中学時代、フォークブームというのがあって、ご多分に洩れず僕も家にあったヤマハFG‐180というのを弾き出した。兄貴が体育の授業中、骨折してしまい、その見舞金で買ったもの。名誉の負傷だ。
みんな同じようにストロークしたり、せいぜいアルペジオ、スリーフィンガーぐらいだった時、ラジオから聴こえてきたのはKBSラジオ「チャチャヤング」高石ともやとナターシャーセブンだった。高石のギターにバンジョーとフラットマンドリン、絡み合う音がすごく新鮮だった。
カーターファミリー・ピッキング、ブルーグラスという音楽もその頃知った。ご本家の音源をかけて、スタジオに降り、すぐさま生楽器で同じ曲を演奏してみせた。
73年だったか、梅田花月でナターシャとザ・パンダ(小染、文珍、八方、きん枝)のジョイントという変なコンサートがあり、生で初めて見た。たった3人で出す多彩な音、その舞台の鮮やかさにショックを受けた。
バンジョーを買おうと思ってたら、一緒にフォークをやり始めていた仲間に出し抜かれ、しょうがなくマンドリンを手に入れた。教則本も何にもない時代、とにかく手探りでやるっきゃなかった。コードも勝手に自分で作った。たやすく情報を得られる今より、一つ一つの解明が喜びとなったし、同志を見つけるとなんのてらいもなく声をかけられた。
もう一人、アメリカ民謡などに日本語の歌詞をつけて歌っている人に遭遇した。高田渡。拓郎がDJをしていた「バイタリス・フォークビレッジ」というラジオ番組で知ったように思う。なんか枯れた感じの中にユーモアがあって、土壁のごとき匂いのする歌にやられた。URCレコードの1枚目、五つの赤い風船と高田渡のカップリングのLPもすぐ買った。千里の毎日放送で録音されていた。
我々の時代、拓郎からかぐや姫、陽水、アリスなどと歩んで行く者の多かった中、なぜか時代に逆行してしまい、高石、高田、岡林信康、中川五郎…とプロテストフォークなどの中へ。ピートシーガー、ウディ・ガスリーを知る。カントリージェントルメンを知り、ブルーグラスへとすそ野が広がっていった。
高校の国語の授業で詩を書く時間に、高石氏の「谷間の虹」という歌を書いて出したら、「きれいな言葉ばかりをちりばめただけで、内容がない」みたいにクサされた。しまった、高田渡の詩にしとけばよかったと気がついた時には後の祭り。
その辺りから、高石の歌とは少し距離ができたように思う。
高石、岡林はプロテストソングを歌い、フォークの神様だのなんだのとマスコミに祀り上げられ、正直しんどかっただろう。ケッタイなアマチュアリズムを突き付けられ、自由に歌も歌えなんだ。岡林はキューバで砂糖狩りにといってドロンし、高石も行き場を求めてアメリカに行くしかなかった。そのダメージは後半の音楽活動に長く尾を引くことになった。
その一方、高田渡は吉祥寺「ぐわらん堂」を根城に、あいも変わらず、自分の身の丈にあった歌、生活に根差した目線の歌を作り、旅から旅へと歌い続けた。時代に左右されることなく、その辺は実に頑固であり続けた。結果、渡氏は路線を変えることなく、自分のうた世界を形成してゆく。
高石氏はどういうわけかマラソンに夢中になり、ナターシャの連中も走らされて大変とか聞いたことがあった。そんな中、木田高介・坂庭省吾亡くなり、城田じゅんじは愛人を殺めてしまうという奇怪なことになってしまった。そは偶然か・・・。はたまたバンドの人間関係に何らかの遠因があるのだろうか。
後年、映画「タカダワタル的」などができて、一筋に歌い、若い人に再評価された渡さんを見て、高石氏はホントに羨ましそうだった。たぶん、壮大なメッセージではなく、たかだか自分の足元のことを歌った歌にこそ、人々の胸の内にひょいと入って行ける柔軟な強靭さがある。気付いてはいても、そう簡単にスタイルを変えることなんてできない。
渡さん亡き今、ともや氏はやっぱり一人でギター提げて、あちこち旅して歌っている。
このごろ、渡氏がNHKのシリーズで“民衆の歌”とか“本当のフォーク歌手”とか言われているそうだが、そういう声高にものをいうのを嫌っていたのが渡氏である。「自衛隊に入ろう」で知られる…なんてのも嫌でしょう。飄々と志ん生のように好きなように語り、かつ歌う。一杯やって寝ちまう。もっと自由なもんだ。そいつをNHKっぽく語ろうとすると、硬直して、なんだか様子が違ってしまう。早い話、人間って英雄にしてしまうと、ろくなことになりゃしねえ。
(下2枚はHPなどから拝借。謹んで御礼申し上げまする)
みんな同じようにストロークしたり、せいぜいアルペジオ、スリーフィンガーぐらいだった時、ラジオから聴こえてきたのはKBSラジオ「チャチャヤング」高石ともやとナターシャーセブンだった。高石のギターにバンジョーとフラットマンドリン、絡み合う音がすごく新鮮だった。
カーターファミリー・ピッキング、ブルーグラスという音楽もその頃知った。ご本家の音源をかけて、スタジオに降り、すぐさま生楽器で同じ曲を演奏してみせた。
73年だったか、梅田花月でナターシャとザ・パンダ(小染、文珍、八方、きん枝)のジョイントという変なコンサートがあり、生で初めて見た。たった3人で出す多彩な音、その舞台の鮮やかさにショックを受けた。
バンジョーを買おうと思ってたら、一緒にフォークをやり始めていた仲間に出し抜かれ、しょうがなくマンドリンを手に入れた。教則本も何にもない時代、とにかく手探りでやるっきゃなかった。コードも勝手に自分で作った。たやすく情報を得られる今より、一つ一つの解明が喜びとなったし、同志を見つけるとなんのてらいもなく声をかけられた。
もう一人、アメリカ民謡などに日本語の歌詞をつけて歌っている人に遭遇した。高田渡。拓郎がDJをしていた「バイタリス・フォークビレッジ」というラジオ番組で知ったように思う。なんか枯れた感じの中にユーモアがあって、土壁のごとき匂いのする歌にやられた。URCレコードの1枚目、五つの赤い風船と高田渡のカップリングのLPもすぐ買った。千里の毎日放送で録音されていた。
我々の時代、拓郎からかぐや姫、陽水、アリスなどと歩んで行く者の多かった中、なぜか時代に逆行してしまい、高石、高田、岡林信康、中川五郎…とプロテストフォークなどの中へ。ピートシーガー、ウディ・ガスリーを知る。カントリージェントルメンを知り、ブルーグラスへとすそ野が広がっていった。
高校の国語の授業で詩を書く時間に、高石氏の「谷間の虹」という歌を書いて出したら、「きれいな言葉ばかりをちりばめただけで、内容がない」みたいにクサされた。しまった、高田渡の詩にしとけばよかったと気がついた時には後の祭り。
その辺りから、高石の歌とは少し距離ができたように思う。
高石、岡林はプロテストソングを歌い、フォークの神様だのなんだのとマスコミに祀り上げられ、正直しんどかっただろう。ケッタイなアマチュアリズムを突き付けられ、自由に歌も歌えなんだ。岡林はキューバで砂糖狩りにといってドロンし、高石も行き場を求めてアメリカに行くしかなかった。そのダメージは後半の音楽活動に長く尾を引くことになった。
その一方、高田渡は吉祥寺「ぐわらん堂」を根城に、あいも変わらず、自分の身の丈にあった歌、生活に根差した目線の歌を作り、旅から旅へと歌い続けた。時代に左右されることなく、その辺は実に頑固であり続けた。結果、渡氏は路線を変えることなく、自分のうた世界を形成してゆく。
高石氏はどういうわけかマラソンに夢中になり、ナターシャの連中も走らされて大変とか聞いたことがあった。そんな中、木田高介・坂庭省吾亡くなり、城田じゅんじは愛人を殺めてしまうという奇怪なことになってしまった。そは偶然か・・・。はたまたバンドの人間関係に何らかの遠因があるのだろうか。
後年、映画「タカダワタル的」などができて、一筋に歌い、若い人に再評価された渡さんを見て、高石氏はホントに羨ましそうだった。たぶん、壮大なメッセージではなく、たかだか自分の足元のことを歌った歌にこそ、人々の胸の内にひょいと入って行ける柔軟な強靭さがある。気付いてはいても、そう簡単にスタイルを変えることなんてできない。
渡さん亡き今、ともや氏はやっぱり一人でギター提げて、あちこち旅して歌っている。
このごろ、渡氏がNHKのシリーズで“民衆の歌”とか“本当のフォーク歌手”とか言われているそうだが、そういう声高にものをいうのを嫌っていたのが渡氏である。「自衛隊に入ろう」で知られる…なんてのも嫌でしょう。飄々と志ん生のように好きなように語り、かつ歌う。一杯やって寝ちまう。もっと自由なもんだ。そいつをNHKっぽく語ろうとすると、硬直して、なんだか様子が違ってしまう。早い話、人間って英雄にしてしまうと、ろくなことになりゃしねえ。
(下2枚はHPなどから拝借。謹んで御礼申し上げまする)