山内たつお 作
近ごろ鬱(うつ)病が流行っていると聞く。加えて真正もあるが虚偽紛いの鬱もあるという。
コンプライアンスで忙しいサラリーマンはその自縛が抜け出す方法として、患いを彼らなりに有効に活用?して長期有給休暇を頂戴しているという。なかには官吏の無作為に援けられる生活保護同様に、医師の安易な問診で診断書を作成し、しかも人権鬱といわれるアツモノに触ることができないサラリーマン上司の看過がそれを助長させていることもあるという。
どこの世界でもあるが、内部障害は客観的観察しかできない素人では解らない。だが、一部の不埒な人間によって企てられる生活保護扶助詐欺や疑似鬱病の増加風潮によって、真正なものまでナマケモノ扱いにする風潮もいただけない。
ただ、戦後の200万世帯超えの生活保護の受給も高度成長経済とともに減少し、疲弊から豊かさへの欲求とグランドの拡張は、いっとき税金頼みといわれ、日本人の隠すべき感情だった。
だが、「貰えるよ」という官吏や福祉を食い扶持にする議員の甘言に「それなら・・」と、日本人には馴染みのない慣性に陥った人もいた。人柄にもよるのだろう、老齢の保護受給者のご夫婦は、アパートの共用廊下の掃除などは世代の習慣化された慣行としてすばらしいという。かえって若年扶助や独り者の生活態度は乱雑で協調性も乏しい傾向という。くわえ、最近では独居高齢者の犯罪が増え、生活保護と保護観察が並行して行われることも多くなった。
昔もあったのだろうが「鬱病」という病名もいまほど聞くことは少なかった。分類、細分化される病名だが、鬱病も「鬱系」などとより分類化されるに違いない。○○症とか○○障害という考案病名だ。
1989 6 北京
以前、子供の自殺対策で絵本による読み聞かせを中学校で行ったことがあった。この種の催しは教育委員会や教師には馴染みやすく導入は容易だった。それは中学生の鬱にかかる率が近年増大し、自殺も多くなったために、゛独りではないよ゛という内容での読み聞かせと感想発表だった。
教科の暗記、記憶試しの試験にある安直な教え方に慣れ、それが小中という思春期の年齢帯に対してオートメーションのように行う教育労働者にとっては、オーラルヒストリーあるいはエスノぺタゴジーといわれる土着的な教育方法に対応するすべもなく、彼らの部分教科マニュアルに沿った労働者?には、知ることのない世界でもあった。
加え、モンスターペアレントといわれる父兄も出現した。
あのGHQの教育使節団の勧奨によって作られたPTAも、一年後の検証ではBTA(村ボスと先生の会)、つまり、役員が特殊身分のステータス(御上御用)のような組織構成になっていたという。町会長、議員、官吏退職者などがPTA会長になり地域の顔役にもなっていたりと、米国のPTAとは異質な組織になっていたと驚愕した報告書が寄せられている。
男が忙しくなると女のデビューとなる。公園デビュー、PTAデビュー、町内会デヒューと進み、その段階で色々な付き合いも生じ、ボランティアを通じて作り上げた人との関係や情報の家庭生活へのフェードバックなりすればいいのだが、法埒に近い自由な世界への挑戦や同性との競争意識として昂進され、家庭や子供から乖離した目的のためにエネルギーを使うという妙な傾向が増えてきた。
教育労働者そのものも、若年で、親に注意されたり、上司に怒られたことのない世代ゆえに心の煩い、つまり許容量のないために煩わしい問題として「患い」に逃避する傾向が出てきた。それは診断書という免許証?を獲得しての生活保全である。一種の登校拒否のようなもので、筆者に相談が舞い込む幾人かは暇を持て余してパチンコ、サラ金にはまって窮地に落ち込み、真正の鬱病かかったものもいる。もちろん教頭や校長に対するあてどころのない突きあげ権利?を、平等と民主の自由権利と、それを余すところなく享受しているような職域なのか、管理者の早期退職、校長になりたくない病も多いようだ。
整理整頓ではじまる徳育の習慣
これを適応障害というらしい。 それも彼らの好きな病名分類によるものだが、ふつうは大人になり切れていないための、こらえ性のない自分知らず、つまり自己欺瞞というもので、己の覚醒や可能性の発見という至極当然な成長過程をスキップせざるを得ない受験意識から脱皮していない現象だろう。普通はそれを教育の問題意識として是正なり探究するものだが、役人気質に堕した教員は食い扶持環境の色を変えることなどできるわけもない。
それは学校そのものが実態社会に適応していないということだろう。それを彼らの分別では、゛限界゛を冠として集落などと指すが、さしずめ限界に達した官制学校村といえる。
あの原子力村は銅臭(金の臭い)紛々としているが、教員特別安定職についても国家は支払い限界に達している。貰えるものは貰おう、これでは生保の詐取と同じことだ。
以前ほどではないが、生徒には研修といって嘘をつき、明け透けな待遇改善と権利保護をかくすために平和スローガンを看板に政治闘争を仕掛け、その食い扶持安定権利でさえ棄ててまで、嫌気のさす環境に解決策もなく子供を置き去りにして逃避する教師の心根は、現在の若者気質にみえる社会や国に代表されるパブリックに対する適応障害であり道徳劣化への教化でもあったのだろう。
故事に「上下交々利に交わる」とあるが、総じて下は上を見て倣うのである。
子供は親に倣い,生徒は教員に倣い、有権者は政治家に倣い、国民は国家の慶事、形式行事には皇族の作法仕草にその範をみて倣う。
忠恕の下座観 被災地にて
以前、皇后陛下の若かりし頃にミッチーブームがあった。民間から嫁ぐ若き妃殿下を歓迎し、足元から帽子までが真似好きな女性によって流行化した。なによりも慣習を忌避するかのように皇太子殿下を庶民の家族のように手もとで育てた。それも多くの国民には歓迎された。しかも多くの国民が歓迎した自由と幸せ追求の方法は「開かれた皇室」として喧伝された。それは皇太子殿下の元服烏帽子の頃も続いていた。
ただ、あえて隠されていたわけでもなく、天皇家の秘義ともみえる祭祷も何百年続いていた当然な祭事として、ことさら、その神官たる天皇の家事、作法を知らせる必要もなかった。くわえ、他の親族にも知らせることのない一子相伝の秘義を司る直系男子の育て方は、国民と称されるようになった明治のみならず、それ以前の代々の必然から生じた慣習によって次代に伝えられてきた。
一度、好意であっても意図的に開かれたものは、゛もっと本意がある゛、あるいは、゛もっと深いところに何かがあるに違いない゛、と行儀の悪い観察や商業マスコミが覗き取材をすることは、そう時を要することではなかった。
国民の誰が問題意識を以て子育ての転換を忠告したのか。たれがそこまで弁当の中身や遊具のメーカーまで知らせてくれといったのか。
いまほど国民はそんなに行儀は悪くなかった。あくまで偏執的自由主義者や流行り感度に敏感な女性に向けて垂れ流された。そして旧弊打破に向けた国民の賛意として、より煽られた。しかし皇室であれ国民であれ、決して普遍性の土台には乗らないであろう個別の生活内情は、他と異なって当然なことであり、秘匿する理由もそれぞれある。
これを同性の解放意識や欧米型への利便向上またに観点なり目的を増幅解釈すると、゛そっとしておくこと゛まで内なる秘奥部を公開し「普遍」の土俵に上げることになってしまう。
国民、とくに女性の流れを応援団にすることは、奥を守護する方々の異なる反応を惹起させることになった。「我が家の家風はこの様なものです」「これは、この様に変えます」嫁さんが外部に公言したら祖父母は難渋する。祖父母も変わらないのではない。変えてきたのだ。明治になって和風は洋風となり軍服まで着た。女性の正装は洋服となった。仏教とは離脱した。夫婦で旅行をするようになった。居住は洋間を作りダイニングで食事をするようになった。
変わらないことは、終始「公」であり、「私」を敢えて知らせることはなかった。家の約束事である先祖への祷りは疎かにしなかった。国父,国母の威を守護するためにいかなる宗教組織、思想形態に属さず、何れとも臣下,隷下の黙契さえ結ばなかった。
皇太子妃殿下の転換意志は普通の親子と、将来の天皇である皇太子殿下の私的生活の公開だった。このような転換は多くの機会を活かして、時間を労することだった。
国民は口をはさんでよい範囲が広がったことを知った。マスコミは書いてもよい範囲と追求することができると転換を歓迎した。政治家も軽口が多くなった。
それにつれ、妃殿下のおもいとは逆に、特別家庭のプライベートとして耳目を騒がせた。落ち着いて妃探しもできない異様な状況が出現した。まさに英国王朝のようだった。
そして、天皇陛下(昭和)とは「趣」も異なり、外出も多くなり映像に晒されることで衣装も多様になり、一部の軽薄な女性やマスコミはそれを追った。しかし多くの国民は普段その存在に気にも留めなかった。それは皇太子殿下が即位された数年後のインタビューで、「皇室と国民との関係は普段はそのような関係でよろしい。何かのときに想い起してくれる関係がよい・・」との意あるお言葉をのべている姿だった。それは男子の姿だった。
≪「趣」とは、立場にある意味を誇りとして国民との「間」の取り方を慎重に行う姿。≫
秋山真之
この頃、皇太子殿下は明治以降のエリート通過点の倣いとなった西欧歴訪とロンドン留学のさなかだった。皇太子は実直で生真面目な態度で多くの友人の信頼を得た。それはつねに自己客観視を求められる立場が、異文化、多民族において人格・ステータスとして認知されたことでもあった。ことろで世俗の庶民からみれば、ストイックにも映る生真面目さは、どのように養われたものなのだろうか。一つだけ漏れ伝わるエピソードがある。
幼年期の皇太子を諫言する浜尾侍従による対応姿勢の厳しさである。それは、つねに人の目に触れる皇室人としての「姿勢」について厳しく、それは叱責するように意を決してお伝えしている。車でも椅子でも深々と背を沈め、ときに疲れたら姿勢が乱れたり、横になったりすることに自制を促されることは官制の教育にはない。つまり国民の今の常識として普遍的ではないということだ。しかし未だ国民の多くは皇室にそれを期待し、それを見たいのだ。異なることの価値と容易に適うことへの畏怖だ。
「なんだ、私たちと一緒じゃない・・・」では、浜尾氏は必要がなかった。
求められるわけではないが、それを自然のものとしてみている。
なぜ、浜尾氏をとりあげ、深甚の感謝を奉げたいのか。
それは家庭内では出来ないからだ。形はできても意を決して臨機に皇太子を叱責するようなことがてきる人物がいなければ、習うことはできても学ぶことはできないからだ。烏帽子親(親代わりの他人)だからできることであり、その浜尾氏という人物選任が帝王学の第一義だと認知した人物が皇室の周囲におられたのだろう。その危機感は軽薄な流れから外すことであり、一過性の易き生活に染まらないようにする心のガード作りだった。
烏帽子親の効用(家族以外の賢者に我が子を委ねる)
絵にかいたようなアットホームな家庭、いや、Familyでも子供の情緒性格は個々に組成される。また率先自習によって涵養されるが、思春期の成長に伴う、戸惑い、疑問、性の目覚めは両親では解決が難しくなってくる。人の人格の問題ではなく、あるいは教育技術のことでもない、思春期(元服頃)は親ではなく、社会の親に委ねることが必要となってくる。なにも人格識見とはいうが、官制学歴、経歴、地位,血筋ではない。真剣に向かい合える剛毅で無私な人物の普遍な人格識見に委ねるのだ、また営々としてそれを行ってきた。
あの明治天皇を相撲で投げ飛ばし、終生幕臣として宮内に仕え、宮廷改革を任された山岡鉄舟のような人物だ。
故か、その心情は多くの和歌に詠まれ、明治天皇は皇太后(母)をことのほか大切にした。それに国民は善なる習慣として倣った。
山岡鉄舟
現代の人々は家や家族ではなく、家庭=familyとしてそれに倣った。多くの貧者が住宅ローンの宣伝にのって家を購入し核家族化した。
これで三世代の祖父母と両親の縁は薄くなった、否、見習うものがなくなった。
親に叱られれば爺さんが解りやすく説明してくれた。腹が減ったらファミレスで駄弁っている母に代って婆さんおにぎりを作ってくれた。それにつれて核になった家族のなかでも離反がおこった。夫婦が遊びとなれば子供は鍵っ子だった。家庭内別居、家庭暴力、ファミリーは描くもので行うものではなかった。狩猟移動ならともかく、あえて人の関係まで個別化する必要はなかった。食べるすべ(職場)と生活(教育、情緒涵養)は分別するべきもので、あえて必要とすべきものと、介入すべきことでもないことも峻別すべきことだった。
介入したのは遺産の分配と個々の責任分担だった。そして弁護士が忙しくなり、家は核のように分裂した。
五時退社のサラリーマンが勤務を忘れたいのか、家族では話さないというが、四六時中懐や近隣を考えている親方に家も現場もない。どちらを憧れても、非難しても始まるものではない。だだ、あくまで私的な家族のことだ。
だからといって干渉し合うことは悪いことではない。プライベートの権利域が非常識に拡大しているのも論外だか、互いの関係の間合いを観照し、思索し合うことは至極まっとうな人間の関係だろう。力関係で言い辛い、言うと他に影響が出る、それが調和と連帯を考えるものの心の忖度ではあるが、こと「公位」にあるものの公威が、「私権」となると取り返しのつなかいような情緒の習慣性を毀損してしまう危惧がある。
その頃、近所の質屋のオジサンは頭を丸めた。聴くと戦友は終戦時に皇居前で皇室の弥栄(いやさか)を祈り割腹したと・・・。今回、頭を丸めた理由は「徐々に溶けて終わってしまう・・」というオヤジさんなりの危惧だった。いつも客に偽の質草をつかまされていたオヤジだか、この手の話は朝まで続くことが多かった。「そのうち見えてくる・・・」、いつもそれがオジサンの結論だった。
筆者の私事だが、美智子皇后の義母にあたる良子皇太后の御用掛だった卜部亮吾さんとの世俗での酔譚にこんな応答があった。
「皇太后はお元気ですか・・」『・・・』間をおいて
『お変わりはありませんか?と尋ねてください(笑)・・』(元気)と(変化)の応答だった
『今度は葉山(御用邸)です』
「掛の皆さまに暑中見舞いのビールでも・・」
『○○ビールがいいですね、いつでもご連絡ください』(飲んでるところが○○ビヤホ―ル)
・・・・・・
「ところで、お散歩にお出ましのときには手押し俥ですか・・」
『そうゆう時もあります』
「もし、美智子皇后が皇太后を介助され、俥を押すお姿が国民にお知らせしたら、扶助支出も少なくなるような気がします。なぜなら、女性は皇后の衣装や生活スタイルを模倣し、浩宮さんの遊具や衣類のブランドや購買店まで興味をもっています。プライベートの生活を敢えて国民に知らせ、教育環境まで変化させた美智子皇后が母である皇太后を介護する姿を国民が知れば、善き道徳習慣として、たとえ女子の流行り模倣でも社会効果があり、他人による施設介護が減るのではないかと考えまが・・・」
『それは妙案です・・・、そう願う人々がいるこが大切なことですね。嫁さんが義母の俥を押し介護する、それが伝統習慣でしたね』
「たしかに生後は両親から離れ、乳母や侍従によって育てられ、官制の学校のほかに有識者を侍講として御教育なされ、私を忍んで「公」の意義を自得する御教育から、皇后の家庭教育への変化はすぐにその結果は現れてはきませんが、その誰でも現代の価値感を、良しと考えている人々からは歓迎され、また制約もない私生活を歓迎する人々からすれば、当然と考えられます。でも私は懸念を持っています」
『・・・・・』
「形式は人々の変化を推考して考えられ、たどり着いた必然の姿だと思います。易きに流れがちな風潮の歓迎は気を付けてみなければならないと思います。時々の変化に形式を合わせることは「長(おさ)」の威を毀損するのは家庭とて同じことです。それでなくても人々の連帯は微かになり、政治や経済、宗教の動向に左右され、しまいに取り付く島さえ、゛俺たちと一緒じゃないか゛と、その存在さえ軽んずるようになりはしないかという憂慮です」
『形式を守護するお姿が大切です。それは国民の普段の生活の外にあるものでいいのです。その時々の変化する価値意識に理解を求めることも必要とする意見もありますが、役割の立場は変わることはありませんね…』
その後、小会(郷学研修会)に参加され貴重な提言をいただき、随時、激励の書簡をいただいた。
東宮の新しい家庭教育のもと、皇太子殿下は頑なに自身が好む女性を求め結婚した。弟君もそれに倣った。それは愛が溢れて幸せなひと時だった。候補となる女性は国民の高根の花、三高だった。美人で家柄もよく、学歴もあり、父も外交官、申し分のない候補だった。まさに戦後の日本人が模倣したアメリカンファミリーの成功と幸せ感を満たしてくれるものだった。
次代の天皇である皇大子殿下はわが子を抱かず、背に後ろ向きで背負って流行りの家族を表現した。そして将来の国父は妃殿下の名前を随所で言の葉にのせてマスコミに語った。
それはスープの冷めない距離の分化ファミリーで、「家」の「柄」ではなかった。国民はその変化をいぶかしげに観察したが、まだ国父ではなかった。
なかには、「私と同じゃない」と歓迎する女性も増えたが、この頃から威勢のいい自治体の首長がオリンピック開催セールスに皇太子殿下を了解もなく公言したり、馴染まないと断られれば、「○○ごときが!」と軽口を叩いたが、与党政治家も同様な軽口をたたくようになった。それもその頃からだろう。つまり、分化ファミリーはともかく家柄や家風の変質が、権力から家の屋台骨さえ軽んじられる状況になったようだ。
若かりし頃の母がそうであったように、皇太子殿下の結婚観も明快だった。結婚前のインビューでは「ブランド物に価値を持つような人ではなく自身と価値観を共にするような人を選びたい」と。そして熟慮、逡巡したが意のままに押し通した。
忍耐強く豪気な人柄は時代の天皇として期待された。なによりも世俗の人々には及ばないような堅実さと正直さがエピソードの随所に表れた。
『高速道路で車が混んでいれば、降りて迂回すれば、というのが弟さんで、浩さんは姿勢を崩さず乗っていた。お立場を知っていた。あるとき弟君が呑んでいるところに「少し立ち寄っていきたいが15分宜しいですか」と仰せられ、ぴったり時間内で車に戻り御所の車寄せでは正対して会釈し運転警護の私たちを労っていただいた。本当に尊敬という言葉を実感したのはその時からだった』若い皇宮警備の警察官の述懐だ。
いま妃殿下は適応障害という病にかかっている。心の病だと国民は聴いている。適応障害とは生活環境への煩いなのか、時と場によって感情に起伏があるという。実直な皇大子殿下は責任感が人一倍ある、それゆえに次代に懸ける使命感は尋常ではない。
そして、その生活習慣は当時の宮中の奥の評を押して作り上げた母のスタイルである。
ただ、多くの国民が倣いとしてきた大所帯のファミリーにある親子三代同居ではなく、それだけは宮中のしきたりに随った別邸住まいである。
高野槇
今のような成文法にはないが、昔は「七去三従」という固陋な掟と倣いがあった。
「七去」
義理の父、母(舅、姑)に従わない。
無子、子供を産めない。
多言、無駄話しをする。
窃盗、盗難癖がある。
淫乱、貞操観念がない。
嫉妬、疑り深い。
悪疾、悪い病気を持っている。
「三従」は、
生家では父に従う。
嫁にいっては夫に従う。
老いては子に従う
筆者の観るところだが・・・
本来は「随う」であろうが、「従う」は盲従すべきともなり、家を護る尊厳や責任することに共通観念がない。その意では睦み合い、互いに扶助する夫婦の情が育たない。
また、成立した必然は、そのような状況が歴史上顕著になった時期があったか、それとも男子も常にそうだったように、女子にも個別夫婦のこだわりから「家」としての継承と、ときに陥る私情での感情支配による教育、生計への影響を考えたものだったのではないだろうか。つまり個別生活の「家庭」と、社会の中の「家」としての役割設定とも思える。くわえ、血の継承もそうだが、子は盲目に親に倣い順化することへの憂慮だ。つまり易き流れに阿る危惧だろう。
ちなみに、男子への自制と使命については、多くの戒律や自裁など、あるいは名誉と恥の峻別の厳しさを自得させ、武士なら切腹という厳しい責任が課せられた。それは世の中から去ることでもある。死も他人の手に煩わせることではないのである。
とくに「公」に立脚する家の柄は、いまでいう、゛人目を気にする゛という易いものではなく、権力や威による欲望の充足の果てに、その有効なる権力や、威力が毀損されることを「人間の尊厳を毀損」することになると、より高い道徳性を生活感として自律した。
それは矩や法による受動的なものではなく、自律,自裁という自己の習得した正邪を座標として自己決済を求めたものである。それは今どきの常にストレスに囲まれ、忍耐力や許容量のない人間の煩いとなることではなく、実直で悠々なる精神を涵養するためにバックボーンとなる家庭環境と、その長(おさ)としての処し方、くわえて親族の助力協動が大切なものだった。
とくに小事に翻弄され、大事に赴くことができない男子が多い昨今、「公」よりの扶持を生計の糧としている家庭においては、預かるものの姿によって、多くの人々の尊厳が毀損されることを考慮すべきだろう。
患いなら人の優しさは求められても、煩いはその任に応じた修得がある。
それは机上にはなく、世間の甘言にもない。また諫言を受けるのは男子の許容だが、女子の忠恕心は先人に倣いを学びとするしかすべはない。
それは煩いを解くことこそ、万民の幸せであり、感謝の交感なのだ・・