ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

甲子園の米寿。

2012年08月01日 | プロスポーツ
 今日は我が阪神甲子園球場の米寿のお誕生日だったそうで、今から88年前の8月1日に球場としての出発をしたというのですが、そのお祝いの日に我が阪神タイガースは久々の3連勝をして、前半戦の不調の波で現在セリーグの5位に甘んじているチームなのだが、昨夜の甲子園球場での勝利のヒーローの一人である44歳の金本選手の言葉通り、明日の甲子園でのヤクルト戦を終えてのロードに出る阪神タイガースかせ次に甲子園球場に戻ってくる8月下旬には、二つ三つ順位をあげて、3位か2位で帰って来れる様な戦いを続けてほしいと願っている。

 夏の高校野球大会のために、毎年の様に我が阪神タイガースは「死のロード」と呼ばれる戦いを余儀なくされているのだが、昨今は主催ゲームを京セラドーム大阪でもやるので、選手たちにとっては決して死のロードではなく、大阪や兵庫に自宅があるタイガースの選手たちも、ずっと旅するわけではなく、自宅に帰って家族や知人、友人にも会える機会があって、決して昔の様な死のロードではないと思われるので、是非金本選手の言葉通りにと期待している。

 私の野球ファンとしての人生も既に50年以上の阪神タイガースファンとしての経歴と思い出がたくさんあるのだが、果たして米寿を迎えた阪神甲子園球場には、この間何度足を運んだことだろうと思い返してみると、小学生の頃の高校野球見学に始まって、阪神の応援の為に時間を掛けて甲子園球場に行ったことが、たぶん50回以上はあるので、平均しては年一回は甲子園に足を運んでいることとなるのである。

 その中で、実は時々思い出してはブログでも数度記したことがあると思うのだが、私自身も甲子園球場のグランドに立ち、しかもピッチャーマウンドを踏んだ
こともあるのである。

 それは私が高校3年生の春、1965年の選抜高校野球選手権大会で出場?したからであるのだが、決して野球選手としてではなく、当時は春のセンバツの入場行進では高校名のプラカードを持つのをボーイスカウトが担当していたので、私は大阪のボーイスカウトの大阪54団に所属しているシニアスカウトとして選ばれて参加し、背が高くて182センチあったために、開会式では前年度優勝校の徳島海南高校のプラカードを持って行進したのだが、徳島海南高校は現在はプロゴルファーのジャンボ尾崎が投手として活躍した高校だったのである。

 そして決勝戦は、昔の阪神タイガースの名ショートで後に監督となった藤田平選手の市立和歌山商業高校と、当時の大洋ホエールズでエースとして活躍した、岡山東商業高校の平松投手が対戦し、たぶん岡山東商が優勝したと記憶しているが、その日も参加して甲子園球場の土を踏んだのであった。

 

 このセンバツ高校野球での甲子園球場の土を踏んだ思い出には、とんでもないおまけの記憶があって、一生忘れることがないと思う程の事件が起きていたのだが、それは開会式前日の予行演習時に、主催の毎日新聞社のヘリコプターとカメラマンが、開会式当日の朝刊を飾る予定の写真撮影に来ていて、私たちや選手たち大勢がグランドにいる最中に、写真を何枚も身を乗り出して撮影していたカメラマンが、旋回したヘリコプターから墜落して、バランスを失ったヘリも当時の国道の路面を走っていた阪神線の上に墜落炎上したという、もとんでもない事故もあったのであった。

 数多くのドラマがあった野球の殿堂である甲子園球場は、メジャーリーグのヤンキースタジアムに匹敵する球場をニッポンにもとの肝いりで創られたという、高校球児たちだけでなく全ての野球ファンにとっての憧れの球場として、今後も今まで通りにスター選手たちも含む野球選手の憧れの舞台として100年、200年と続いてほしいものである。
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