ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

「いじめ」が増加?

2012年08月09日 | とんでもない!
 滋賀県大津市の男子中学生が昨年10月に「同級生らによるいじめ」が原因で自殺したとされる問題が、被害者の保護者の度重なる訴えがきっかけで、ようやく表面化したことから、全国各地での小中、高校を含む学校現場での「いじめ」問題が増加したと報道されている。

 しかし、「いじめ」そのものは昔から現在に至るまで、多くの学校現場だけではないが、人間がいる社会においては、住宅地の近辺、職場、家庭を含め、ともかく残念なことだが多数生じているのが現実であり、今年上半期の報告数、もしくは問題化したケースがたまたま昨年同期を上回ったと言うだけであり、学校という教育機関を中心に、ともかく「臭いものには蓋を」とばかりに、事実を矮小化したり隠蔽したりすることで、多くは「泣き寝入り」という形で表面化していないだけなのである。

 私が小学生だった時代にも、いじめという認識はあまりなかったが、クラスの中の少し汚い子や弱虫の児童が、今思えば「いじめ」に合っていたと思われるし、決して児童、生徒同士だけでなく、教師からのいじめや逆に生徒が教師をいじめるといったケースも多々あったと記憶している。

 しかし、現代の「いじめ」として報道されたり報告されている実態は、ともかく「酷すぎる」状況が多く、単なる「いじめ」という相性の合わない他人に、ちょっとした嫌がらせをしたり、シカトーと呼ばれる無視を貫いたりという様なナマヤサシイものではなく、明らかに「犯罪的行為」としか言えない様な「暴力」や「人権蹂躙」というケースが続発しているのである。

 こうした現状に対して、確かに「学校」や「教育委員会」「行政」などの公的機関の「事なかれ主義」とでもいうべき「無責任」や「無関心」、そして「責任逃れ」のための「隠蔽化」が起きている場合がほとんどなのだが、決してこれらは学校に纏わる現場だけではないのである。

 一般社会における「いじめ」の実態も多く、多くのケースは「朱に交われば赤くなる」と言った表現が適当かどうかは不明だが、とにかく「知らぬ存ぜず」を決め付けたり、知っていても自分が関わりたくないとの思いから、知ってても見てても「知らない」、もしくは「いじめだとは思わなかった」という白々しい言葉で責任から逃れているのである。

 社会全体と言っても過言ではないと思うのだが、いじめに関してだけではなく、社会的ルールや他人への迷惑行為なども、多くの場合は、知らぬ存ぜずか、泣き寝入りを余儀なくされる様な他人事にしてしまっているのではないだろうか。

 ということは、子どもたち、すなわち幼児、児童、生徒、学生たちの周りにいる社会的には成人していると思われる大人たちが、見て見ぬフリをしてしまう社会、すなわち無責任な大人たちの人間関係が、結局は子どもたちの「いじめの実態」を助長させ、他人を尊重したり、個性を重んじることよりも、我が身の優越感や安堵感を得たいがために、自分との関係性において、上から目線で指示したり、いじめたり、暴力を振るったりという行動や言動がまかり通ってしまう世の中を作ってしまっているのではないだろうか。

 何が悪いのか?政治家、教育者、家庭内の父や母、そして社会的なリーダーシップをとるべき著名人やマスメディアにも、大きな反省と共に、テレビや漫画、ドラマ、映画などにも当たり前の様に「いじめ」が登場していて、それが当然の如く描かれている日本の現実をとても憂うものでもある。

 決して「いじめ」が増加しているのではなく、気付いていない「いじめ」が潜在的に多数あるのが現実だという忌まわしい現実が悲しい。
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