ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

初代若乃花の死。

2010年09月04日 | 感じたこと
 初代の「若乃花」、つまり貴乃花、若乃花の叔父さんであり、相撲協会理事長職も二期務めた、現役時代は105キロ、179センチの小兵ながら、大技の連続で土俵を沸かせて、三歳年上の栃錦と共に、「栃若時代」なる相撲ブームを作った、年寄り二子山勝治さんが一日亡くなられた。

 特に栃若時代当時は「土俵の鬼」として定評があり、小兵の筋肉質の動きの早い相撲の先がけ的お相撲さんで、「巨人、大鵬、卵焼き」と称された人気の横綱大鵬以前の相撲ブームの中心的存在であった。

 私たちの少年時代は、ほんとうによく相撲をとったもので、友だち同士でちょっと時間があると、地面に足で土俵の大きな丸を描いて、マワシもなく裸にもならずに、相撲ごっこで何度も相撲をしたものだが、昭和30年代から40年代にかけての大相撲人気の立役者であったに違いない。

 栃若時代と呼ばれる少し前までは、私の記憶では「吉葉山、鏡里」などの横綱がいて、背の高いやせた大関「大内山」などが人気だったのだが、若乃花の登場が相撲協会にとってもテレビ時代の「大相撲人気」に拍車をかける大スター的ヒーローとなった。

 引退後の「若乃花」は、二所関一門の花篭部屋から独立した二子山部屋を創設し、親方として二代目若乃花をはじめ、「若貴兄弟」と呼ばれた甥っ子たちの指導や相撲協会の理事、理事長として「日本相撲協会」を支え、発展に大きく寄与された。

 だからこそ、先場所の名古屋場所前に判明した、大関琴光喜を筆頭とした「野球賭博事件」や「相撲協会の不祥事」による、NHKの本場所相撲中継の中止にまで及んだ「日本相撲協会」の危機に際して、一番心を痛めておられたことであろう。

 何とか外部理事の登用や放駒新理事長の誕生などで、ようやく再生のための手順は少しは見えたとは言え、前途多難な日本相撲協会の行く末と今後の「相撲人気」に対して、心配と共に不安を感じておられたのも、二子山勝治さん自身だと思われる。

 私たちの少年時代は、「相撲か野球」しか一般の子供たちが手軽に真似られるスポーツがなかった頃のヒーローであり、野球で言えば間違いなく「長嶋、王」に匹敵するのが当時の若乃花であり、栃錦と共に子どもたちの憧れであり懐かしくもあり寂しくもある。

 もう二度と出ないであろう、苦労人の小兵横綱であった「若乃花」は、二代目、三代目と「若乃花」の四股名は受け継がれたが、初代「若乃花勝治」氏を超えられる横綱とはならなかったと断言できるくらい、素晴らしい鬼気迫る迫力と勝負への執念を感じさせてくれた我等がヒーロー「横綱、若乃花」の白黒テレビの映像が懐かしくもあり、寂しくさえ感じる。

 今後の相撲界がどう変革されて、平成から21世紀の「大相撲」として残って行くのか、天に召された、元横綱初代の若乃花の花田勝治さんが、見守っておられる気がしてならない。ご冥福を祈る。

 


コメント (1)
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