著者:鬼頭秀一 東京大学大学院教授。環境倫理学。NACS-J参与。
3・11の東日本大震災とそれに伴う福島第一原発の事故は、
自然保護の視点からも原子力利用というものが、
自然保護が今まで目指してきたことと深く関係し、
かつ自然保護とは相いれないということが改めて明らかになったように思われる。
その原発の「被害」とは何か、
福島の現場を歩きながら明らかになったことを
ここで改めて整理して考え、書き記しておきたい。
「里やま」を根源から破壊してしまった原発事故
昨年の5月下旬、
原発事故のため計画的避難区域に指定された
福島県川俣町から浪江町、飯舘村を歩きながら、
典型的な日本の里やまの新緑の美しさの中、さまざまな野鳥がさえずりながらも、
人がまったく誰もいないという光景を目の当たりにした。
まさに、別の意味で「サイレント・スプリング」である。
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写真:2011年7月末にも訪れた飯館村。
人の影はなく、田は草原と化していた。
この「里やま」は
人の営みがあってはじめて良好な生態系が維持できている。
川俣町で阿武隈山系に「生きる」方から、
「今年の山菜はうまぐねぇ」という言葉を聞いた。
山菜を採るという「営み」が単に食料資源のみならず、
近所の人や子どもや孫、そして、私たちのような外部者に対して、もてなすもの、
つまり非貨幣的な交換、相互扶助など、
さまざまな人と人とを結ぶ絆そのものとして機能し、
自然とかかわる重要な役割をしていたことに改めて気づかされた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/a7/e730492a0661b07130f8c55d40d6dd5a.jpg)
写真:川俣町や浪江町ではニホンミツバチの養蜂も盛んだった。
「里やま」を守るということは、
そこの自然環境を守るだけでなく、「里やま」にまつわる私たちの暮らし、
そして、そこにおける人と人との絆を守ることでもあった。
そして、原発事故に由来した放射性物質汚染は、目に見えない形で、
「里やま」における人と自然とのふれあい、人と人の絆を破壊してしまった。
放射線被曝は生態系のさまざまな生物にも確実に影響を与えることが予想されているが、
健康被害に至る以前に、
そこで暮らす人の暮らしのほとんどすべてを破壊してしまった。
里やまの「除染」など、気が遠くなる現実が横たわり、
数十年にわたって「里やま」を破壊し続ける
甚大な放射線被曝の問題を引き起こす原子力利用は、
自然保護の視点からしても根本から再考せねばならない。
自然の「不確実性」をしっかり見つめるところにこそ「自然保護」がある
しかし、今回のような事故は起きる確率が低く、
科学の進歩により安全な原発を生み出すことでこうしたリスクは解決可能だとして、
原子力利用をまだなお続け、
海外にも原発を輸出するという無謀なことを考えている人たちがいる。
しかし、20世紀に高度に進歩したといわれる科学技術を持ちながらも、
わたしたちを取り巻く自然環境には、
科学の進歩では解決しないような根源的な「不確実性」があるということを、
私たちは認識しはじめてきた。
今回の津波では、
科学技術の粋を集めてつくった盤石と思われた堤防も、
大波が軽く乗り越え破壊してしまった。
このような事態の中で、
科学技術の力で自然をねじ伏せ、思いのままにしようとする、
近代の人間の自然との関係性のあり方は根本的に再考せざるを得なくなった。
技術はそもそも、
限定された枠の中でしか不確実性を排除することができず、
100%完璧な技術は原理的には存在しない。
何らかの形で必ず「事故」というものと付き合う覚悟がなければ、
「技術」を使いこなすことはできない。
ところが原子力発電などの原子力利用の技術は、
いったん事故が起こると広範で時間的射程の長い「被害」を引き起こしてしまう。
存在し得ない「100%安全」を前提しないと存在してはいけない「技術」である。
人間が自然を思い通りにし、
一方的な形で経済的な便益だけをそこから得ようとすることに対して、
そもそも「自然保護」は、
わたしたちの知らない自然の不確実な部分も含めて
システムとして全体を大事にしていかないと
わたしたちの生活自体豊かなものにならない、
ということを認識することから、活動が始まってきたのではないだろうか。
自然の持つ不確実性と真摯に向き合い、
付き合うことの必要性が、「自然保護」の根幹にあったのではないか。
その意味では、自然の不確実性を甘く見て、
不確実性をなくさなければ成立しない原子力利用「技術」は、
わたしたちが求めてきた「自然保護」の世界と最も対極にあり、
あってはいけない「技術」なのである。