空をみながら

 地球規模、宇宙規模で考える。死角のない視野の獲得。憲法9条を守ろう。平和のための最高の武器だと思う。

和歌山カレー事件に思う

2009年04月22日 07時11分09秒 | 思考試行
和歌山カレー事件は、最高裁でも死刑となった。証拠が客観状況の積み重ねで、動機がハッキリしないという。本人は冤罪だという。最初からそう主張してきたという。一度も自白したことがないらしい。

来月から、裁判員制度が始まる。まさに、このような事件こそ素人の常識が生かされるような事件ではないかとも思う。

人間とは何か。事件は、それを示す。カッとなって、なんであんなことをしたのだろうか、とか、デキゴコロだった、とか、本人も後になって説明できないような事もある。

昔の冤罪というのは、事件の解決をあせった、警察の思い込みで、あるいは、恣意的に犯人とされて自白を強要され、その苦しさから虚偽の自白をしたという例が多い。

その後、粘り強い努力で、新証拠を発見し、再審請求が認められて、自白の矛盾が明らかとなり無罪となった例が、相次いだ。

捜査段階では、否認から自白、そして裁判では否認するも認められない、という流れである。

新しい証拠が生まれなければ、まず、再審は受け付けられない。そして、再審で無罪になった人は、関係者の粘り強い調査などの努力が、必ずその背景にある。

警察権力のいい加減さ、支配者側の論理、目橋をつけた者を、犯人に仕立て上げるぐらいは、容易なことであったのだろう。検挙率を誇りたいという動機もあっただろう。冤罪事件が、数多く生まれていた。

今回の事件をみるとき、一度も自白していない。警察のゴリ押しがなかったことを証明する。動機も不明としている。本人が自白しないかぎり、それは推測にすぎないのだから、立証などできるはずもない。

そして、一審では、裁判の場でも、完全黙秘であったという。

政治弾圧のふきあれる時代に、口を開けば、捻じ曲げられる時代にあっては、一切の黙秘は戦う手段であった。そこには、ひどい拷問が背景にあって、その拷問に対しても黙秘で戦うという意思を示すことは、裁判制度を認めない政治犯の権力に対する姿勢であった。

黙秘権を認めたのは、取調べで、あるいは、裁判で、拷問ができないようにする、あるいは、言いたくない権利も認めるということである。彼女は、何のために、黙秘したのか。単に権利であるからというのは、解答にはならない。

町内会の祭りで、カレーに砒素が混ぜられた。事件の背景は、どこにあるのか。
なぜ、一審で裁判の場においても、黙秘したのか。一切自白はない。だが、周辺の客観状況は、方向を指し示す。だれかがやったのは間違いない。

夫の下に届いた、封筒に「HELP ME」とピンク色の大きな文字で書かれた手紙を、夫が、報道のカメラに示していた。夫も静かに、犯人でないと否定する。かつて、砒素中毒があったという夫は、すこぶる健康そうであるのが印象的である。

静かに否定してみせる、そういう姿勢が、唯一平静を保てる手段にみえる。ピンクの大きな文字が、これも何事かを語っている。人間とはなにか。