ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

広島被爆の日。

2012年08月06日 | イベント
 今日八月六日は、67年前の1945年に世界で初めてアメリカが原子力爆弾を日本の広島に投下し、とんでもない大勢の人たちが殺され、戦争の終結へと歩むきっかけとはなったものの、戦後も多くの被爆者が放射能による病苦に苦しみ、被爆者としてのささやかな支援を受けた人も受けられなかった人も、この世に原爆が落とされた事実と向き合いつつ、長崎の被爆者や全世界の原爆や水爆の実験などによる被爆者と共に、全世界に「放射能被害」を訴えて、地球上からの原爆などの兵器の廃絶を訴えている。

 日本政府は、この67年間、口では「非核三原則」や「世界で唯一の被爆国」の立場を語りつつも、世界での軍縮、核兵器廃絶などの動きに対しては決して積極的とは言えない立場を持続し、アメリカの軍事力に依存した形で「核兵器」を保有する国々への対応も生ぬるい対応しかして来なかったのである。

 いつも八月の広島、長崎と続く被爆の日や8月15日の太平洋戦争の敗戦の日を中心に、マスメディアを中心に「非核」や「核の廃絶」などがテーマとして語られたり論じられたりはするのだが、世界平和を目指す多くの国々にとっても国内外の利害に関連しているのであろうと思われる中途半端な姿勢や方針、または理想が語られるだけで、なかなか積極的な平和と核兵器廃絶への約束とはいかないのである。

 今回の広島での原爆の日の式典には、昨年春の東日本大震災に関連して起きた東京電力福島第一原子力発電所のとんでもない事故で殆ど住めない町となってしまった、福島県浪江町の町長も参加していた様子が報道されていたし、一方あの忌まわしき原爆を投下する様に命じた当時のトルーマンアメリカ大統領の孫も初めて参加したらしく、何とも言いがたき想いが募るのだが、果たして原爆と原発の類似性と核の平和利用という言葉の胡散臭さも感じたのであった。

 長年、日本では原爆はあってはいけない兵器だが、原発は核の平和利用であり、推進すべきとの意見がマスコミも含め政府方針だったので、私がかつて市議会で当時の市長に「非核平和都市」を目指して宣言をすべきと問うたところ、市長は原爆は無い方がいいが、原発は平和利用なので推進すべきとの立場から、非核は如何なものかと躊躇した発言を繰り返していた。

 とにかく、原子力爆弾と原子力発電は、共にウランを原料とした科学的研究の結果であり、難しい理論の違いは分からなくとも、いずれも多大な放射能とというリスクを背負うという科学技術なのだから、人間の叡智を尽くして安全を目指したとしても、失敗や事故が少しでも生じたら、全く同様の悲惨な放射能汚染と言う「いのち」に関わる大問題となるのは明白なのである。

 先日、私の孫のK君は市の平和推進のための目的の広島への一泊の旅に参加したのだが、参加に際しての作文や帰ってからのリポートも書いたそうなのだが、果たして広島の原爆資料館や原爆ドームを見学し、千羽鶴を折って届けた祈念塔などを見て、何を感じたのだろうか。

 無理やりに原爆と原発を関連付けるつもりはないが、どちらも人間だけでなく地球上のあらゆる生態系に対して、大きなリスク、すなわち害を及ぼすとんでもない科学研究の結果として生まれた技術であることを知って、ゆっくりとじっくり考えてほしいものだと痛感している。

 今朝の式典での広島のこども代表のふたりの小学6年生の言葉を聞いて、その後に野田首相の挨拶を聞くと、わたしたちは平和をつくり続けますと語った小学生の言葉の方が信じられる内容だったとの印象が強く、原発問題にも言及した首相の言葉は抽象的で確信めいた言葉は見当たりませんでした。

 世の大人たちは自分の立場、利害や人間関係の間ではっきりとしたことを言えないならば、いや本当の平和と安全な生活を目指したいと思っていないならば、全ての決断や理想、祈りも無駄になってしまうのではないでしょうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする