて「大混乱」を招いてから、当分党首会談はできない状態が続いていたのだが、それにしても今日行われた「党首会談」は、何とおっしゃる福田さんと言った感じの奇妙な党首討論であった。

 仕事の都合で、私は生で全てを観ることはきできなかったが、夜のテレビニュースなどで部分的に垣間見ることを通して、何とも与野党逆転した様な奇妙なクエッションタイムとなっていたと思うのである。

 民主党の小沢代表も、たぶん福田首相の逆質問に対して、おかしな立場逆転を指摘しながら、半分苦笑いを浮かべていた。

 福田首相は、今回の日銀人事で、何と4回も元大蔵省の天下り的人事案に対して民主党がことごとく認めなかったことに、よほど苛立ったと見えて、野党の党首に向かって「権力の乱用」などと言ったのである。

 あくまで「権力」を握っているのは、政権政党の党首で首相である福田康夫氏自身であり、いくら参議院で過半数を握ったとは言え、民主党の小沢一郎氏が権力を握ったわけではないのである。

 一国の大きな権力を担っている首相が、自分の思い通りの政策や国会運営が出来ないからと言って、その原因が全て野党にあるが如く公的な場で言うとは、何とも大人気ないとでも言うべきか、自分の立場を認識しなさ過ぎている。

 「協議」や「説得」といった民主主義的なみ手段や話し合いは、大いに結構だが、結局自分たちの決めた方向が正しいのだから、妥協してでも従うべきだと言っているみたいにしか見えない。

 「与野党逆転」の衆参両院の「ねじれ国会」という状況は、なかなか思い通りには政策が決定しなかったり、忸怩たる思いを与党関係者はしていると思われるが、首相をはじめ、今までの自民党、それに小判ザメの如く寄り添う公明党の皆さんにとっては、そんな落ち着かない状態は初めてなのかも知れない。

 どう考えても、首相が野党党首たちの「質問」に答えるのが建前の「クエッションタイム」で、福田首相は、自民党内や公明党内の「福田批判」が出始めている状況の中で、ぶつけ所を野党に向けただけの「茶番劇」だとしか思えない。

 今まで「天下国家」を偉そうに語っていた首相が、思い通りに行かない国会審議に業を煮やして、「逆切れ」した様な今回の「党首討論」であった。

 小泉元首相曰く、「何とか風が吹き出している」、解散、ドツボが迫っている。
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モチベーション。

2008年04月08日 | 感じたこと
 社会人にとっても学生にとっても、新年度という新しい4月を迎えて,約一週間が経った。

 今朝は全国的に小学校の入学式が行われたところも多くて、「ピカピカの一年生」が多数誕生したことだろう。

 保育園や幼稚園という集団生活の経験から、学校という「勉強するとこ」へと初めて入学した6歳になった初々しい1年生たちは、新しいランドセルを背負って、新しい机の前で、「勉強する」という世界にうれしそうに入学したのである。

 彼らにとって、今までの保育園や幼稚園は、勉強するところではなく遊んだりお弁当や給食を食べたり、お昼ねしたりと、先生、保育士の優しい大人たちに囲まれての家庭の延長であったはずである。

 しかし、どっこい「学校」に入学するや、「勉強をする」という概念だけは、多くの新入生が持っているらしく、最初の数日は、学校に行っても、先生に連れられての「学校内見学」や上級生に教えられることの多い毎日を過ごすのである。

 そのうち、「先生、いつ勉強するの・?」と質問する子供も出てきて、彼らにとっての「勉強する」ことへの憧れは、相当なものであるはずである。

 こうした小学一年生の勉強へのモチベーションと言うやつは、いつ頃から芽生えて、普通は入学式前後から一ヶ月近くは続くのである。

 しかし、その「勉強する」というモチベーションが、いつのまにやら段々と下がって行き、いつのまにやら消滅寸前になってしまうこともままあるのである。

 この「モチベーション」という厄介な精神的な代物は、どうして生まれるのだろうか、またどうして消えうせてしまいそうになるのだろうか。

 やはり、そこには「心地よさ」「褒められる」「評価」などが必要なのだろう。

 何事にも自信を持って、新しいチャレンジをする時には、誰もが少しは不安や戸惑いを感じているはずなのだが、経験のないことを恐る恐るするうちに、先生や家族たちの評価が自分に向けられることで、このモチベーションというやつは持続するのだろう。

 しかし、現実にはすぐに「自信をなくしたり」「元気がなくなる」といったケースが十分に起こりうるわけなのだが、初めての体験や空間に入れられるだけで、強いプレッシャーや緊張を感じている子供たちにとっては、「よく出来たね」という評価が一番なのだろう。

 これは、小学校入学時の新入生児童に限らず、就職や新しい職場での大人たちにも言えることである。

 他人から叱責されたり、つまんないことで笑われたり、結果が思うように出なかった場合などのケースは、一般的には「モチベーション」が下がる場合が多い。

 しかし、ずっと好調なモチベーションを維持することなど非常に難しいわけだから、我々凡人は、浮き沈みの大きい心身のモチベーションにとらわれずに、毎日の仕事や学業に勤しめるように、安らぎと憩いとストレス解消の時を適度に持たなければならない。

 子供だって同様である。適度な評価とお休みと憩いの時を大切に享受できるように、先生も家庭も配慮が必要ではないだろうか。
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脳と心のいたづら。

2008年04月07日 | 感じたこと
 昨晩と今晩、私にとっては衝撃的な経験をした。

 昨夜は、あの脳機能学者である「苦米地英人氏」の話を聞いたことである。

 今までの人生で、いろんな講演やスピーチを聞いているが、頭の中で言葉を理解しながら、自分の頭と心の作業とでも言うべき「感情」や「思考」を科学的に考えたことがあまりなかったので、一種のカルチャーショックに近い衝撃を味わったのである。

 しかも、その脳と心のメカニズムの理論を通じて、昨年秋にミャンマーにて、政府軍の砲弾で殺されてしまった、戦場カメラマンであった「長井健司氏」の「死」について、再び考え、今回の集会が訴えている。彼の持っていたビデオとカメラの返却をミャンマー政府に強く要求する意味を深く知ったのである。

 人間の脳の前頭葉を中心とする前頭全野には、①コンフォートゾーンがあって、全ての個人個人の行動や感情をコントロールしているというのである。

 しかも、そのパフォーマンスには、②エフィカシーと呼ばれる「自己評価システム」が存在していて、自分の今コンフォートゾーンの目指すべきゴール(夢や理想)を実現するために物理的空間と情報空間を行ったり来たりしているというのである。

 しかし、その空間には③スコトーマと称される「盲点」が隠されていて、今重要と思うこと以外は見えなかったり、感じなかったりするのである。

 戦場でカメラを向け続けていた「長井健司」という男は、「戦争と差別のない世界」を実現させるための行為として、「概念」すら存在しない「理想の空間」の実現のために、文字通り「夢中」であったのだろうと想像できるのである。

 今夜の衝撃とは秘密であるが、私の身近な人間関係の中で、この「脳と心」の作業において、「さもありなん」、しかし「何でそうなるの?」と思わざるを得ない出来事が起きていたのである。

 私自身にも計算はされていないが、一種のコンフォートゾーンがあることは自ずから認めるが、エフィカシーについては、時折大きく変動し、所謂自己のアイデンティティのひ弱さや、自己確立、自己変革の不十分さなのかも知れないが、スコトーマと言われても仕方がない課題が多いような気がする。

 しかし、いつの頃からか大変な「楽観主義者」になったように、「割り切ったり」、「乗り越えたり」するのが容易にできるようになったので、エフィカシー
を維持すること、すなわち「自分らしさ」の維持への葛藤はほとんどないのである。
 
 最後に、④クリエイティブ、サブコンシャス、ツマリ「思いがけない創造」について、述べられていたのだが、「見えないものが見えてくる」世界に突入していたであろう、故長井健司カメラマンの脳と心の問題は、やはり最期まで撮影し続けていた「ビデオとカメラ」の中にしかないだろうと確信するので、返却を強く要望するしかないのであろう。

 
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「まちづくり」とは・・・?

2008年04月06日 | 地域の話題
昨年四月の統一地方選挙から丸一年が経とうとしている。

 私ごときが「市長選」に立候補したのだけれど、私が「この人では駄目だ」と思っていた、その当時の現役部長が当選して、現市長となって一年になるわけである。

 四月のわが町、京田辺市広報「京たなべ・4月1日号」によると、3月議会で石井市長が「20年度のまちづくり」について、施政方針演説を行ったようである。

 16年間、田辺町町議ならびに、京田辺市議として、議会人として「市長の施政方針」を聞いてきた自分ではあるが、一市民に戻って「広報」を通じて、新年度の新市長の市政に対する基本理念、「築こうあなたと 未来のふるさと 京田辺!」を読んでみて、全く市民感覚とかけ離れた「机上で考えられた美辞麗句」が並んでいるに過ぎないと、改めて感じざるを得ない。

 第1に、市民の声をよく聞き、市民とともによく考え、市民とともに実行してまいります。

 第2に、自らの目でよく見て確認するよう、現地現場主義に徹し、それを政策形成につなげてまいります。

 第3に、市民の皆様の知恵とエネルギーを結集し、参画と協働による本市にふさわしい「まちづくり」を進めてまいります。

 このような「立派な理想、理念」が語られているのである。

 しかし、京田辺市の「まちづくり」と言いながら、しっかりとした「まちの将来像」に対するビジョンやシュミレーションがなされていないことが明白な事態が、いろいろと生じている。

 現在、市の表玄関のひとつである、JR京田辺駅前の商工会館のビルの南の駐車場跡に、大きな「葬儀場」、すなわち「セレモニー・ホール」とやらが建設計画を持ち、一年ほど前から地元の住民たちが「反対」の立て看板を立てて、抗議し反対しているのである。

 しかし、市は法的には問題ないと、全く住民の声に耳を傾けることなく、業者の「私権」に網などかけられないと、傍観しているに過ぎない有様で、近日中に建設工事が始まる気配で、敷地には覆い隠されてしまっている。

 「まちづくり」とは、その町の表玄関口近くに、「葬儀場」をつくることなのだろうか。

 町のイメージや町の将来的デザインが全くないままに、資本主義社会だからと言って、私権を持つ業者が好き勝手に建造物を商売目的だけで建てていくことへの協力が、行政の言う「まちづくり」なのだろうか。

 私の住む北部の住宅街の少しはずれの「市街化調整区域」と区分されている「住居や商業目的の建造物が建てられない所にも、違法状態で土地を所有する造園屋が、レストランや雑貨屋など7店舗のテナントに営業させている。

 長年議会で指摘しながら、子供にも「嘘は泥棒の始まり」と言いながら、「嘘はつき通したらええ」と教えているみたいだと問題提起したら、「ご指摘の通りです」と返答しながら、何も出来ない行政が続いている。

 決して、きれいごとのキャッチフレーズや美辞麗句の「理念だけ」では、真の「まちづくり」など出来ない現況が、私たちの町「京田辺」にも歴然としてある。 
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市バスの当て逃げ!!!

2008年04月05日 | とんでもない!
一昨日のこと、京都市バスが今出川通り出町柳交差点付近を百万遍方面の東行き途中に、並行中の自転車と接触し、女子学生の自転車は転倒し数箇所を打撲した模様だ。

 バス停留所付近であったとはいえ、公共交通機関である市営バスと一般通行中の無防備な自転車との接触事故がなぜ起きたのか、バス運転手の不注意が予測された。

 しかし、事故に気づいた59歳のバス運転手は、バスから降りてきて転倒していた自転車に乗っていた女子大学生に対して、「急に飛び出して来て、危ないやないか」と、被害者である女性に対して、まるで自転車で走っていた女性の一方的過失の様に叱責したというのである。

 まだ未成年の小柄な彼女は、一瞬何が起きたのかも十分把握できないままに、一方的な怒りを受けて呆然とし、警察に通報することも自分の打撲の傷の手当も気づかぬ間に、バスの運転手は運行中のバスに乗って行ってしまったらしい。

 とんでもないことである。どう考えても「市バスの当て逃げ」である。

 多くの目撃者害がいたのだが、やっと「大丈夫かい?」との声がかかり、彼女の携帯電話は転倒のショックで故障したらしく、夜になって母親との連絡がとれたという。

 翌日になって、バス営業所と警察への連絡がなされ、ご両親も担当者と対面されて、彼女と一緒に走っていた友達の事故を目撃したメモなどと証言から、バス運転手の初期対応の間違いやら、その後のいい加減な言動ぶりなどが明らかになってきた。

 当然、バスの乗客たちへの配慮も必要だろうが、まず事故の被害者である転倒した彼女の身体の怪我の様子や精神状態を労わり、警察への連絡がなされなくてはならなかったはずなのに、そそくさと現場を頓挫した市バス運転手の軽率かつ、無責任な態度は全く信じられない。

 ご両親が市バス側の事故担当者との面談中に、運転者の立会いを求めたところ、事故を起こした運転手は、その時間には飲酒をして、その場には来れない状態だと市交通局の職員は言ったという。

 彼女の母親は、事故を起こした際に、運転手がひょっとしたら「飲酒運転だったのと違いますか」と問い正したところ、担当者は「そんなことはありません」とすぐさま否定したと言う。

 しかし、こんな無責任な事故対応をした挙句に、事故後被害者への説明機会にも顔を出せないなんて、どう考えても「いい加減すぎる」し、運転手以前に、社会的人間としては失格者ではないかと疑いたくなる有り様である。

 世の中には、全く信じられない様な「いい加減」かつ「非常識な」人がいるが、今回の市バス事故の当事者の運転手は、言語道断な「人間失格者」と言っても過言ではないだろう。

 幸い、被害者の彼女の打撲の傷は軽傷だったかも知れないが、許されない「公共交通の運転者」と京都市交通局の対応のいい加減さを告発せざるを得ない。

 
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