無いよりは有った方が良い類のことである。それが偽装身分を構成するものだとしても「人格」を代表することはない。
障子を透かす陽光が背中から射して碩学の顔がどこかかげっている。
それは現役進学時の虚な疑問から、恩師がせっかく綴ってくれた数部の内申書を破り捨てた時と同じような頭をめぐらす納得であり、世俗の簡便な成功価値から離れる一瞬のことだった。
その頃から進学校、いや大型塾の様だった学び舎は生徒に冒険を促した。
なかには要らぬ敗北感落ち込む者もいた。教師も数値を上げるために「滑り止め」と陳腐な試みをする教員も多かった。それさえも父兄は温情と受け取った。
本人の志望は別として進学校は安全パイと称する大学を羅列して内申書を書くことあった。みると六大学の有名校のようだが、華も咲かない枯れ木にしか見えなかった。
明治以降の学校の歴を立身出世の具にする世情は戦禍を超え、より軽薄な競争として団塊世代を巻き込んだ。多くは生活の安定と取得給金の多寡を競う受験戦争に送り込む家族の期待だった。そう、たどり着く将来を夢想した「戦争」だった。
だが学び舎は苦いものだったが、甘味も強かった。
数値評価による個別化ゆえなのか、怠惰な遊興に走るものも多かった。景気が良かったためか子供に投資のつもりで親は無理をしてても子供のすねかじりを許容した。麻雀、思春期をスキップしたためか異性興味のナンパ、同棲、「赤提灯」や「まちぶせ」という楽曲が流行り、却って窮屈になった社会観は矛盾に対する行動として「学生運動」となった。
「やるべきこと」の目的意識より「やりたいこと」への扇動は社会全体の錯覚した自由への風だった。
筆者の祖父母も「大学に入ったら車を買ってやる」という有様だった。有り難かったが複雑だった。この複雑感を解決できる学び舎は大学なるものにはなかった。己もあのような先輩のようになるのか。当時は車と異性と幾ばくかの金があれば流行りのカルチャーに参加できた。
それに不思議感があった。それは仲間からも浮世離れの偏屈と人には映ったようだ。
中学から親と離れて祖父母と暮らした。幼児の頃から曽祖父は自転車の荷台に乗せて幼稚園に送ってくれた。思春期の烏帽子親のような爺さんが亡くなってから親が同居したが、どこか間(ま)があった。高校ではなぜか「おじん臭い」といわれたが、アンバランスな老成だったようだ。
そして変わった知識欲とそれをどのように用いるのか、その学びの探求はどのような手段があるのか、妙な興味があった。父のような爺さんの死別は死生観を変化させ、世俗の成功価値にも疑問を抱いたようだ。いま想えば学びの方向性の変化であり、その後の老境に入った賢者との邂逅において拘りの無い許容となり、年齢差さえ苦にならない交流になったようだ。
それは大学進学という流れに己をおくことなく、学びの矛盾と無意味さに向かうことにもなった。そして縁を持った老海を逍遥した。とくに明治の人物に興味を持ち多くの厚誼が拓かれた。
官製の学校制度に疑問を持ち、与えられ数値選別されるカリキュラムの意味を再度考えてみたが、その時はまだ見いだせないものがあった。
たとえ新たな世界での朋友との出会いや縁の効用を呈されても、云われれば言われるほど、働きながら老海を逍遥する数多の縁の方に向かうのだった。
だだ、どんな所なのか覗きたいとも思っていた。大学校と云う場所への好奇心だった。
碩学との邂逅もそんな時だった。
「大学という学問は面白いが、大学校は目的の持ちようでつまらん人間もつくるところだ。自分は興味ある学科が無いので図書館に入り浸っていた」
大学は四書五経にある「大学」である。その意は自らの特徴を明らかにする「明徳」だ。
自身の特徴を発見してそれを伸ばすのが学問なら、己を知らずして知識・技術を学んだのでは、本当の自身の特徴(徳)を知らずして、単に「知った、覚えた」類で自身を発揮できない。
まして生活の安定や富貴のために経歴を作ることなどは学問の堕落だ、と。
後日、柳橋由雄という同学者が「立候補して世を正したい」と伝えたら、「君、議員になるのかね」といわれ、自身の欲念を断ち切られたと語っている。
「大学に行くのか」それだけでも己を悟るのに充分な言葉だった。
その後は地方の道学を訪ねるときは、必ず助言があった。
北九州の加藤三之輔氏に会いますといえば、「豪傑が多いので気を付けるように」と。
官僚や政治家、企業責任者や学者も数多だ。そして和綴じの記名帳の先頭に自身の名を標し、表紙は「布仁興義」と書いていただいた。それを抱いて著名人を訪ねた。
なかには某大学の名誉教授などは「大学は,いま何を、どんな履歴」などと豪勢な応接間で尋ねられたが、退去間際に記名簿を差出し署名を依頼すると、冒頭に安岡正篤と記されているのを見たとたん、卑屈な迎合態度を表した。しかもページを開けて次ページに署名、あの赤尾敏氏は安岡氏の隣に堂々と記した。数多の面会は巷間の印象とは異なる人間の姿をを知ることでもあった。
「虚飾の学はそのようなもの、人物を量る観を養うことが重要だ」
物知りについては、物に点をつけて「点で物にならない」と洒脱な応えもある。
「無名は有力だ」当時は解らなかった。
たしかに、その逆は「有名は無力」だが、今どきはそれが煩いを起こしている。
政治の世界、ビジネスの世界においては忌み嫌われる視点ではあるが、それが解ると自由度、突破力、情報に対する許容量が広がる。
以前、某大学の特別講義を依頼されたとき、同伴の金沢明造氏が述懐していたことがある。氏は広島の在日韓国二世であるが こと矜持は日本人を唸らせるものがある。法科在学中のこと、有名な教授がこう喝破した。
「君たちは勉学に励み、全員司法試験に合格してほしい。そして合格したら弁護士になり、全員バッチを外したらいい」
その気概で不正と戦ってほしいとの気持ちだった。
その時は不思議だった。いやとんでもない教授だと思っていた。しかし、バッチが身分になり、黒でも白と言い含める厚かましさと、その対価に敏感となり、受託すらそれによって判断する法徒の姿に危惧を覚えるのだ、それを教授は法徒の堕落として憂慮したのだ。
消費者金融の大手と係争した時、毎朝裁判所の前で 裁判官にチラシを手渡した。結果は勝訴。陰に隠れてほくそ笑んで眺めていた司法書士や弁護士はその勝訴を盾に過払い金請求を起こしている。困窮者救済を掲げる法匪ハゲタカは後を絶たない。
http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=c063f1de57b742ddd744cc6b501a1dec&p=1&disp=50
彼も無名の人間だった
だだ、無名は孤独と疎外の恐れを抱くこともあるが、松陰が弟子に説く学問の端は「他と異なることを恐れない精神」が、多くの可能性と突破力を生じたことは、何もしないで人生を経ることの無意味さを言っているのだろう。
解らなければ己の至誠と行動で魅せる教育者松陰の、学びへの率先垂範、しかも不特定多数の安寧に懸けた善なる精神性は、有名・無名を問わない歴史に効ある学問である。
たしかに西洋かぶれした明治初頭の学校制度は功罪を半ばとしている。
陸大、士官学校、帝大の卒業席次はどんなリーダーを描いたのだろう。
勅任官も高級と冠される軍人や官僚は満州崩壊で居留民を置き去りに遁走している。
「吾、汝らほど書を読まず、されど汝らほど愚かならず」
「物知りのバカは、無学の莫迦より始末が悪い」
佐藤慎一郎氏のその時の感慨である
それ以前の龍馬、晋作、松陰、西郷、海舟、鉄舟などの英傑の逸話は多いが、彼らは塾や藩校の学びだ。維新後の学制はフランスを模倣したためか自由や平等を日本人の心に重ね、覆った。
いまさら啓蒙思想の良し悪しを問うものではないが、使いいようによっては、どこか人間の劣化を漂わせる。
彼らは造物主(神)の最高の造化は人間だという。封建のころ、無学無名の日本の農民は「可愛い牛や馬も私たちと一緒じゃないのですか」と応えた。まさに生命の尊厳を支えるものと毀損するものの考えを端的に応えている。それが西洋の合理的知識だという。そして数値選別だ。
脂ののった魚や肉は旨い。暗誦試験で数値の高いものは人間として頭が良い。どこか安易で味気ない粗雑な価値観のようだ。
師は、真に頭の優れていることは、直感力が秀でていることだ。
「大学に行くのか・・」
よく筆者の特徴と将来を推し量った言葉だったと今更ながら感謝している。