張学良率いる東北軍顧問 苗剣秋氏と夫人
【歴史の部分から大局をみる。その大局を企てた流れは,今も止まることはない。】
備忘録 「張学良 鎮す」 抜粋
張学良といえば国民党、共産党合作の舞台となった西安事件が有名だが、戦後、氏の存在はベールに包まれている。
なぜ台湾に移ったのか、西安事件の秘密は?それらの多くは語られることのない問題として日中近代史に多くの興味を投げかけている。
NHK特別番組でのインタビューで語る氏の゛語り口゛は、歴史経過の及ぼす様々な事象への慙愧と無常感が入り混じったものであった。ときには昂じ、あるいは鎮まりをもった姿は、まさに世界史の出演者である氏の生涯そのものの観があった。
ここでは歴史研究や学問としての中国観とは別に、普通なら取り上げられる事も無く、さりとて゛まんざら゛でもない、関係者からの平常な生活会話の中からエピソードを辿って見ることにする。
1988年といえば天安門事件の2年前の12月、なんとなく足を向けた台湾台北でのことだった。 師の佐藤慎一郎氏から伺っていた西安事件の立役者 苗剣秋氏のことを思い出し、唐突にもホテル前を逍遥する古老に尋ねてみた。
゛おぅおぅ知っている゛とばかりに古老は懐かしそうに早速、居住をどこかに尋ねている。 こんな時で無ければ会う事のない苗氏の名は古老なら知っている。
心当たりが分ったのか、本人も興味津々のようで目の前のタクシーを呼びとめ、到着したばかりの台北の町をひた走る。
やたら狭い路地を走ると保育園の前の古い建物の三楼(3階)を指して、下車を促す。
治安上なのか、階段入り口と苗宅のドア前には横引きの鉄製シャッターがあり、ドアはスチールの堅牢なものだ。
呼び鈴を押すと初老のお手伝いとおぼしき女性が応対に出たが、なにしろ突然の訪問のため要領を得ない。
「佐藤先生の友人です」とっさのことだが友人とは大仰な態度だった。
招き入れられた応接間に苗夫人がソファに座っていた。
壁には苗夫妻の若かりし頃の写真と剣秋氏の軸装が掛けられていた。一方には安岡正篤とあるが、何時もと違った感の書風の掲額がある。
話といっても佐藤師からの聞きかじりばかりで中身が無いので、夫人の近況を伺う事にした。
夫人は苗氏を苗先生と呼び、現在、加療中であり、夫人も養護施設の入所考えているが、なかなか順番が回ってこない。しかし、「施設では時間が軍隊のように決まっていて年寄りには辛いだろう」との不安を抱いている。
お手伝いサンの子供に話が移り、お手伝いサンが事故で怪我をした見舞金を息子が遊興に費やしている苦言を吐露している。
初対面での会話だが、佐藤師と苗氏の交流の深さが垣間見える応対でもある。
梁立法院院長 丘昌河氏
2度目の訪台は日本の国会に当たる立法院の梁粛成院長との会見や、興味を持ち始めた孫文の記念する国父記念館と蒋介石総統が提唱した「新生活運動」の原本を拝観するための中正記念堂訪問である。観光コースの忠烈館の回廊に唯一日本人が掲げられていることに胸が熱くなるほどの強烈な印象を受けた。
くわえ、友人の訪台に際し苗夫人の様子伺いにと好物であるケーキの持参を依頼した折、「もう、さびしくて死んでしまいたい」との言葉があり、急遽の訪台計画でもあった。
初回は佐藤先生にも伝えなかった旅だったが,今回は苗氏の消息を報告した小生の言葉に
「それなら七福という通じの良くなる薬を持参してください。たしか夫人の常備薬ったはずだ。それと満州の大同学院の教え子に丘昌河という実業家と梁粛成という政治家が居るので時間があったら会って来たらよい」
何時もながらの簡単な会話だが、あとは現地でどうにかするということだ。
夫人は待ちかねたようにベットから起き上がって持参したケーキを食べた。
すると、
「苗先生は西安事件は関係無いんです」突然の言葉である。
「その話を伺いたくて訪ねたのではないですよ」考えもなく応答する
「あのとき先生は天津にいたんです」
ただ,黙って口元を注目するしかなかった
西安事件の立役者である苗氏のことは佐藤師にも聞いている
北方の軍閥,張作霖の子として生まれた張学良の学友として張作霖に可愛がられ、持ち前の利発さから日本に留学。一高帝大 難関高等文官試験に合格。張学良率いる東北軍の顧問として活躍し、周恩来とも懇意で事件前後さまざまな想定問答があったことは以後の推移をみてもわかる事だ。
また、佐藤師とも懇意であった苗氏の状況をみても事件の大筋は吐露している事だろう。
小生は学者,研究者の類ではなく、ましてブン屋のごときのように話の整合性を詰問したりはしないが、縁と人情に裏打ちされた継続すべき人間関係の中での体験会話の集積から読み取る「語り」である。たとえ備忘記述でも秘すべきもの,約束事については関係,無関係の事象を問わず、ふとした言わずもの、あるいは嘆息の中に忖度すべきものと考えている。
苗氏は張学良に言う
「おまえの親父は誰に殺された」
「おまえは今,誰と戦おうとしているのか」
一時は麻薬中毒となり,軍閥の腐敗を増長させた張学良を叱責した苗氏の激情は,蒋介石を監禁した折の「殺してしまえ」といった言葉にも表れる。
苗氏は周恩来とも旧知の間柄だった。学良の父であり満州軍閥の総帥である張作霖は、対立する国民党軍との関係で、一時は日本の援助を得ていた。苗氏は張学良と同級で張作霖の援助で日本に留学、帝大、高文に合格し、東北軍の軍事顧問になっていた。
その東北軍しかり,国府軍もまたしかり。軍備や戦機、といった戦略戦術の類に勝敗の有無を問うものではなく、単なる武装暴力の腐敗や権力に添う富の収奪闘争なっていた。そのため中国の歴史に登場する英雄が率いる諸侯、軍閥の合従連衡が、清朝後の中国に繰り返され、統一国家の意識を醸成するまでもなく、借款あるいは軍事力の後ろ盾による諸外国の介入を招いて、事後の混沌とした状況を作り出していた。
張作霖,袁世凱にある軍閥の様相は,孔財閥を財政部長に置き諸外国の援助を腐敗の具としたその後の国民党の敗北と同様に、抜けがたい中国の権力性癖を表していた。
「誰に殺されたか」という苗の言葉は日本軍に爆殺された父張作霖であるが、河本大作大佐が大阪士官学校同期の磯貝廉輔に宛て決行27日前に出した書簡の末尾に「満蒙に血の雨を降らせる…」と記し、南方便衣隊の仕業に見せる為、金を渡して雇い入れた中国人を刺殺し決行している。
北京から同行していた日本人将校は前の駅で降車し,唯一、有賀とかいう将校だけが知らされなく激怒したという逸話が残っている。
爆殺に怒って東北軍が攻撃してくればしめたものと考えていたが,東北人の智将蔵式ギの機転で重傷発表を行い,虚偽に薬の購入までさせている。
肩透かしを食ったのは河本を始めとする日本軍だった。
(佐藤氏談)
中央の意図しない現地の謀略に、慌てふためいて追認する伴食軍人や官僚の姿は今も変わりがない。
しかも、官癖というべき現状追認と理屈の塗り固めは、将来起り得るであろう泥沼化した日中戦の初頭を゛飾る゛蛮行でもあつた。
西安事件以後の国民党軍の姿に疲弊と戦後の国共内戦経過を見ると、周恩来の意図が成功し、中華人民共和国成立となるが、皮肉にも成立の立役者である苗氏も張学良も台湾に居住している。
確かに,一時期日本に亡命した苗氏だが、田中総理の日中国交回復交渉の経緯と結果に憤慨して台湾に渡ったが、生活の問題は民国政府のそれと聞く。
しかし,筆者が垣間見た国民党の情報機関「国際問題研究所」、実はゾルゲの謀略機間でありイギリス情報機間のパイル中佐との連携のもと、日本の北進政策を南進に切り返させた組織の日本駐在者として苗氏の名がある。
組織のトップは後の中華民国駐日大使館の参事官,王大禎(梵生)であり、日本朝野の要人との交流で信頼を集め、あの安岡正篤氏をもって「大人の風格ある人物」と言わしめている。
また北京の交流拠点であり、大倉財閥の資金を北伐資金に投じていた宮本利直氏の主宰する宮本公館に出入りし「大志を共有する老朋友」と肝胆相照らす仲でもある。
有名な抗日事件であった129事件から始まった2年後の露構橋から西安事件と、その謀略の流れは破錠することなく中華人民共和国の成立から現在のアジアの分断混乱までつづいている。
国際問題研究所の組織図には、末端にあの満鉄調査部所属の朝日新聞の尾崎ホツ実や偽造紙幣の印刷担当に青山和夫、あるいは日本滞在の欄には苗剣秋氏がある。
西安は事変でも事件でもない。短期的には国際コミンテルンによる中華人民共和国の成立だが、イギリス情報部とチャーチル ゾルゲとスターリン 王大禎の真珠湾攻撃数週間前の決定情報とアメリカ情報部などを、地球儀を回転させた関係図から読み取ると戦争や事件の研究追跡というミクロ視点では汲み取れない、遠大な意図と目標に向かった謀略が潜んでいるように見える。
近年「文明の衝突」だとかの推考があるが、満州事変の確信的首謀者である石原莞爾将軍の預言的「世界最終戦論」や、中国近代革命の父孫文が終始唱えていた「日支提携してアジアを興す」、あるいは日本に対して「西洋覇道の狗となるか,東洋王道の干城となるか」が今日の現状を考える上で重要なキーワードになっている。
満州皇帝溥儀と側近 工藤忠(鉄三郎)
張学良氏の慙愧とウメキに似た言葉は、゛了見が狭くわからずやな日本及び日本人゛に対して向けられている。それは、゛真の日本人がいなくなった゛と嘆息した孫文の言葉と同様に聞こえるのは筆者だけではあるまい。
苗氏は台湾を切り捨て、中国になびく日本の政治家を称してこう言っている。
「三木は見限った 大平は真っ平だ 中曽根には根が無い 田中は一角の繁栄しか考えない」
そして「日本人は世界史に名を称えられるような民族にならなくてはならない」と
【天下、公のため、その中に道あり】と色紙に揮毫して託してくれた
余談だか
佐藤師から,「西安事件の秘密資料はイングランド銀行の金庫にある」というが、蒋介石を迎えに行った宗美玲に同行したイギリスの美術商の奇怪な行動をみると理解が近くなる。
秘密とは日本とは戦うな、という「不抵抗命令」であるというが、その心根は孫文の日本にたいする考え方の継承と、日本と戦ってどちらが負けてもアジアは復興しない、という意志だった。近衛も何かに誘い込まれるように泥沼に入り込む不思議さを語っている。
蒋介石もその状況に苦慮した。互いに「何故だ・・」というおもいだった。
近衛の取り巻きに朝日新聞の尾崎、蒋介石の情報機関である国際問題研究所のトップに王大偵,この二人とゾルゲを交えた謀略は日本の誘引と国民党の疲弊を企て、日本の南下によってソ満国境の精鋭をドイツに向けモスクワ戦にかろうじて勝利させ、国内では国民党、共産党の合作によって共産軍の温存と増大を謀り、構図として日本軍と共産軍の挟撃構図を企てた西安事件であった。
事件をよく知る中華街の名のある古老に,蒋美玲夫人が西安に乗りこみ蒋介石を連れ戻したのはどうして可能だったのか?との問いに
「張学良は美玲のボーイフレンドだからだ」
ソビエトの指令で死を免れた蒋介石だが張学良の台湾幽閉と生死、生活の保証は、たとえイングランド銀行の秘密文書があったとしても、中華街の古老の話のほうが真実味がある。
日本人には理解しずらい面白い逸話だがこんな事もある
共産党の重鎮である朱徳の甥が来日した。
要件は中曽根総理に会いたいと言う事だった。
「佐藤先生は中曽根さんを知っているはずだから取り持ってくれませんか」
「私は近頃,外出も不自由になって…・」
「それなら,秘書の方を紹介してください」
「よく知らない人だが拓大に居ったときに学長は中曽根さんだったので訪ねてみるか」
一国の総理に対して、いくら重鎮の朱徳の甥でも,しかも,何の用なのか
ともかく議員会館を訪ねてみると、廊下の向こうで
「やぁ 佐藤先生ご無沙汰しております」
旧知の上和田秘書である。
「総理は多忙なので私、上和田がお聞きします」
話は秘書が引き取ったが,内容は、いわゆる゛個人的゛な付き合いをしましょうという事だ。
この甥は普段、台湾で反共新聞を発行している人間で,台湾でも力のある部類でもある。 それが中国共産党の重鎮の使いとは,聞いているほうが混迷してしまうエピソードだが、左様に事象の見方は複雑で入り組んでいるが、『利』の潤いや゛人情を贈る゛という『賄賂』には国共や思想スローガンも存在しない。
ともあれ,苗氏宅訪問が思いがけない歴史深訪になったが、筆者にとっては苗夫人の言葉に震え、それが自らの生涯に忘れ得ぬ一つの絵となって刻まれた。
「苗先生は自分を探す為に一生懸命忙しい人生だったのです」
遠来の無名な若造の目を凝視して諭すように語り掛けた。
病床から起きあがり、ベットに両手を支え、さっきと違う声の力があつた。
次ぎの言葉を待った。刻が長い
「張サン(張学良)はねェ お坊ちゃんですョ」
歴史は探求する事だけにあるものではない。
眺めるものだと考え始めたのもこの時からだ。
【歴史の部分から大局をみる。その大局を企てた流れは,今も止まることはない。】
備忘録 「張学良 鎮す」 抜粋
張学良といえば国民党、共産党合作の舞台となった西安事件が有名だが、戦後、氏の存在はベールに包まれている。
なぜ台湾に移ったのか、西安事件の秘密は?それらの多くは語られることのない問題として日中近代史に多くの興味を投げかけている。
NHK特別番組でのインタビューで語る氏の゛語り口゛は、歴史経過の及ぼす様々な事象への慙愧と無常感が入り混じったものであった。ときには昂じ、あるいは鎮まりをもった姿は、まさに世界史の出演者である氏の生涯そのものの観があった。
ここでは歴史研究や学問としての中国観とは別に、普通なら取り上げられる事も無く、さりとて゛まんざら゛でもない、関係者からの平常な生活会話の中からエピソードを辿って見ることにする。
1988年といえば天安門事件の2年前の12月、なんとなく足を向けた台湾台北でのことだった。 師の佐藤慎一郎氏から伺っていた西安事件の立役者 苗剣秋氏のことを思い出し、唐突にもホテル前を逍遥する古老に尋ねてみた。
゛おぅおぅ知っている゛とばかりに古老は懐かしそうに早速、居住をどこかに尋ねている。 こんな時で無ければ会う事のない苗氏の名は古老なら知っている。
心当たりが分ったのか、本人も興味津々のようで目の前のタクシーを呼びとめ、到着したばかりの台北の町をひた走る。
やたら狭い路地を走ると保育園の前の古い建物の三楼(3階)を指して、下車を促す。
治安上なのか、階段入り口と苗宅のドア前には横引きの鉄製シャッターがあり、ドアはスチールの堅牢なものだ。
呼び鈴を押すと初老のお手伝いとおぼしき女性が応対に出たが、なにしろ突然の訪問のため要領を得ない。
「佐藤先生の友人です」とっさのことだが友人とは大仰な態度だった。
招き入れられた応接間に苗夫人がソファに座っていた。
壁には苗夫妻の若かりし頃の写真と剣秋氏の軸装が掛けられていた。一方には安岡正篤とあるが、何時もと違った感の書風の掲額がある。
話といっても佐藤師からの聞きかじりばかりで中身が無いので、夫人の近況を伺う事にした。
夫人は苗氏を苗先生と呼び、現在、加療中であり、夫人も養護施設の入所考えているが、なかなか順番が回ってこない。しかし、「施設では時間が軍隊のように決まっていて年寄りには辛いだろう」との不安を抱いている。
お手伝いサンの子供に話が移り、お手伝いサンが事故で怪我をした見舞金を息子が遊興に費やしている苦言を吐露している。
初対面での会話だが、佐藤師と苗氏の交流の深さが垣間見える応対でもある。
梁立法院院長 丘昌河氏
2度目の訪台は日本の国会に当たる立法院の梁粛成院長との会見や、興味を持ち始めた孫文の記念する国父記念館と蒋介石総統が提唱した「新生活運動」の原本を拝観するための中正記念堂訪問である。観光コースの忠烈館の回廊に唯一日本人が掲げられていることに胸が熱くなるほどの強烈な印象を受けた。
くわえ、友人の訪台に際し苗夫人の様子伺いにと好物であるケーキの持参を依頼した折、「もう、さびしくて死んでしまいたい」との言葉があり、急遽の訪台計画でもあった。
初回は佐藤先生にも伝えなかった旅だったが,今回は苗氏の消息を報告した小生の言葉に
「それなら七福という通じの良くなる薬を持参してください。たしか夫人の常備薬ったはずだ。それと満州の大同学院の教え子に丘昌河という実業家と梁粛成という政治家が居るので時間があったら会って来たらよい」
何時もながらの簡単な会話だが、あとは現地でどうにかするということだ。
夫人は待ちかねたようにベットから起き上がって持参したケーキを食べた。
すると、
「苗先生は西安事件は関係無いんです」突然の言葉である。
「その話を伺いたくて訪ねたのではないですよ」考えもなく応答する
「あのとき先生は天津にいたんです」
ただ,黙って口元を注目するしかなかった
西安事件の立役者である苗氏のことは佐藤師にも聞いている
北方の軍閥,張作霖の子として生まれた張学良の学友として張作霖に可愛がられ、持ち前の利発さから日本に留学。一高帝大 難関高等文官試験に合格。張学良率いる東北軍の顧問として活躍し、周恩来とも懇意で事件前後さまざまな想定問答があったことは以後の推移をみてもわかる事だ。
また、佐藤師とも懇意であった苗氏の状況をみても事件の大筋は吐露している事だろう。
小生は学者,研究者の類ではなく、ましてブン屋のごときのように話の整合性を詰問したりはしないが、縁と人情に裏打ちされた継続すべき人間関係の中での体験会話の集積から読み取る「語り」である。たとえ備忘記述でも秘すべきもの,約束事については関係,無関係の事象を問わず、ふとした言わずもの、あるいは嘆息の中に忖度すべきものと考えている。
苗氏は張学良に言う
「おまえの親父は誰に殺された」
「おまえは今,誰と戦おうとしているのか」
一時は麻薬中毒となり,軍閥の腐敗を増長させた張学良を叱責した苗氏の激情は,蒋介石を監禁した折の「殺してしまえ」といった言葉にも表れる。
苗氏は周恩来とも旧知の間柄だった。学良の父であり満州軍閥の総帥である張作霖は、対立する国民党軍との関係で、一時は日本の援助を得ていた。苗氏は張学良と同級で張作霖の援助で日本に留学、帝大、高文に合格し、東北軍の軍事顧問になっていた。
その東北軍しかり,国府軍もまたしかり。軍備や戦機、といった戦略戦術の類に勝敗の有無を問うものではなく、単なる武装暴力の腐敗や権力に添う富の収奪闘争なっていた。そのため中国の歴史に登場する英雄が率いる諸侯、軍閥の合従連衡が、清朝後の中国に繰り返され、統一国家の意識を醸成するまでもなく、借款あるいは軍事力の後ろ盾による諸外国の介入を招いて、事後の混沌とした状況を作り出していた。
張作霖,袁世凱にある軍閥の様相は,孔財閥を財政部長に置き諸外国の援助を腐敗の具としたその後の国民党の敗北と同様に、抜けがたい中国の権力性癖を表していた。
「誰に殺されたか」という苗の言葉は日本軍に爆殺された父張作霖であるが、河本大作大佐が大阪士官学校同期の磯貝廉輔に宛て決行27日前に出した書簡の末尾に「満蒙に血の雨を降らせる…」と記し、南方便衣隊の仕業に見せる為、金を渡して雇い入れた中国人を刺殺し決行している。
北京から同行していた日本人将校は前の駅で降車し,唯一、有賀とかいう将校だけが知らされなく激怒したという逸話が残っている。
爆殺に怒って東北軍が攻撃してくればしめたものと考えていたが,東北人の智将蔵式ギの機転で重傷発表を行い,虚偽に薬の購入までさせている。
肩透かしを食ったのは河本を始めとする日本軍だった。
(佐藤氏談)
中央の意図しない現地の謀略に、慌てふためいて追認する伴食軍人や官僚の姿は今も変わりがない。
しかも、官癖というべき現状追認と理屈の塗り固めは、将来起り得るであろう泥沼化した日中戦の初頭を゛飾る゛蛮行でもあつた。
西安事件以後の国民党軍の姿に疲弊と戦後の国共内戦経過を見ると、周恩来の意図が成功し、中華人民共和国成立となるが、皮肉にも成立の立役者である苗氏も張学良も台湾に居住している。
確かに,一時期日本に亡命した苗氏だが、田中総理の日中国交回復交渉の経緯と結果に憤慨して台湾に渡ったが、生活の問題は民国政府のそれと聞く。
しかし,筆者が垣間見た国民党の情報機関「国際問題研究所」、実はゾルゲの謀略機間でありイギリス情報機間のパイル中佐との連携のもと、日本の北進政策を南進に切り返させた組織の日本駐在者として苗氏の名がある。
組織のトップは後の中華民国駐日大使館の参事官,王大禎(梵生)であり、日本朝野の要人との交流で信頼を集め、あの安岡正篤氏をもって「大人の風格ある人物」と言わしめている。
また北京の交流拠点であり、大倉財閥の資金を北伐資金に投じていた宮本利直氏の主宰する宮本公館に出入りし「大志を共有する老朋友」と肝胆相照らす仲でもある。
有名な抗日事件であった129事件から始まった2年後の露構橋から西安事件と、その謀略の流れは破錠することなく中華人民共和国の成立から現在のアジアの分断混乱までつづいている。
国際問題研究所の組織図には、末端にあの満鉄調査部所属の朝日新聞の尾崎ホツ実や偽造紙幣の印刷担当に青山和夫、あるいは日本滞在の欄には苗剣秋氏がある。
西安は事変でも事件でもない。短期的には国際コミンテルンによる中華人民共和国の成立だが、イギリス情報部とチャーチル ゾルゲとスターリン 王大禎の真珠湾攻撃数週間前の決定情報とアメリカ情報部などを、地球儀を回転させた関係図から読み取ると戦争や事件の研究追跡というミクロ視点では汲み取れない、遠大な意図と目標に向かった謀略が潜んでいるように見える。
近年「文明の衝突」だとかの推考があるが、満州事変の確信的首謀者である石原莞爾将軍の預言的「世界最終戦論」や、中国近代革命の父孫文が終始唱えていた「日支提携してアジアを興す」、あるいは日本に対して「西洋覇道の狗となるか,東洋王道の干城となるか」が今日の現状を考える上で重要なキーワードになっている。
満州皇帝溥儀と側近 工藤忠(鉄三郎)
張学良氏の慙愧とウメキに似た言葉は、゛了見が狭くわからずやな日本及び日本人゛に対して向けられている。それは、゛真の日本人がいなくなった゛と嘆息した孫文の言葉と同様に聞こえるのは筆者だけではあるまい。
苗氏は台湾を切り捨て、中国になびく日本の政治家を称してこう言っている。
「三木は見限った 大平は真っ平だ 中曽根には根が無い 田中は一角の繁栄しか考えない」
そして「日本人は世界史に名を称えられるような民族にならなくてはならない」と
【天下、公のため、その中に道あり】と色紙に揮毫して託してくれた
余談だか
佐藤師から,「西安事件の秘密資料はイングランド銀行の金庫にある」というが、蒋介石を迎えに行った宗美玲に同行したイギリスの美術商の奇怪な行動をみると理解が近くなる。
秘密とは日本とは戦うな、という「不抵抗命令」であるというが、その心根は孫文の日本にたいする考え方の継承と、日本と戦ってどちらが負けてもアジアは復興しない、という意志だった。近衛も何かに誘い込まれるように泥沼に入り込む不思議さを語っている。
蒋介石もその状況に苦慮した。互いに「何故だ・・」というおもいだった。
近衛の取り巻きに朝日新聞の尾崎、蒋介石の情報機関である国際問題研究所のトップに王大偵,この二人とゾルゲを交えた謀略は日本の誘引と国民党の疲弊を企て、日本の南下によってソ満国境の精鋭をドイツに向けモスクワ戦にかろうじて勝利させ、国内では国民党、共産党の合作によって共産軍の温存と増大を謀り、構図として日本軍と共産軍の挟撃構図を企てた西安事件であった。
事件をよく知る中華街の名のある古老に,蒋美玲夫人が西安に乗りこみ蒋介石を連れ戻したのはどうして可能だったのか?との問いに
「張学良は美玲のボーイフレンドだからだ」
ソビエトの指令で死を免れた蒋介石だが張学良の台湾幽閉と生死、生活の保証は、たとえイングランド銀行の秘密文書があったとしても、中華街の古老の話のほうが真実味がある。
日本人には理解しずらい面白い逸話だがこんな事もある
共産党の重鎮である朱徳の甥が来日した。
要件は中曽根総理に会いたいと言う事だった。
「佐藤先生は中曽根さんを知っているはずだから取り持ってくれませんか」
「私は近頃,外出も不自由になって…・」
「それなら,秘書の方を紹介してください」
「よく知らない人だが拓大に居ったときに学長は中曽根さんだったので訪ねてみるか」
一国の総理に対して、いくら重鎮の朱徳の甥でも,しかも,何の用なのか
ともかく議員会館を訪ねてみると、廊下の向こうで
「やぁ 佐藤先生ご無沙汰しております」
旧知の上和田秘書である。
「総理は多忙なので私、上和田がお聞きします」
話は秘書が引き取ったが,内容は、いわゆる゛個人的゛な付き合いをしましょうという事だ。
この甥は普段、台湾で反共新聞を発行している人間で,台湾でも力のある部類でもある。 それが中国共産党の重鎮の使いとは,聞いているほうが混迷してしまうエピソードだが、左様に事象の見方は複雑で入り組んでいるが、『利』の潤いや゛人情を贈る゛という『賄賂』には国共や思想スローガンも存在しない。
ともあれ,苗氏宅訪問が思いがけない歴史深訪になったが、筆者にとっては苗夫人の言葉に震え、それが自らの生涯に忘れ得ぬ一つの絵となって刻まれた。
「苗先生は自分を探す為に一生懸命忙しい人生だったのです」
遠来の無名な若造の目を凝視して諭すように語り掛けた。
病床から起きあがり、ベットに両手を支え、さっきと違う声の力があつた。
次ぎの言葉を待った。刻が長い
「張サン(張学良)はねェ お坊ちゃんですョ」
歴史は探求する事だけにあるものではない。
眺めるものだと考え始めたのもこの時からだ。