A Challenge To Fate

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【JazzTokyo#248更新】柳川芳命 – 藤田亮 / 無頼派二重奏〜堕落論を打破する新・無頼派主義者のパンドラの匣

2018年12月02日 13時20分13秒 | 素晴らしき変態音楽


音楽ウェブサイト『JazzTokyo - Jazz and Far Beyond』最新号が公開された。カバーストーリーはシュリッペンバッハ・トリオ。剛田武は『柳川芳命 – 藤田亮 / 無頼派二重奏』のアルバム・レビューを執筆した。

●柳川芳命 – 藤田亮 / 無頼派二重奏

#1574『柳川芳命 – 藤田亮 / 無頼派二重奏』

堕落論を打破する新・無頼派主義者のパンドラの匣
名古屋の異端サックス奏者柳川芳命と大阪のパンク・ドラマー藤田亮。何にも頼らず自分のスタイルを創り上げる無頼派同士の初のデュオ・アルバムには、即興演奏の彼方を目指すエネルギーが溢れている。

柳川芳命+青木智幸+藤田亮 @ムジカジャポニカ (excerption)


無頼庵
ジョーンズ、フェリー
メイ、ウィルソン

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文学と音楽のふるさと (haragaki)
2018-12-03 21:19:06
簡潔で力強く、音楽への愛に満ちたレヴューに、いつも唸らされております。
が、今回ひとつだけ気にかかる箇所があり、僭越ながら私見を述べさせていただくことをお許しください。

「坂口の『堕落論』や『デカダン文学論』、太宰の『斜陽』、『人間失格』といった作品名から想像できる自堕落・退廃的なイメージ」とありますが、太宰はともかく、安吾の諸作品に「自堕落・退廃的なイメージ」を読み取るのはやや皮相的に思われます。たとえば柄谷行人氏は、安吾のいう<堕落>についてこのように考察しています。

「たとえばハイデッガーなども「堕落」Verfall ということ――日本語訳では「頽落」―― をいっています。しかしハイデッガーの場合は、安吾と逆ですね。人間の本来的なあり方というのは死にかかわる存在である。ところが、日常においては絶えずそこから逃亡している。絶えずそこから逃げている。それが「堕落」である、ということになっています。むしろそれは理解されやすい、ありふれた言い方でして、安吾はハイデッガーとは逆に、本来的なあり方に向かうことを「堕落」と呼んでいるのです。したがって『堕落論』というのは、ものすごく倫理的な本です。見かけの上では、つまり道徳的に見れば、それは堕落に見えるだろう。しかし、それは倫理=反倫理(モラル=インモラル)という意味でそうなのではありません。いわば、アモラル(非倫理)なのですね。それはおそらくインモラルに見えるでしょうが、やむをえない。そういう意味で安吾は「堕落」という言葉を発明したのだと思います」(「安吾その可能性の中心」)

つまり、安吾の『堕落論』そのものが、自堕落・退廃的といったインモラルなイメージしか与えられてこなかった<堕落>という言葉に、「アモラル(非倫理)」という新しい意味を付与し、ありきたりの自堕落や退廃を突き破る試みであり、ならば、「堕落論を打破する」というタイトルのフレーズは、元の「自堕落・退廃的」に戻ってしまうことになり、語義矛盾ではないかと思うのです。
また、柄谷氏は別の場所で、

「戦後の文学では、太宰治を先に読み、そのあとに坂口安吾を読んだと思います。この二人と織田作之助がかつて「無頼派」と呼ばれていたのですが、僕にとって、真に無頼派の名にふさわしいのは安吾ですね」(<すべては坂口安吾から学んだ>)
https://dokushojin.com/article.html?i=2253

とも述べており、そもそも、細部を読み込んでいけばまったく資質の違う太宰・織田と安吾を<無頼派>のレッテルでひと括りにしてしまうことは、灰野敬二とメルツバウと非常階段という音のヴェクトルが明確に異なる三者を<ジャパノイズ>という粗雑なキャッチコピーでひと括りにする海外ジャーナリズムに似たレトリックであり、アルバムに刻まれた音の具体的なレヴューの素晴らしさに較べると、やや安易なレフェランスではないかという印象が否めないのです。

・・生意気な言辞を連ねてしまいましたが、悪意はまったくなく(まさか!)、剛田氏のディスクレヴューにはいつも啓発されており、リスナーとしての自分を鍛えるための指針にしております。ただ、私が今回どうしてもこの件に拘らずにいられなかったのは、灰野さんのこんな発言が脳裏にこびりついていたからなのです。

「ヘーゲルの書いているのは僕にとっては『即興をやれ』ってことでしかないから。今をいかに生きるかしかないじゃない」(ele-king vol.2「灰野敬二伝」)

ハイデッガー的「頽落」に安吾的<堕落>を対置させることと、ヘーゲル論理学を<即興をやれ>と読み換えること。ドイツ哲学の巨星に対するこの二つのアプローチは、どこか似通っているように思います。柄谷氏のいう<倫理>と、灰野さんのいう<覚悟>がどこか似通っているように。
そして、私のそんな妄想を裏付けるかのように、井土紀州氏の傑作『LEFT ALONE』において、柄谷氏の<言葉>と灰野さんの<音>が奇蹟的な邂逅を果たしています。

https://twitter.com/skoda130rs/status/978292061303595008

この事実により、安井・青山・井土という真性左翼トリオの全ての作品に灰野さんの音像が刻まれたことになり、それだけでも眩暈がしますが、いつかこの<知の巨人>と<音の巨人>が、本当に言葉を交わす瞬間が訪れたら、と夢想せずにはいられません。いやあ、贅沢でしょうかねえ・・。

以上、僭越ながらコメントさせていただきました。笑って読み流してもらえれば幸いです。
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