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ある元日本軍兵士による、戦争出前噺「ボレロが聴きたい」を京都YWCAで聞くことができた。
91歳の本田立太郎さんは、白内障の手術後のサングラスをはずして、お孫さんからのプレゼントのピンクのネクタイのいでたちで話し出された。
彼は、この戦争出前講座を19年前より始められ、今回が1082回目だということであり、戦後60年の節目の年も語り続けられている、非常に元気な語り部であり、おっかけのファンまでおられる有名人なのである。
今日も和歌山県南部町から来られたそうで、お話はとっても自然な流れの、しっかりとした口調で、説得力と共に感動の内容だったのである。
1939年、昭和14年5月に「オメシキタ、スグカエレ、チチ」の電報で、当時東京で生活していた彼は、呼び戻されて出征することになったのだが、出征への出発の日に、どうしても別れを告げたい人がいて、いつも時間があると珈琲を飲みに行っていたクラシックの音楽喫茶に、出征の報告に行ったそうなのである。
彼はそれまで幾度となく、その喫茶店に足を運んでいたのだが、一言も彼女と話したことはなかったそうで、その日は店に入ると彼女が目前に立っていて、出征の報告をすると、「いつですか?」と聞かれ,「今晩です」と答えるのがやっとだったそうである。
すると彼女は、すぐにお店の中に姿を消してしまい、そのうち今までのクラシックから急に彼が大好きで、今までも時折リクエストしてかけてもらっていた「ボレロ」が流れ出したのだそうである。
それからしばらくの間、何度も何度も「ボレロ」が流されて、彼を送る思いをお店の主人も了承して、クラシックの店にしては珍しい「ボレロ」が4、5回演奏されたのだそうである。
そして彼女への好意を口にすることもできないまま、出征した本田さんは、中国へ出兵し、過酷で悲惨な軍隊生活を経てシベリア抑留も経験して、八年後帰国して、悲しい事実を知らされるのである。
戦地での多くの戦友の死を見送った彼は、中国兵の捕虜を上官の命令「処分せよ」に、迷いできないと思ったが、陸軍刑法に背くと大変な刑に処されるのだとの思いで、殺害したことまで話されたのである。
殺さなければ、殺される。いくら戦時下とは言え、上官、天皇陛下の命令に背けなかった行為は殺人であり、死ぬまで持ち続ける恥ずかしい事実であり、「実に無念、恥ずかしく、くやしい。」と供述されるのである。
現在、高校三年生のお孫さんがおられ、お孫さんが二歳の時から彼は孫に宛てた日記を書き続けていて、負の記憶である「戦争の事実」を語り、伝えることが自分の務めだと10年間12冊に及んだというのである。
中国の戦地で亡くなった兵士たちは、誰も天皇陛下万歳と言って死んだ者はなく、みんな「おかぁさん!」と言って亡くなっていると語り、今なお多くの屍が中国の各地に眠っているのだとおっしゃっている。
決して厚生省の言う様に遺骨の収集は終わっていないし、死んだ兵士の指を持ち帰った兵士も多くいるが、それでも何も遺骨箱には入っていない戦死者もいるのだと告白されているのである。
「かわいい孫には、絶対軍服を着せたくない」という思いを「ボレロを聴きたい」と題した戦争出前噺の中で、ゆっくりと語り続ける本田立太郎さんから、多く示唆に富んだの熱い思いを受け、戦争のできる国へと歩みだした今の日本への、大いなる警告を感じざるを得なかった。
91歳の本田立太郎さんは、白内障の手術後のサングラスをはずして、お孫さんからのプレゼントのピンクのネクタイのいでたちで話し出された。
彼は、この戦争出前講座を19年前より始められ、今回が1082回目だということであり、戦後60年の節目の年も語り続けられている、非常に元気な語り部であり、おっかけのファンまでおられる有名人なのである。
今日も和歌山県南部町から来られたそうで、お話はとっても自然な流れの、しっかりとした口調で、説得力と共に感動の内容だったのである。
1939年、昭和14年5月に「オメシキタ、スグカエレ、チチ」の電報で、当時東京で生活していた彼は、呼び戻されて出征することになったのだが、出征への出発の日に、どうしても別れを告げたい人がいて、いつも時間があると珈琲を飲みに行っていたクラシックの音楽喫茶に、出征の報告に行ったそうなのである。
彼はそれまで幾度となく、その喫茶店に足を運んでいたのだが、一言も彼女と話したことはなかったそうで、その日は店に入ると彼女が目前に立っていて、出征の報告をすると、「いつですか?」と聞かれ,「今晩です」と答えるのがやっとだったそうである。
すると彼女は、すぐにお店の中に姿を消してしまい、そのうち今までのクラシックから急に彼が大好きで、今までも時折リクエストしてかけてもらっていた「ボレロ」が流れ出したのだそうである。
それからしばらくの間、何度も何度も「ボレロ」が流されて、彼を送る思いをお店の主人も了承して、クラシックの店にしては珍しい「ボレロ」が4、5回演奏されたのだそうである。
そして彼女への好意を口にすることもできないまま、出征した本田さんは、中国へ出兵し、過酷で悲惨な軍隊生活を経てシベリア抑留も経験して、八年後帰国して、悲しい事実を知らされるのである。
戦地での多くの戦友の死を見送った彼は、中国兵の捕虜を上官の命令「処分せよ」に、迷いできないと思ったが、陸軍刑法に背くと大変な刑に処されるのだとの思いで、殺害したことまで話されたのである。
殺さなければ、殺される。いくら戦時下とは言え、上官、天皇陛下の命令に背けなかった行為は殺人であり、死ぬまで持ち続ける恥ずかしい事実であり、「実に無念、恥ずかしく、くやしい。」と供述されるのである。
現在、高校三年生のお孫さんがおられ、お孫さんが二歳の時から彼は孫に宛てた日記を書き続けていて、負の記憶である「戦争の事実」を語り、伝えることが自分の務めだと10年間12冊に及んだというのである。
中国の戦地で亡くなった兵士たちは、誰も天皇陛下万歳と言って死んだ者はなく、みんな「おかぁさん!」と言って亡くなっていると語り、今なお多くの屍が中国の各地に眠っているのだとおっしゃっている。
決して厚生省の言う様に遺骨の収集は終わっていないし、死んだ兵士の指を持ち帰った兵士も多くいるが、それでも何も遺骨箱には入っていない戦死者もいるのだと告白されているのである。
「かわいい孫には、絶対軍服を着せたくない」という思いを「ボレロを聴きたい」と題した戦争出前噺の中で、ゆっくりと語り続ける本田立太郎さんから、多く示唆に富んだの熱い思いを受け、戦争のできる国へと歩みだした今の日本への、大いなる警告を感じざるを得なかった。
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