今朝、毎日新聞京都地域ニュースの「京の人、今日の人」欄に、私の敬愛する、この地での「お父さん」とも言える「小野忠ヒロ」先生が紹介されました。
「戦争をとめよう」とご自分の手書きのゼッケンを手にした、小野先生の写真入りで、「ゼッケンに反戦の願い」というタイトルで、先生の生い立ちから現在に至る人生と「平和を祈る」思いを中心に、簡単に紹介されているのである。
私は15年ほど前の田辺町時代に「まちぐるみ公園化構想」を考える、ざっくばらんな懇話会に参加して、初めて小野先生に出会ったのであるが、この記事の取材の日に偶然先生の自宅にうかがたために、毎日新聞の中野彩子記者が先生にインタビューされている部屋で、私も同席し私が知らなかった先生のエピソードなども聞くことができたのである。
先生の人生の大きなテーマである、「平和」への原点は、間違いなく広島への原爆投下であり、その体験を通して、「平和の素晴らしさと戦争の悲惨さ」をずっと教育現場と絵画を通して表現されて来たのである。
二十歳の時に画家になろうと美術学校に合格されたのだが、「画家で飯が食えるか」との家族の反対で止むを得ず、郷里の高校の社会科の教師になられ、山口大学、広島大学で「考古地理学」という新しい研究分野を開拓し、「高地性住居」の研究者としての功績は多大であったが、65歳で退官されて、画家をするため京都府田辺町に引っ越してこられた人なのである。
いつも優しい口調で、私は公私共に多くの示唆に富んだ言葉をいただき、特に議員としては、生活者の感覚を忘れないための多くの指摘や問題点などをお教えいただいた、いわば私の師でも在るのである。
現在85歳になられた小野先生は昨年秋に自宅で転倒され脊髄を痛められたことが契機で、今までに描かれた多くの独特の画風のユニークな作品の整理を始められており、このブログに掲載した作品も、今は京都立命館大学の平和ミュージアムに展示され、その他の多くの作品も広く交流があった人々や公共施設などに引き取られることとなりそうなのである。
私は小野先生との出会いに感謝しつつ、先生の作品と共に「平和」を祈願する先生の強い意志に敬服し、これからもお元気に私たちへの提言や「生き様」を通してのコミュニケーションを期待して止まないものである。
小野先生の「命の大切さを伝える」教育の大切さと、今後の教育にかかわる人たちの、強い意志と熱いメッセージを期待して、先生の意思を私たちも伝える人になりたいと願っているのである。
「戦争をとめよう」とご自分の手書きのゼッケンを手にした、小野先生の写真入りで、「ゼッケンに反戦の願い」というタイトルで、先生の生い立ちから現在に至る人生と「平和を祈る」思いを中心に、簡単に紹介されているのである。
私は15年ほど前の田辺町時代に「まちぐるみ公園化構想」を考える、ざっくばらんな懇話会に参加して、初めて小野先生に出会ったのであるが、この記事の取材の日に偶然先生の自宅にうかがたために、毎日新聞の中野彩子記者が先生にインタビューされている部屋で、私も同席し私が知らなかった先生のエピソードなども聞くことができたのである。
先生の人生の大きなテーマである、「平和」への原点は、間違いなく広島への原爆投下であり、その体験を通して、「平和の素晴らしさと戦争の悲惨さ」をずっと教育現場と絵画を通して表現されて来たのである。
二十歳の時に画家になろうと美術学校に合格されたのだが、「画家で飯が食えるか」との家族の反対で止むを得ず、郷里の高校の社会科の教師になられ、山口大学、広島大学で「考古地理学」という新しい研究分野を開拓し、「高地性住居」の研究者としての功績は多大であったが、65歳で退官されて、画家をするため京都府田辺町に引っ越してこられた人なのである。
いつも優しい口調で、私は公私共に多くの示唆に富んだ言葉をいただき、特に議員としては、生活者の感覚を忘れないための多くの指摘や問題点などをお教えいただいた、いわば私の師でも在るのである。
現在85歳になられた小野先生は昨年秋に自宅で転倒され脊髄を痛められたことが契機で、今までに描かれた多くの独特の画風のユニークな作品の整理を始められており、このブログに掲載した作品も、今は京都立命館大学の平和ミュージアムに展示され、その他の多くの作品も広く交流があった人々や公共施設などに引き取られることとなりそうなのである。
私は小野先生との出会いに感謝しつつ、先生の作品と共に「平和」を祈願する先生の強い意志に敬服し、これからもお元気に私たちへの提言や「生き様」を通してのコミュニケーションを期待して止まないものである。
小野先生の「命の大切さを伝える」教育の大切さと、今後の教育にかかわる人たちの、強い意志と熱いメッセージを期待して、先生の意思を私たちも伝える人になりたいと願っているのである。