まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

あの頃 ホンダのざっくばらんと無礼の狭間 12 5/18再

2019-06-20 13:42:12 | Weblog

令和になってホンダの内情が揺らいでいる。

前任は現場を煽り不備を不安視するなか、強引に販売し、多くを回収した。社員の多くはモチベーションが下がった。この場合、待遇が悪かったら、意識転換の自発は起きただろが、社員を大事にしたホンダイズムの慣用なのか社長の報酬は上がり、福利も厚いホンダは問題意識の喚起すら起きなかった。いや、思っていたが、言いタイことばかりで、言うベキ事もなく、賭した諫言も効が薄く、旧経営陣の提言も活かすことはできなかった。

要は人物の問題と、人を観る目とその座標のようだ。創業者は職人、その後は薫陶を受けた部下が社長に就いた。

ざっくばらんも大企業病になった。組織ではない。人間そのものが弛緩した

つまり、ざっくばらんが無礼になった。礼は「辞譲」、つまり、分けたり、譲ったり、補うことだ。

その「礼」を失い、組織ゴッコのようになり、社長は体裁なのか高学歴。

グローバル企業のホンダの売り上げは海外に偏重している、そのためか多くの製造、経営システムや改正手順を用いている。

その中には FMEAがある。何のことはない「逆賭」(将来起きることを想定して、いま種々の手を打つ)である。

以下は、彼の持ってきてくれた資料の抜粋です

〖製造工程についても故障モードを考えるが(工程FMEA)、この場合、部品をつけなかった、正しい手順でつけなかったというような、その工程で行うべきと決められていることに違反することが故障モードになる。結果として生ずる不良やトラブルは「影響」であって故障モードとは言わない。》

要は評価基準だが、そのほか各々の工程に当てはめた論が展開されている。製造業者としてこのエフ・エム・イー・アイの手法を取り入れて対応しているという。

ならば、経営人事や財務、市場展開に応用できないのかと、普通は考えるが縦割りが蟻塚となった組織では容易でない。

そのようにマインドは弛緩し、組織は更新できない、その原因は統御〖ガバナンス〗の問題であり、「論は整うが、動かない」学び舎エリートの致命的欠陥そのものが、悪弊を滞積させているのではないか。

この見立てはコンサルタントにはできない。なぜなら思考経路は彼らと同じだからだ。

 

 「辞譲の情、礼の端なり」孟子 四端より


礼は譲り合うこと。無礼は譲り合わないこと。

    

    

    犬さんも掃除をするが・・・



ホンダとは本田宗一郎を創業者として興した元の本田技術研究所(本田技研)である。
創業は浜松だが、東京と埼玉の境に多くの施設を有している。
東武東上線の和光、オリンピック道路沿いには本田技術研究所、近くの荒川河川敷にはオートバイのテストコースがあった。テストと言っても周回ではなく直線で、よく工場レーサーといわれたライダーが試乗していた。そのなかには山野を走るモトクロスレーサーやロードレーサーも巣立っている。

もう少し郊外の狭山市には本田の四輪工場があるが、この地域もホンダのお陰で一時は際立った活況があった。職員は近在の農家の次男坊が多く、畑をつぶした自宅の駐車場には必ずと言っていいほどホンダ車が納まっていた。それも家族で二、三台も普通だった。

昔のことだが、友人の親父が機械好きで自転車の後輪に取り付けるエンジン自転車を空き地で走らせていた。ピカピカに磨いた自転車とエンジンがマフラーから白い煙を吐いて振動している。格好いいことこの上ない。

そのうちホンダのカブやドリーム、ト-ハツ(東京発動機)のランペット、山口、目黒、陸王、スズキ、ヤマハと多くのメーカーが興ったが、東京の城北地区のト-ハツとホンダはなぜか愛着が深かった。

そのうち本田が四輪に進出した。S600と名前は忘れたが乗用車だ。エス・ロク、と排気量の多いs800があったが、当時の若者向け情報誌平凡パンチでは若いカップルが爽快に走るS600に憧れを抱いたものだ。だが、乗用車は俗称オケラ、前輪駆動でバランスが良くなかったのか、路面を前足でかくような走り方だった。

潜望鏡といわれた軽自動車もあり、いろいろバリエーションに富んでいたが、オートバイ同様に回転数で馬力を稼ぐためか騒音が厄介だったが、当時はホンダサウンドとしてマフラーの改造技術に愉しんだものだ。モンキーバイクもトランク用として常備した。

つまり、楽しく、゛いじる゛ことができた。
それがいつごろからか、小さなエンジン、大きなスペースと謳われてエンジンスペースが窮屈になり、手も入れられなくなり、かつ工具も特殊、通には扱いにくい車になった。
広さや豪華さを競うようになり、ユ―ザーもホンダの粋がつまっているエンジンには意識がなくなり、スタイルや装備に趣向が向かされた。ただF1レースの華々しい活躍は、さぞエンジンが良いのだろうという宣伝を歓迎した。








よくホンダの社風は上下風通し良く、ざっくばらん、とはいうが、この頃から気がついているのだろうが変質してきた。若手社員のざっくばらんは無礼となり、大きくなれば仕方がないと風通しも悪くなった。それは組織の問題ではなく、部分、部署が似て非なる専門化してテリトリーを形成する、つまり役所にたとえる縦割りになることでもある。

ただ全体を俯瞰してみると部分の集約や統合はシステムを構築しても、目的は曖昧で掲げるものが数値の優劣が人間評価では、有機的な人間の使命感や責任への覚悟などの自己構成は難しいだろう。

ちかごろ同業のトヨタや飲料のサントリーなど原点回帰なのか創業家の推戴が多くなっている。よくトヨタはカンバン方式だというが、もとは数値基準の販売と製造という部分を峻別したために互いに調和はあっても、強いた要求は直接製造部門に向けない棲み分けを考えた峻別があった。

妙な例えだが、士農工商のころに商人が農を支配したり、作業も分からないのに要求をしたら、今だったら農薬を使い生産を増やすことのみ知恵を使うだろう。逆に手前勝手に良いものだと市場要求も考えず集荷されたら売れるものも売れないだろう。

工場には工場になくてはならない習慣と掟がある。それは外部の営業とは馴染まない狭い範囲の問題である。これも創業家の活躍した時世のごく当然の習慣であり、社会の倣いだった、勤勉、正直、礼儀、忍耐と、あの5Sといわれた、整理、整頓、掃除、清潔など、工場でなくても応用できる社会人としての倣いだ。

これは強制という向きもあろうが、それは今の感覚だ。だから上下社員は調和もなく、礼は衰え会議すら罵詈雑言をざっくばらんな気風と忍従し、人の評価は数値しか判別できなくなり、形骸化した会議や形式が幅を利かせ,ついには外部の相談者、判定者たるコンサルタントにかわいい社員の自縛を請うような環境を最良として安易に受け入れてしまう。












とくに本田は社員を叱ったが、かわいがった。その待遇は社員が一番よく知っている。ただ、これに甘んじていると官吏同様に食い扶持に堕して、あの日夜を問わず語り、油まみれになって成果を共に喜んだその遺産の喰いつぶしにしかならない。子供を叱れぬ親が多いというが、上司は感情でも叱咤すべきだ。抗論すれば生きてきた人生を懸けて応ずればいい。つまり本田はエンジンの完全燃焼を追いかけたと同時に、社員の精いっぱいの燃焼を愉しんだのだ。スパナが飛ぶのも当たり前だった。

目標は完全燃焼とスムーズな伝動と速い駆動だ。
どうだろう、組織や個人の在り方に似ていないだろうか。
エンジンの細部を知り、問題があれば箇所は瞬時に分かり、可能性と限界まで熟知している。かつ金もないところで工夫をした。だから安全で売れる車、つまり失敗しないようにと、慎重さがあった。
これこそ、エンジン(人間力)だから、叱られた社員は会社を繁栄させたのだ。

べつに狭いスペースにエンジンをと謳っても、社の運動力である社員を囲いに詰め込んでは意味がない。
とくに、流行りのムーブメントとなっているコンプライアンスというものに人材を縛り付けることは、食い扶持の職業が人生だと軟弱な曲解をしている現代人にとって、仮設の限界を立てられた方が過ごし易いのだろうが、人生は食い扶持という納得を本田はどう考えるだろう。

たしかに、官域にも各種審議会、世上騒がす検察にも検察審議会があるが、言うことを疑い、聴かなくなった煩わしい国民への隠れ屏風のようなものだが、経営者が外部にゆだねる遵守の行方はどうなるのだろうか、他山の石はゴロゴロしていることをみれば分かる。













ここに記すのは見向きもされないデーター収集である、いや採ってみたらどうかということだ。

一つは、コンプライアンスという種々煩雑な遵守がどれだけ人間の工夫と躍動の心を閉ざし、GDPがどれだけ影響されたか、という調査だ。
ついでに、世の三百代言であるコンサルタントの収益変化も必要だろう。
それと、経営者のモチベーションと社員の帰属意識を関連付けたら面白いデーターが出るはずだ。

もう一つは、道路にまつわる規制で駐車違反との関係だ。多くのマイカーは都内の駐車監視と取り締まりに勤しむあの二人連れの取り締まり員と、交番を留守にして取り締まりに励む警察官の姿が、近ごろとみに多くなっていることで、おおくの保有者が車を忌避している。なにも交通安全にさお差すものではないが、飽和過剰なのか、環境整備が追い付かないのかは理論の内として、どうも元気がなくなっている。そのためかサンデードライバーは連休には渋滞や事故が多発する。ともあれ燃料の高騰や道路料金のこともあるが、運転をしたくても、あきらめたドライバーが多くなった。このデータ―もない。

偏屈な問題意識だが、あの本田の親父なら考えたに違いない。
なにしろ、北青山のビルの意匠が流行りのガラス張りに苦言を述べ、地震で割れたら通行人が怪我すると変更させたくらい、心根の優しい人物である。
ましてや、それでホンダによって家族を養い、言いたいことを上司に反抗する勇気があるなら、一度はつなぎを着て親父のようにヒューマンオートメーションを体験したらどうだろうか。それは忍耐力と食い扶持の意味を知る手立てにもなる。

いまは本田の親父のような人間は採用しないし、見る目もないし、活かせない。
投資や営業の乗数効果は、ときに虚偽で装うこともある。とくに専門部署への遠慮か深い追求もせず、ましてサラリーマンと揶揄される上司は官吏のように形式体裁を以て了とする傾向が多くなった。これを大企業病というが、単なる人間の堕落だ。












ところが、本田は乗数効果や試験用紙の隙間を埋めて数値で人間を選別するような野暮な考えはさらさらなかった。人を好きで信じていてから始終笑っていた、それも破顔だ。
敢えて記すが、本田宗一郎は人間の由縁を知っていた。足らないところは藤沢氏に任せて口を挟まなかった。いつもテンション高く弱き己を叱咤していた。社員がそれを許して呉れたいたことも知っていた。技能者である同僚を追いこみ、潜在する能力を引き出し、その成果を抱き合って喜んだ。そして生まれた子供のような車体をレース場に送りだし、勝てば、よく頑張ったと頬ずりもした。

つまり本田は背広を着たものが鉛筆をなめて狡知を駆使した乗数の数値効果より、人間を活かし、金を活かし、協働することの喜びに無情の価値を認め、人の能力を高めることての超数的効果を描いたのだ。それゆえホンダは皮肉にも乗数的な成長を果たしたのである。

それを、また外部の要因を集めて掛け算、足し算をして数値にあてはめ、論理に馴染まないと本田の心根や人間育成の効果を理解不能や旧い事例を理由にして忌避する、そんな物分かりの悪い作業に勤しんでも事の本質は解らない。

習うべきは組織論やシステムや、魂のない技術ではない。 倣うべきは、無垢で弱き人間を人格者まで高めた本田の魂の由縁であろう。

なぜなら、人格者とは己を探究し、心の許容量を高め、しかも高邁にならず人に譲る「礼」を涵養し、かつ、無機質の金属の塊であるエンジン車体に対して、まるで人間の姿に模したように可愛がり、学び、足りなさを悟るような朽ちることない深遠な情緒を自得していた。

それは日本人の誰もが共感する情緒であり、ホンダが生きつつ熱狂的なユーザーの惜しい気持ちが残映として維持されている所以でもあろう。

覚醒再興の道はある。しかし今のままでは理解の淵にも届かないだろう。

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