ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

新任先生の自殺!

2005年04月20日 | 感じたこと
 昨日のニュースは、ライブドアとフジテレビ、ニッポン放送の和解、中国での反日デモ、郵政民営化法案の自民党内の抗争などが中心であったが、私は埼玉県越谷市の小学校で起きた、22歳の新任教師の衝撃的な自殺事件が、どうも気になって仕方がなかった。

 大学で教員免許の取得過程を終えて、県の採用試験に合格して、すぐさま小学校に赴任した、180センチの長身で若くて元気な体育会系の新任の先生だったらしいが、何と4月1日に教師としてのスタートを切って、たぶん生徒たち30人の前に立って、まだ10日ほどしか経っていないのに、突発的な衝動からか、自分の勤務する学校の図工室で、ネクタイを首に巻いて自殺していたと言うのである。

 それも前夜は、同僚教師たちと9時過ぎまで学校で仕事をしており、何ら変わったところもなく帰宅して、早朝6時20分頃に学校に出勤して、自らの命を無駄に絶ってしまったのである。

 女性の教頭のコメントがテレビ報道では流されており、若くて溌剌とした先生で、生徒たちの人気もあり、死ななければならないような原因は全く思い当たらないとのことだったが、ひとつだけ事実としては、この日初めての授業参観が午後に予定されていたことである。

 この亡くなった新任の若い男性教師が、どういう心境だったかは全く分からないのだが、私はこのニュースを見聞きして、やはり保護者や先輩教師たちにも見られるであろう、初の授業参観が、彼にとっての最大の悩みの原因ではないかと思ってしまうのである。

 一見明るくて、元気で溌剌とした先生としての振る舞いがあったとしても、まだまだ大学を出て、教壇に立って1週間余しか経っていない彼にとっては、多くの年齢的には全て先輩にあたる、保護者や仲間の教師の前で、うまく授業を展開できるかは、大きな不安と共に緊張があったのではないだろうか。

 私は、教育現場の問題について、現在小学校の教師をしている先生方と、時折話すことがあるのだが、一般的な会社員として大きな組織に入って、いざ仕事をとなった新人社員にとっても1年目の経験は、全てが見習いの様なものであって、会社側もねじっくり社員としての資質や性格、能力を見極めて、指導、助言しつつ、育てて行く1年間位は覚悟している場合が多いのではないだろうか。

 たとえ大学時代に教職課程の必須としての母校もしくは希望校での実習と言う名の研修として、子ども達の前に立ったことがあるにせよ、たった2週間程である。

 ましてや実習の時は、そのクラスの担任教師や指導教官などもいて、親切、丁寧にサポートしてもらえるだろうし、責任感は必要なものの、あくまで学生の実習としての勉強の場に過ぎないのである。

 しかし一端教師として採用されれば、一般的な事前の研修や心得、アドバイスはあるものの、担任を受け持ってクラスに入ってしまえば、どんなに若くてもどんなに不安であっても、子ども達から見れば「先生」であり、一クラスの最高責任者であり、彼が始動しなければ何も動かない、つまり全責任が覆いかぶさってくるのである。

 今の若者は、知識はいろんな形で会得して豊富かもしれないが、受験戦争や少子化の影響もあって、家庭でも学校生活においてでも、少数の友達や人間関係の中でしか成長していない者が多くて、いわゆる対人関係や多くの人にもまれる経験を持つ者が少ないのではないだろうか。

 学校の先生という職業は、どんなに少なくても一クラス20人から多い場合は40人に及ぶ、違った個性、性格、の他人との人間関係を、まず構築しないとやれない仕事である。

 そこへ子ども達だけではなく、学校の校長、教頭、教務主任、学年主任、時には新任教師指導教員などを含む教員、職員との人間関係と生徒たちの背景に必ずいる保護者達との関係も、すぐ問われる職場でもあるのである。

 人生の新しい出発、初めての社会での職場に慣れるまでに、すぐに全責任を持たねばならないクラス担任の重さに加えて、多くの学校、地域、家庭の大人たちとの関係を構築することは、若い社会慣れしていない新任教師にとっては、目に見えない大きなプレッシャーとなっていたのではないかと容易に想像できるのである。

 そして初の授業参観が早くも行われる、この精神的プレッシャーが、一時に彼の心を支配して、そのプレッシャーを跳ね除けるだけの精神力が欠如していたために、突発的な死への逃避行となったのではないかと思うのである。

 あくまで憶測ではあるが、人生は長いのである。先生と急に呼ばれて、一クラスの全責任を最初から預けてしまうのではなく、1年目は少なくとも見習としての、学校現場では補助教員としての経験を積む機会を提供した上で、その人の性格、能力、意欲などを見守って、適切な配置を二年目から考え人事を尽くすという配慮が必要ではなかったかと思うのである。

 人間は考える葦であるが、経験は考えても得られるものではないのである。

 若い一人の青年が、教師という重荷に耐えかねて死んでしまったことに、惜別の念を隠しえない。

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