「歴史は人から人への精神の流れ」東京工大 芳賀教授 産経正論欄より
「人間考学」
たかだか人間の問題である。
また、そう考えることが此処でいう「人間考学」の端緒でもある
聴き慣れないことだろうが筆者の奨めである。
とくに「伸ばす」「省く」を目標として掲げ習慣化することへの薦めである。
たとえば理想とすべき人物の座右を借用するもよし、感度とオンが馴染むと造語するもよし、それを自己流に、しかも能力の足らないところの目標でもよし、気の付くところへ掲げる薦めである。
よく心に銘記すればいいとはいうが、さしずめ携帯の待ちうけ画面に芸能人やペットを添付するように人生針路として活用したらどうだろう
安岡正篤氏の「六然訓」を借用して掲げる方もあるが、難しいことを簡易に自分勝手に解釈するより、「あがるな落ち着け」「怯むな」「競うな」「あげつらうな」のような、゛多くの不 ゛や、「無視しない」「深く考える」「知ったら教える」「学んだら行なう」といった、゛多くの善 ゛を多不、多善として銘記したらいい。
あるいは「無名かつ有力」「頭がいいことは直観力」など軌道修正に効果ある文言もいいだろう。
後藤新平は「自治三訣](ジチサンケツ)を自らのに課した
人のお世話にならぬよう
人のお世話するよう
そして報いを求めぬよう
岡本哲人は
「尽くして欲せず、施して求めず」
(安岡氏は「受けず」と添削)
また、「貪らざること宝と為す」
何ごとも対価にするような風潮に警鐘を鳴らしている。
誕生の頃、命名した半紙を貼り付けて期待を託した。近頃では格言カレンダーをトイレに掲げている宅もある。受験には必勝、合格、学業成就などと机の前に親が大書して貼り付けている。
さまざまな願目願望が溢れているが、なんとなく一過性で、回顧すると我欲のオンパレードで、、゛それからどうする゛゛どうなった゛と考えると何ともやりきれない。
よく「夢はなんだ」と問われるが、「恥ずかしくて口に出せない」と応えることにしている。
夢はそうゆうものだと考えているが、夢想も空想も「夢」には到底とどかない代物だ。
つまり想っているうちが夢だからだ。
筆者のような小人が考える憲章は、その想っていることの習慣性を銘としている。
夢想耐用に沿って、到底たどり着けないような、あるいは童心のような無限の夢を抱くようにしている。茶席の年初めの床の間の書は「夢」である。誰かが死の床で「夢のまた夢」と呟いたという。
死ぬまでもち続ける夢を探している。つまり自身に課すことに他ならない。
「己は何処から来て、何処へ行く、そして何者なのか」
ゴーギャンや毛沢東の言にもある。
自由は担保するためにさまざまな行為を課す。民主は己が主であることの継続を課す。
民主、自由が謳われる囲いの中で、バナナの叩き売りの如く「裏も表もバナナ」に誘われ、ひと房多いか少ないかに惑わされ、巧妙な口上に夢中する。これも夢だ。
いま世情は叩き売りの売り場確保で忙しい。
憲章は自身そのものが解りやすくするために銘とするものだ。
ひとは先ず自身に嘘をつく。実像に耐えられないのだ。
目覚ましのスヌーズのようなもので、まず己に負ける。
酒や異性や仕事の理由にして人生そのものをスヌーズしている。
起床するつもりの目覚ましも反抗はしないが、いつも反省という返りがある。
それが「オレだけではない」「誰かがやる」「別にいいんじゃん」の慣性に陥らないよう、かつ反省の悔しさを味合うことの無いよう、ささやかな自己憲章起草の薦めなのである。