ベンガルに知らせたい日本との交流100年
ベンガルの虎と呼ばれる青年の声は、日本人を揺り動かす。
彼は「もっと歴史を知るべきだ!」と喝破する。
世界は人間の「縁」を切る、あるいは希薄にすると同時に、ヒトを許し譲り、協調して目標を立て、運動体として行動することを無意味なものとして考えるように仕向けられているようだ。
為すべきことより、やりたいこと。云うべきことより、云いたいこと、そのような考えの趣も進捗を早めている要因である。それは恣意的にもみえる麗句文言に外面の自己を飾りつつ錯覚した安住、つまり個性が大事といいながら無責任な大衆にその位置を求めるような、゛衆を恃む゛意識が、近来は過剰になっている。
それは「マス」というコミニュケーションに安易に乗じるような流浪、浮遊と呼ぶような状態でもある。
もし、その社会現象を部分考察ではなく、人括りにして過去と未来にみる現在の歴史の現象として見た場合、ただ自然にそのようになったのか、あるいは人類の発生からの経過でエントロピーの法則を倣いとして観る、一過性の一現象としてその憂いに対するカウンターを案ずれば解決するものなのか・・・
それとも、その現象を人間の自然な欲望、劣化として仮説を考案し、スケジュールを立て、この場合その進捗を促す劇薬である恣意的な自由、民主、平等、など、欲望の前には空想のような大義を、流行ファッショの如く駆使できる狡知を有する勢力があるのだろうか・・・
それとて、゛何かおかしい゛からの推考だが、敷島の情緒から生ずる直感は、我国に棲む庶世の賢人達の意識を喚起させるには充分すぎる考題でもある。
それを促すものは、固有に持続する我国の歴史に登場する先覚者、あるいは善悪を論じられる人間達の思考、行動を範として、あるいは則として染み付いた賢人に潜在する洞察力であろう。
昨今、これに気が付く人物を多く見かけるようになった。まさに甦りというべきものだろう。その多くは眼前の事象を独立した意志で考察し、かつ善悪、正邪、あるいは歴史の定説となってしまったものまで、新たに更新した座標軸を以って有為なるなる意思を柔軟に観察している。
それは、唯一の勉強と称されてきた官制学校歴マニュアルで読み解けなかった、真の自由、人間の尊厳の在り様などを、時空を超越した俯瞰視や大局観で考えることであり、画餅に帰すかのような美辞麗句に惑わされた意識からの脱却でもある。
それは、゛おかしい゛゛気が付く゛ことから、突破力ある行動の完結という、固有な、゛生きざま゛の明確化を促すことにもなるだろう。自己を知る、それは異なる他の理解への端緒であり、許容の拡大でもある。
現世利益のみに意を置くものは、そのような人々を往々にして異端とするだろう。しかし時を得て、その行動が「虚利」から「真の実利」に転換するとき、歴史は動転し新たなスパイラルを描き、多面的、根本的、将来的な方向を自ずから示すはずだ。
ことさら扇動するつもりはない。だが、゛何かおかしい゛と気が付いたとき、今までの考察の方法や切り口を変え、縁を得て人々が集い、それが大海の小石であろうと、はたまたゴマメの歯軋りであろうと、その異なるものは自己にとっても、゛生きざま゛の発露であり、証であろうと考えるからだ。
以下はその端緒として、歴史の部分スポットを例に習学の糧としたい。
【読者からの提案を転載いたします】
《郷 学 秋季研修会の御案内》
共催 蜆の会 日本・ベンガル協会
《標題》 ベンガルがみた 東京裁判から六十年
人は争い離反し、援け集合する、其の繰り返しは東洋の循環を宗とする情緒のなかで、その恩讐は時を超え、薫譲された縁は善悪の則を換えて甦ることがある。
それは、ときとして異民族の客観性と冷静な歴史俯瞰によって新しい世界を提示してくれることでもある。ことさら、歴史を改めて更新を求めたり、それを証として再び競い、争う愚考は、その再複した縁を亡羊の嘆きに投棄することでもあろう。
それゆえ、この度のベンガルの賢者シャカー氏と東條由布子氏が語る、アジアの口述伝承というべき集積された言は、アジア連帯の意志を添えて遍く思索観照されるべきものである。
郷学人
記
講 話 日本ベンガル協会理事
プロビュール・ビカシュ・シャカー
客員講話 東條由布子
日 時 9 月21 日 午後1:00~
参加費 3,000円 内茶菓500 残余はベンガルの子供たちへ
会 場 GREEN DOOR 定員35名
東武東上線上板橋南口下車 ドトールわき50m左
出欠は世話人とりまとめ、もしくは返信メールにてお願いいたします
連絡先 shimura-ya@ag.wakwak.com (銀座郷学) 志村卓哉