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埼玉障害者市民ネットワーク総合県交渉

2016-09-01 | 風の備忘録 

毎日新聞 8月31日埼玉県版朝刊 
県庁に4日間、教育長に直接主張

 台風10号の接近で朝から 雨が降りしきった30日、さいたま市浦和区の県庁に、
車いすに乗った人たちが続々と集まってきた。
障害者やその家族、支援者が行政への要望を伝えるため、
28年前から続けている「総合県交渉」に出席するためだ。
会場となった県庁内の講堂には100人近くが詰めかけ、約20台の車いすが並んだ。  
冒頭、今回の要望書をとりまとめた

埼玉障害者市民ネットワーク代表の
野島久美子さん(58)=春日部市=がマイクを握ってあいさつし、
続けて山下浩志さん(73)=同=がスクリーンにスライド画面を映し出した。

示したのは、棒グラフ。1979年の養護学校義務化の時点から、
養護学校や特別支援学校などで「分ける教育」を受けて福祉施設に入所した人が、
倍以上に膨れあがった状況を表していた。「(障害者を受け入れる)福祉施設がこれだけ増えると、お金がかかる。
そうすると『(障害者は)金食い虫だ』という発想になり、
津久井やまゆり園のような状況が、社会の中に生まれる」。
山下さんは、社会に大きな衝撃を与えた「やまゆり園事件」を引き合いに訴えた。

  ◇   ◇ 

 知的障害のある少年の高校入学を求め、
初めての「県交渉」が行われたのは1988年2月。
この時、山下さんはすでに未来を予見し、県教育委員会の担当者に次のような手紙を送っていた。

 <障害が重ければ重いほど、
大人になってからその人のケアをやろうとすれば莫大(ばくだい)な費用がかかります。
そういうムダをするよりは、義務教育で、
そして高校で、さらには自治体行政の中で、共に学んだり、
働いたりする関係を広げていく努力のほうがずっとたやすいはずです>
 この時、結局、少年らの入学はかなわず、3カ月後には少年らやその家族、
支援者が知事や教育長との面会を求めて知事応接室に居座り、
4日間にわたって「占拠」する事態に発展した。この中に野島さんと山下さんがいた。
3日目の夜、ようやく姿を現した教育長を前に、脳性まひの野島さんが、
車いすを使用しながらアパートで一人で暮らしてきた経験を説明し、
障害者が「普通に」暮らす意義を主張した。
「こんな小さなことの話を、あんた方が、大きく大きくしちゃってるんですよ」 この「占拠事件」から28年。
野島さんは「(障害者のための)制度が整って、
サービスも充実したけれど『分ける』システムはなくならず、
障害者は今も見えないベールに包まれている」とため息をついた。 
 ◇   ◇ 
 先月26日、相模原市で障害者19人が刺殺される事件が起き、差別や偏見の問題、
「障害者が生きづらさを感じない社会の在り方」が改めて問われている。
県内には重い障害を持ちながら、施設入所や特別支援教育といった「分ける」システムを拒み、
健常者と同様に街の中で暮らす人たちがいる。彼らが目指すものは何か。
約四半世紀前に起きた「知事応接室占拠事件」を出発点に考える。
【奥山はるな】=つづく
 農業機械化で仕事も奪われ 1988年5月11日、毎日新聞
車いすを先頭にした一団が、知事や教育長との面会を求め、県庁本庁舎2階の知事応接室にこもった。
集まったのは中学校を卒業し、県立高校への進学を希望した知的障害のある少年3人と、
その夢を後押しする家族や支援者。
「知事も教育長も出てこないから待つことにした。

占拠するつもりはなかった」。
行動を主導した1人、山下浩志さん(73)=春日部市=は、ひょうひょうと振り返る。
 山下さんは60年代中ごろから、医学連(全日本医学生連合)委員長として学生運動に関わった後、
東京都内から春日部市に移住し、77年ごろから隣の越谷市に養護学校をつくる運動に加わった。
しかし養護学校が整備されたことで普通学級に通う障害者への圧力は強まり、
79年に養護学校が義務化された。
 こうした流れの中で山下さんは疑問を持ち始め、
78年に「障害のある人もない人も共に街に出て生きよう」を合言葉に、
障害者や支援者でつくる「わらじの会」を設立した。
 養護学校が義務制になっても通常の小中学校に通い続けた障害のある子どもたちが、
高校に入学するはずの年を迎えたのが88年。前年の秋から入学に向けた交渉を続けていたが、
入学できないままに新年度が始まってしまった。
「占拠」は最後の手段だった。
当時の知事は革新県政を掲げた社会党出身の畑和(やわら)氏。
「簡単には排除されないだろう」との目算もあった。
4日間の占拠の意義について、山下さんは「障害者が生身の人間として、
その場に存在したこと」だと考えている。知事応接室のソファは障害者やその家族、支援者で埋め尽くされ、子どもたちが跳びはねて遊んだ。
 一同は「総点検行動」と称して各課を回った。駅へのエレベーター設置や、
車いすでは入れないほど狭い県庁内のトイレの改善を求めた。
県庁正面玄関の真上にあるバルコニーで車いすの人たちがひなたぼっこをしていると、
職員が「警告書」を手に入ってきたが、結局は退散した。
 知事が現れないまま迎えた3日目の夜、教育長がようやく知事応接室に来て、
「(小中と同様に通常の高校への)自主通学を続けられる方策を検討したい」と回答した。
 こうした運動を下支えし「占拠」にも参加したのが、
障害ゆえに義務教育を受けられず、
30代まで越谷市の農家の離れにこもっていた新坂光子さん・幸子さん姉妹だ。
「占拠」から2年後(90年3月)の「県交渉」。
ストレッチャーに横たわる姉・光子さんの語りを支援者が書き取り、県庁の壁に張り出した。
 <おれらは ねんきんきり(年金しか) はいらねえ だから おやたちに みてもらってきた> 
 姉妹はかつて、豆の殻むきや裁縫を任せられていた。
しかし農業の機械化が進むと仕事を奪われ「ごくつぶし」の存在とされた。
わらじの会は、そんな姉妹が街に出て、自活できるよう寄り添った。 
<いま みんなで まちにでたり はたけ やったりして がんばってる>
<おれらも まちで みんなとくらしたい ちじさん かんがえてくんろ>
 半年後の90年9月に光子さんは急逝。その語りは遺言のように、支援者の間で語り継がれている。=つづく

■ことば  養護学校の義務化
かつて義務教育の対象とされていなかった重度・重複障害のある子どもに対応するため、
国は1973年の政令で、79年4月から養護学校への就学を保護者に義務づけた。
これにより全国に養護学校が整備されたが、
慣れ親しんだ地域の小中学校への通学を望む子どもや保護者からは反発が起こった。
学校教育法の改正で2007年4月、養護学校は盲学校やろう学校と合わせて「特別支援学校」に移行。
県によると、義務化された79年度の県内の養護・盲・ろう学校の生徒数は2727人。
昨年度の特別支援学校の生徒数は7179人に達し、大きく増加している。

 


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